片山杜秀の この本を読メ!
優れた技芸者ならではの読み物
役者の芸談、彫師や織師や料理人の職人話といった本を、ついつい読む。なぜなら、そこには技芸について書いてあるから。
技芸とは、それを実際に見に付けた人でないと、うまく語れないものだ。いや、もっと言うと、身に付けた人にもついには語りきれない。言葉の網目では掬いきれない、言語化不能な身体感覚と結び付いてこそ身に付いたのだから。だから技芸は神秘的である。そして神秘は常に人を魅惑する。芸談や職人話が愛される所以だ。
勿論、楽器の演奏も技芸である。よって、その技の神秘にいちばん肉薄できるのは演奏家に決まっている。本書はまさにその手の本だ。著者は文才に恵まれたピアニスト。たとえば一二八頁を開けば、「ポリーニは、すべての音が磨き抜かれたダイヤモンドのような硬質の輝きを誇っている」といった文章にぶつかる。これだけなら誰にも書けそうだ。しかし、実は引用文には主語と述語のあいだに「指の根元の関節のバネが徹底的に鍛えられているため」という一節が挟まる。これは技芸の何たるかを知らずには捻り出せない。神秘の闇を照らす、こういう具体的な記述の積み重ねを前にしては、詩人の印象批評や門前の小僧の耳学問は裸足で逃げ出すよりほかはないだろう。
しかし普通、この種の文章をものそうとする技芸者は、自分をサカナにしても、他人のことには深入りしたがらない。他人に向けた言葉は自分に帰ってくる。そういう自分はどうなんだと、必ず言われる。それが辛い。だから、俳優が俳優を、指揮者が他の指揮者を、正面きって長々と論評した本なんて、あまりない。技芸者たるものは「自分についての芸談」はしても「他人についての芸談」はするな、というわけだ。
だが、著者はそうした通念を、日本のクラシック演奏家としては、恐らく初めて乗り越えてしまった。何しろ、自らの師匠、安川加壽子の、演奏内容にまで遠慮なく踏み込んだ評伝を上梓した人なのだ。もう怖いものはない。本書も表題通り、技芸者ならではの視点から、六人の同業者に各々一章ずつ充て、たっぷり「他人についての芸談」を展開している。しかも、六人のうち、二人は現役だ。現役が現役を俎上にのせる。大胆である。
さて、読み物としては前半の三人が文句なしの出来。先に引いたポリーニ絡みの箇所のように、身体の鍛練や運用に即した具体的な言葉で、演奏家の技芸に迫る目から鱗の指摘が、全編にこれでもかとちりばめられるのは無論だが、著者は、前半の三章では、そうした芸談的趣向に飽き足らず、手の込んだプロットを用意する。つまり、まずそれぞれのピアニストについての常識的イメージを提示したあと、著者が探偵となり、そのイメージを衝撃的に突き崩すのだ。推理小説仕立てなのだ。推理の素材は、無論、演奏の録音・録画、それから伝記資料や関係者の証言などである。
第一章はリヒテル。彼は壮年期まで豪放磊落派で、老いてから哲学瞑想派に転じた。我々はその経過を年齢相応の精神的熟成ゆえと考えたがる。しかし著者はリヒテルの伝記に注目する。彼はピアノをけっこう年がいってからまともな教師につかずに始めたのだ。幼少期からきちんと習えば、指使いと鍵盤の位置を組み合わせて暗譜するのが普通なのに、無手勝流の彼は音の実際の鳴り、その高さで曲を覚える癖をつけてしまった。そしてリヒテルは、老化の始まった音楽家をよく襲うことだが、耳を悪くし、音程が正しく聴けなくなった。聴こえる音高と実際の音高が違う。そうなると彼の暗譜術は崩壊する。音譜を見ずには弾けなくなる。いちいち音を確かめて叩く。豪放さは影をひそめざるをえない。かくしてリヒテルの演奏様式の変化は、精神の熟成よりも身体の経年劣化と無手勝流のツケから説明されるのだ。
続くミケランジェリとアルゲリッチの章でも著者は快刀乱麻だ。ミケランジェリの精確さは彼の本質でも何でもなく、間違えないで弾かないと、技術偏重主義にどんどん向かった後続世代の演奏家に馬鹿にされるのではないかと、自身のカンタービレな本質を病的に抑圧した結果だ! アルゲリッチの闊達なピアニズムは、実は彼女のテンペラメントの自在な流露というよりも、幼い日にアルゼンチンで受けた教育の成果だ! なるほど、そうだったのか。
対して後半の三章は、著者のフランスでの師匠、バルビゼと、その友人のフランソワ、及び著者と親しいハイドシェックを扱うが、対象への近さが大胆な発想を妨げ、びっくりの展開にはならない。書き出しで投げた球を、それに見合った技芸についての蘊蓄を傾けつつ、まっすぐ結論に運ぶ。勿論、それだけでも十分面白い。芸談の基本は鬼面人を驚かす展開より細部の蘊蓄の積み重ねにある。その意味では後の三章の方が山っ気がなく好ましいとも言える。
優れた技芸者が優れた物書きのセンスを身に付け「他人についての芸談」をすれば、それに勝る読み物はない。そんなことを本当にする人が出てはもう評論家は要るまい。