長期の海外滞在から戻ってきたとき、演奏旅行を終えて帰宅したとき、玄関に荷物を置くと、まず阿佐ヶ谷の商店街を歩く。ふっと疲れがとれ、気持ちがやすらぐ。
南口の青梅街道寄りに住んでいるので、中杉通りに出て、パールセンターの中央からはいる。左角は、私が子供のころからある稲毛屋という鳥屋さん。なぜかドジョウも商っている。昔は木、今はステンレスの桶にいっぱいに水をはった中で、大中小のドジョウが空気を吸うために水面に浮かび上がってはまた沈み、その動作をくり返している。いつまで見ていても飽きない。幼いころは、買い物に出るとこの店の前で動かなくて母が困ったそうだ。
パールセンターを左に曲がると駅に行く。キクヤという洋酒店は間口が狭くて奥ゆきがあり、イタリアの店のよう。ときどき店頭のデイリーワインを買う。ここのお嬢さんはウチの娘と小学校の同級生だった。もうお嫁さんに行ったようで、いつかおかみさんが小さな赤ちゃんをあやしていた。
しんかい刃物店も昔からある店だ。おテンバ娘でラジオの赤胴鈴之助にあこがれた私は、刀やナイフが大好きで、この店もいったんはいったらなかなか出ようとしなかった。ショーウィンドーにコインの中に仕込んだナイフを発見したときは興奮した。愛読していた児童小説にそれを使って脱獄するシーンがあったからだ。
ねじめ民芸店は、ご存じねじめ正一さんのお店。パリに行く前、フランス人のおみやげにちょっとした小物を買う。
なくなってしまった店もある。
靴のサトウは、いつも店頭に恰幅のいいおじさんが立っていた。ここの靴は掃(履?)きやすく、デザインも可愛くて大好きだった。竹田屋文具店にはおじさんが二人いて、どんなささやかな買い物をしても丁寧に紙の袋に入れてくれた。
細い路地の奥は、今はパチンコ屋になっているが、昔は台湾料理の店があり、豚の網脂で包んで揚げた春巻きは、つけあわせの大根の漬け物とともに一家の大好物だった。
そのときの食事を愉しんだ父も母も、もうこの世にいない。
生まれたのは世田谷区駒沢だが、三歳半のとき阿佐ヶ谷に引っ越してきた。引っ越し直後の写真がある。家の前の路地は今と変わらず、前かけをかけた母が竹箒で門の前を掃いていて、私が全速力でその前を駆けている。その疾走する快感は今もおぼえている。
祖父は青柳瑞穂というフランス文学者で、私たち一家が地つづきに住んだ阿佐ヶ谷の家は、中央線沿線の文士たちの溜まり場になっていた。井伏鱒二も太宰治も上林暁も木山捷平も外村繁(隣の辻に住んでいたらしい)もこの門をくぐったはずだが、私はその人たちに会ったこともない(私が生まれる前に亡くなった太宰には会えるはずもないが)。
私の阿佐ヶ谷は、たとえば前の路地でさまざまな年齢の子供たちと遊んだゴム段や石けりに象徴されていた。ゴム段はいわば走り高跳びで、ゴム輪をいくつも連ねて高く張り、それを飛び越す。石けりは地面にろう石でいくつもの丸を書き、目的の場所めがけて石を投げる。どうやったら年上の子たちのようにゴム段をうまく飛び越すことができるのか、思い通りに飛んでくれる石はどうやって見つければよいのか、そんなことばかり考えていた。
当時の阿佐ヶ谷は相撲の町でもあった。三年生の夏まで通った杉並第七小学校の目の前は花籠部屋で、学校前の道では、いつもお相撲さんたちが浴衣姿でキャッチボールしていた。ハイティーン小結と騒がれた若秩父は、キューピー人形のようにつるつるの肌をしてた。初代若乃花は洋装に粋なべレー帽をかぶり、自転車を漕いでいた。彼が優勝するとパレードが通る商店街は人でいっぱいになり、買い物ができないと母がこぼしていた。
今は相撲部屋もなくなり、パールセンターを歩いてもお相撲さんのビンつけ油の匂いが漂ってくることはないのだが、それでも私はひまができるとそこを歩き、過去と現在がないまぜになった不思議な空間を愉しんでいる。
祖父・青柳瑞穂のこと
青柳いづみこの祖父であり、仏文学者として知られる青柳瑞穂は、明治32年山梨県生まれ。堀口大学に師事し、フランス印象派の影響を受ける。詩集『睡眠』のほか、ルソー『孤独な散歩者の夢想』(翻訳)などの作品がある。生家はかつて質屋業を兼ねていたので、少年期から書画骨董に親しみ、昭和12年には尾形光琳が描いた唯一の肖像画「中村内蔵助像」を見出した。これは後に重要文化財に指定され、これらの蒐集品のエピソードを綴った『さざやかな日本発掘』は、読売文学評論賞を受賞している。
青柳瑞穂邸で催ざれた阿佐ヶ谷会では、これらの掘り出し物で眼福に預かり、会員たちの楽しみの一つであった。昭和2年から昭和46年に72歳で永眠するまで阿佐ヶ谷南に住んだ。