やはり名実共に代表曲はショパンとドビュッシー?
音響のエチュード~ショパンからドビュッシーへ
ショパンが1831年にパリに出てきたとき、カルクブレンナーに「自分のところで3年間修行したらひとかどのヴィルトゥオーゾにしてやる」と言われ、一時期その気になったというのは、おもしろい。彼のピアニズムの精髄を集めた『練習曲集』作品10は、出版こそ2年後だが、ワルシャワ時代に書き始められ、ウィーンでほぼ完成されていたのだから。
のちにショパンは、上流階級の子弟への指導を通じて独特のピアノ理論を伝達していったが、その教えは、エーゲルディンゲル著『弟子から見たショパン』に記されている。「指の力を均等にするために、今までに無理を練習がずいぶんおこなわれてきた。指の造りはそれぞれに違うのだから、その指に固有なタッチの魅力を損なわない方が良く、逆にそれを充分活かすよう、心がけるべきだ」と主張する彼は、長い指を黒鍵、短い指を白鍵に置く画期的な練習システムを開発した。
同じ発想から彼は、すべての指が同一平面上に置かれるハ長調の音階は「まったく支点がないのでもっとも難しい」と言い、♯や♭の多いロ長調や嬰ヘ長調、変ニ長調から練習をはじめるようにすすめた。教材に使ったクレメンティの練習曲でも、変イ長調のものをまず弾かせたという。ショパンの作品に♯や♭のたくさんついた調子が多いのは、こうした考え方と無関係ではあるまい。
パリ時代の初期に書かれる作品25ほどではないにせよ、作品10の練習曲集でも、ショパンのピアニズムの独自性ははっきりとあらわれている。たとえば、第8番。中間部分には、長い指を黒鍵に、親指を白鍵に置いた音型が出てくる。冒頭ではすべての指が白鍵上、つまり同一平面上に置かれているが、やはり立体交叉として扱い、連続して弾かれる4、3、2とそれを運ぶ親指の動きをわけて考えると、なめらかに弾くことができる。
となりあった指の連続奏法も、ショパンの特徴のひとつだった。ミクリによればショパンは、均等な音階やアルペッジョは「手の横の動き――の力を完全に抜いて、いつも自然に落とす――ぎくしゃくしない、むらなく滑らかな動きによって達成される」と説き、コツを教えようとしてグリッサンドで鍵盤を端から端まで弾いて見せたという。グリッサンド、すなわち、重さを支える支点の移動である。
ショパンのもうひとつの独創性は、響きそのものを素材として考えた点にある。作品10-11のアルペッジョの練習曲は、いかに楽器から美しい響きを弾き出すか、ということを眼目とした〈音響のエチュード〉にほかならない。響きを演出するのは、繊細微妙なペダリングである。「ショパンのペダル感覚はすばらしいものであった。ヴェールをかぶせたような柔らかい響きを出すのに、両方のペダルを組み合わせて使うこともよくあったが、それ以上にブリランテなパッセージや、息の長いハーモニーや、深い響きの低音や、鋭くて輝きのある和音には、2つのペダルを別々に用いたのである。さらにはウナ・コルダのペダルを用いて軽く微かな音を出し、細かいレースのようにメロディーを飾るアラベスクのまわりに、透き通った霧のような雰囲気を漂わせるのである」(マルモンデル)
指の立体交叉、重心の移動、音素材としての響きといったショパンの考え方は、そのままドビュッシーに受けつがれている。1871年にピアノの稽古をはじめたドビュッシーは、モーテ夫人という上流階級の教師に手ほどきを受けた。モーテ夫人がショパンの弟子であったかどうか確証はないそうだが、私は、ドビュッシーの『12の練習曲』第1番『5本指のための』から、それを確信している。この作品は「チェルニー氏に倣って」というただし書きがついているが、皮肉屋の作曲家の言葉の裏を読まなければならない。
