クラシック音楽論を超えたスリリングな「翻訳論」
音楽と文学を往還する青柳いづみこの著作はスリリングだが、ことに本書は丸ごと「翻訳論」として読んだ。興奮した。
主幹テーマは「音楽はどこまで行ったらその音楽に聞こえなくなるのが」。つまり、ドビュッシーやショパンの曲は、楽譜(原文)の解釈(翻訳)をどこまでストレッチ(意訳または補訳)したらその人の音楽であることをやめるのか?
紙幅を割かれているのは、ドビュッシーのオペラ。とくにE・A・ポーの『アッシャー家の崩壊』、『鐘楼の悪魔』、『天の邪鬼』を原作に書かれた、未完あるいは僅かなスケッチしか残っていない作品。これらに音楽学者オーリッジが補筆した版について、だ。青柳はオーリッジの補筆・曲に対し、「何パーセントがドビュッシー?」と問うが、ドビュッシーの「意訳」ぶりもなかなかで、「どこまでがポー?」と問いたくなるのだ。
バロック、古典期までは作曲家と演奏家は一体だった。ロマン期になると、リストやブラームスは他人の曲も弾きこなし、近代に入ると、ドビュッシー、ラフマニノブなどは楽譜が複雑になりすぎて自身が弾けなくなり、演奏家と作曲家は分化していく。そこで解釈の違いというものが生じてきた。
良い翻訳と、悪い翻訳が。かくして、クラシックの世界も20世紀半ば以降は文芸翻訳と同様、楽譜に忠実にという主義が席巻。これに対してグールドは、いや、時には楽譜(原文)のほうが間違っている、と抵抗した。たしかに「作曲家の意図を尊重」というが、ドビュッシーはドビュッシーの曲をドビュッシーの意図を無視して弾くのだから、おもしろい。原文にぜんぜん忠実じゃないボルヘスやナボコフの「自己翻訳」みたいなものだろうか。
一番どきっとしたのはこのくだり。「音符やリズムを完壁に守って弾いていても、何ひとつ流れてこない演奏は(中略)やはりドビュッシーではないのだと思う」。
わああ、そういうことは翻訳でもある! クラシックの音楽論を超えた音楽書である。