【特集】「大学院ってどんなところ?」(ショパン 2004年7月号)

博士課程を修了してみてわかったこと

自分の直感を証明するために

大学院といっても私のケースはとても特殊なので、あまり参考にはならないと思うが、とにかくお話してみよう。

私が東京芸大の大学院修士課程に進んだとき、まだ博士課程はなかった。音楽学の修士ではないので、論文と言っても中学のレポート程度、日本語の文献だけを読んで書けばよく、たしか三十枚ぐらいだったように記憶している。

そのときドビュッシーの論文を書いたわけだが、何かについてつきつめて考えるというのは快感で、やみつきになってしまった。修了後はフランスに留学し、四年間滞在した後にデビュー・リサイタルを開いた。

ピアニストとしての活動が始まったわけだが、論文を書いていたときの幸せな気分は忘れられなかった。もともと私はモノ書き志向だったのだが、創作能力に欠けるので、詩や小説が書けない。何かについて調べて書くなら、きちんと指導を受けた方がいいとの、恩師安川先生のご判断で、開設間もない博士課程への再入学を考えた。

安川先生のご紹介で、音楽学の船山隆先生にお話を伺いに行った。まず、論文を書くノウハウを何も知らないことに驚かれ、さらに、ドビュッシーを研究するにもかかわらず、外国の文献を何も読んでいない、読んでいないどころか存在すら知らないことに驚かれ、話にならない、という感じだった。入学試験まで三ヶ月ぐらいしかなかったが、あまりに悔しかったので、先生が名前をあげて下さった主要文献や、アメリカの博士論文にもあらかた目を通して小論文と口頭試問に臨んだ。

このときは、ちょっとびっくりされた。もともと我々ピアノ科は集中して勉強するのに慣れているし、テキストを一瞥して内容をすばやくとらえる訓練も積んでいるから、さほど苦にはならなかった。

結果は、無事合格。修士課程修了後八年もたってからの再入学で、自分が教えた生徒たちと一緒に入学式に出席した。

論文を書くときに一番大事なのは、オリジナルということだ。他の人が手をつけていないテーマ、立証していないことを探す。これは、誰かのように弾くことを、むしろ奨励されるピアノ科には新鮮な驚きだった。というより、何を弾いても人と違ってしまってそれを苦にしていた私は、なんだ、オリジナルでいいんだ、と明るい気持ちになったことをおぼえている。

博士課程に進んだ年に結婚して子供ができたので休学、その後遠山財団の奨学金をいただいて七ヶ月間パリに滞在、パリ国立図書館で資料研究を行った。当時の音楽部門の館長ルシュール氏はドビュッシーの資料研究の第一人者で、ずいぶんお世話になった。

博士論文を提出したのは平成元年度だったと思う。論文の口頭試問では、先生方が否定派と肯定派の二手に別れ、それぞれの質問に対する反応を見て審査するという方式らしいが、口頭試問の経験がない私は、否定派にまわった先生に対してえらく腹を立てたものだ。ことほどさように門外漢でトンチンカンなことばかりだった。

博士課程修了後六年ほどたって、論文の内容を読み物風に書きあらため、『ドビュッシー:想念のエクトプラズム』(東京書籍)という本を上梓した。もともと論文を書いた目的が本を出すことだったので、やっとスタートラインに立てたという気持ちだった。

博士課程を受験しようと思ったとき、実は船山先生にずいぶん反対された。私のエッセイをほめて下さった先生は、論文を書いたら文章が固くならないか、芸術面でマイナスにならないか、と心配して下さったのである。学者ピアニストというイメージがキャリアーの支障にならないか、とも。

結果的には、私は研究していても、学究肌どころか、行き先は指にきいてみないとわからないようなピアノ弾きだし、文筆の方も、固いものから柔らかいものまでいろいろ書いている。つきつめて論じるのも好きだし、さっと即興的に流して書くのも、固く書くのもふざけて書くのにも対応できる。最近は小説にもトライしている。これがまたなかなか楽しい。このあたりも、作曲家に合わせて自分を切りかえる演奏家特有の資質で、全然心配していただく必要はなかったと思う。でも、心配していただいたことには感謝しています。

演奏する作品や作曲家について研究をしないと絶対によい演奏ができないということはないと思う。リヒテルにしてもアルゲリッチにしても、たとえばドビュッシーについてはそれほど突っ込んだことは知らないと思うが、たぐいまれな直感で核心に鋭く切り込んでくる。私の研究の目的も、自分の直感を証明するためだった。自分なりにこうだと感じるように弾いても、周囲に理解されない。そのとき、解釈の具体的な裏付けを示したかった、というのがある。あたりをつけた通りの資料が出てきたときは、嬉しかった。

私が学生のころは大学院はあまり人気がなかったが、このごろは博士課程に進む学生さんも増えてきたし、一般大学で学んだ方が演奏家として活躍するケースも増え、だんだん境界線がなくなってきた感じだ。私が専任をつとめている(といっても、年に十回通っているだけだが)大阪音楽大学でも、修士論文指導に力を入れるようになってきた。

演奏家は幼いころから先生に師事するので、どうしても他力本願、受け身になりがちだが、自分の解釈を自分で選びとろうとする姿勢が主流になるのは、本当にいいことだ。

しかし、学問と芸術の境界線までなくなることはないと思う。学術的な意味で立派な研究をしようと思ったら、資料的な裏づけがないと何も言えない。創造の一番のポイントとなる霊感は、なかなか学術的アプローチだけではとらえきれない。

学問的な精度をめざすのか、あくまでも演奏解釈に役立てるというスタンスで研究するのか──。演奏畑の学生さんが研究に従事なさる場合、いつもこの問いかけを忘れないでいていただきたいと思う。

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