冒頭部分のハ長調のパッセージは、常にハ長調ではじまるチェルニーなどの練習曲を嫌っていたショパンの考えをそのまま踏襲したものである。中間部には、ショパンの考案した練習システム、ミ、ファ♯、ソ♯、ラ♯、シに当たる音型が見られる。これも、『12の練習曲』をショパンに捧げたドビュッシーが、モーテ夫人を通じて秘法を伝授されていることの無言の告白かもしれない。さらに、結尾部分での素早い音階は、作品がハ長調なのだから普通はハ長調になるはずなのに、わざわざショパンが「もっとも弾きやすい」とした変ニ長調で書かれ、ハ長調の主和音でしめくくられている。
ショパンからドビュッシーに至る流れをもっとも顕著にあらわしているのは、『8本の指のための』だ。曲集の冒頭に、わざわざ「指使いを自分で見つけよう」と書いたドビュッシーだが、この作品では、例外的に「親指の使用はことを複雑にするだけだ」と記している。親指と他の四指の動きを切り離す……そう、ショパンの作品10-8と同じ発想である。
ドビュッシーの『12の練習曲』は、ショパンのピアノ曲全集を校訂する過程で生まれた。しかし、ドビュッシーの目的は、ショパンのピアニズムを近代に移しかえることではなく、彼のピアノ言語を作曲言語に転換させることにあった。そのことは、『3度のための』や『6度のための』など重音の練習曲をみればわかる。ショパンは、あくまでも指の分離、すばやい重心の移動のために重音の練習曲を書いたとみるべきだろう。ドビュッシーは、その結果出てきた美しい《響きの帯》に注目し、新たな音素材として考えた。
『6度~』を作曲中の彼は、出版者のデュラン宛ての手紙で、「私は、今まで舞踏会の壁の花のようだったこの響きを新たに活用しようと思った」と書いている。同じ重音でもショパンが扱っていない『4度のための』は、ドビュッシー独自の音楽体験から生まれた練習曲である。ローマ留学から帰ったころ、ドビュッシーはパリで開かれた万国博覧会でジャワのガムラン音楽に接し、深い感銘を受けた。『版画』の「パゴダ」の4度の連なりに、ガムラン音楽からの影響をみる人は多い。ドビュッシーは、音響素材としての4度の音程を、デーマ性のない、純粋な器楽曲でもう一度扱おうとしたのである。
その他、『オクターブのための』はショパンの作品25-9や10、『半音階のための』は作品10-2、『アルペジオのための』は作品25-1に相当するだろうか。シューマンは、『エオリアンハープ』の通称をもつ25-1を聴いたとき、「ひとつひとつの音が聞こえると思うと間違いで、細かい音がペダルで混ぜられ、それがひとつの響きとなって伝わってくる」と評した。ペダルで細かい音を混ぜて《響きの帯》をつくるドビュッシーの作曲技法も、リストとともにショパンのピアニズムにも端を発している。
いっぽう、ショパンに拠らない練習曲も見受けられる。18世紀のクラヴサン音楽に魅せられていたドビュッシーは、作品を「クープランに献呈しようか、ショパンにしようか」と迷っていた時期がある。たとえば「装飾音のための」は、クラヴサン音楽の華麗な装飾音、小節線で区切られない自由なファンタジーに対する彼のノスタルジーをあらわしている。「反復音のための」も、クラヴサンの軽やかなタッチがくりひろげる急速な連打音、そこから生まれるリズムの浮遊感、躍動感を再現しようとした作品だろう。
しかし、なんといっても画期的だったのは、「対比音のための」である。深い響き、鋭い響き、輝く響き、くぐもった響き、透明な響き、濁った響き。さまざまなタッチのバリエーションが、それぞれの層を形作り、全体としてひとつの音響宇宙を形づくる。ルーツはおそらくガムラン音楽で、さまざまな音楽がそれぞれの響きを保ち、まざりあうことなく空間に漂っているさまからヒントを得たものと思われる。それはまた、ショパンが先鞭をつけた〈音響のエチュード〉の大胆な発展でもあった。