【連載記事】「とっておき私の京都 第2回」(週刊新潮 2005年12月1日号)

私の京都 とっておき 勧修寺

とっておき私の京都 第2回1

皇族や摂関家の子弟が出家して居住する寺院を、門跡寺院と呼ぶ。山科の里に佇む古刹・勧修寺もそのひとつ。嵯峨天皇の勅願により、母藤原胤子の菩提を弔うために創建された。白壁の続く参道に導かれ、寺域に入ると、大正天皇の住まいを移築した宸殿や明正天皇の旧殿だった書院など皇室ゆかりの建物が姿を現す。「華美さはないけれど、優雅な落ち着いた雰囲気を醸し出していますね」と話すのは、ピアニストの青柳いづみこさん。庭園の中心は、約6600㎡もの広さを持つ「氷室の池」だろう。平安時代、池に張った氷を宮中に献上したことから、そう命名された。五月に杜若、六月には花菖蒲が池畔にそよぐ。初夏になると睡蓮の出番だ。池一面が薄紅色に染まる様子は、まさに圧巻。印象派の巨頭・モネの名画を彷彿とさせる。折悪しく篠つく雨に見舞われた青柳さんだが、池の汀で、「春には桜、秋には紅葉、冬の雪景色だって捨て難い。四季折々の表情が楽しめます」と笑みの大輪を咲かせる。

その青柳さんが当寺院贔屓なのには、理由がある。「京都帝大で医学を学んでいた母方の大叔父の日記を読むと、明治40年末、トルストイ的菜食主義・捨身生活を実践するべく、勧修寺の鎮守だった八幡社境内の廃屋を借りたことが分ります」。青年の名を宿南昌吉という。『三太郎の日記』の阿部次郎や安倍能成などケーベル門下生と交際し、宗教思想家・西田天香に師事した。将来を嘱望されたが、大学病院の助手時代、患者の病菌に感染して急死した。阿部次郎の編集になる遺稿集が昭和9年、岩波書店より刊行されており、その人と思想に触れることができる。奇しくも神社は年一度の祭礼日。夭折した明治の青年に思いを馳せつつ、青柳さんは、「ひやおろし」を一気に飲み干した。撮影・田村邦男

とっておき私の京都 第2回2アクセス
勧修寺/075・571・0048/山科区勧修寺仁王堂町 27-6/東海道新幹線・京都駅下車~JR東海道線・山科駅経由~地下鉄東西線・小野駅から徒歩6分

プラス1
藤原定方墓/勧修寺の南、鍋岡山の西麓にある。定方は歌人として名高い。その父の高藤とこの地の豪族・宮道弥益の娘との間に生まれたのが、藤原胤子。すなわち後の嵯峨天皇の母にあたる。/山科区下ノ茶屋町/東海道新幹線・京都駅下車~地下鉄烏丸線・四条駅から徒歩10分  

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