【特集】「日本の知力」識者に聞く(読売新聞 2008年1月8日朝刊)聞き手・柴田文隆 編集委員

音楽教養と感性の結晶

「人間の知はどのように誕生し、人間はなぜ音楽をするようになったのだろうか」--。欧米のアーティストと話すと必ず、音楽の背景に存在する哲学、宗教と絡んだこういう話が出てくる。日本人にこうした認識がないことを知ると驚かれ、異星人を見るような目で見られることになる。

ピアノでもバイオリンでも、技術的に優れている日本人は国際コンクールで上位入賞する。それなのに世界を舞台に活躍できる演奏家が少ないのはこうした「知の力」の問題があるからだと思う。

日本では専門家をめざす人は音楽大学へ行く。私が4年滞在したフランスでは普通の勉強をする学校(リセ)と平行して、専門学校である音楽院に通い、18歳くらいまでに大学入学資格試験(バカロレア)を受ける。

その後は演奏活動に入るのが普通だが、知的好奇心が強い人は大学へ行って文学や歴史を学ぶ。芸術は「心にしまっているもの」でできているので、理知的な側面が勝ってそれがうまく出せないのは困るが、教養が演奏家にとって邪魔なものとは考えられていない。

中学時代の私も、哲学者スペノザの『エチカ』やドストエフスキーの『罪と罰』を読んだりしていた。教養主義が残る最後の時代だったと思う。高校は親や先生の勧めで東京芸大附属を受験したが、入学してみたら普通の勉強は半日で終わり、友だちとの話題も演奏会と楽器のことだけで、違和感があった。

芸大に進み、演奏家としての自分にコンプレックスを持ち続けていたが、ある日、宗教学の授業で「音楽はもともとソフィア(知)と言って哲学と同じものだった」という話を聞いてびっくりした。哲学は「頭」で音楽は「ハート」だと刷り込まれていたからだ。この言葉はうれしかった。

その後、アドルノ(1903~69年、ドイツ)やニーチェ(1844~1900年、ドイツ)など、作曲や音楽研究したりする哲学者が少なくないことも知った。

音楽、文学、美術などはもともとポエジー(詩情)から発していて、相互に交感可能なものだ。言葉なら詩になるし、音と響きを持てば音楽になる。

モーツァルトはインスピレーション豊かな天才だったが、言語能力も優れ、なおかつ客観的に聴衆の目になってそのインスピレーションを配置しなおす知性もあった。その意味で本当の大天才だった。

私自身はドビュッシー(1862~1918、フランスの作曲家)の研究をするようになって、彼がマラルメ、ヴェルレーヌ、ジイドなどの文学者の仲間であったことを知り、知性と感性がせめぎ合うドビュッシーの研究は自分にしかできない仕事だと思った。

今も音楽と文筆の二足のわらじを履き続けているが、執筆でも「演奏」している感じだ。書こうとするエッセーのテーマそのものが楽譜になって、いろんな言葉が音符のように流れてきて、それを書き留める。まったく違う脳の使い方をしているつもりはない。

日本では、「音楽は感性、知性・教養はそれを抑圧する」という考え方が強すぎる。この通念は変わらないといけないと思う。(談)

2008年1月8日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top