音と言葉でつむぐミステリー
フランス留学中、著者がクラスレッスンで弾いたラヴェルの「オンディーヌ」を評して、指導教官が「もっと濃艶に歌って」と注文をつけた。ところが彼女は、直感的に「オンディーヌはメリザンドだ」と反発する。ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」に登場するあのメリザンドを思わせるような、「高踏的」な弾き方でラヴェルのオンディーヌを捉えてみたいのだ、と。たしかに男を誘うオンディーヌと誘わないメリザンドは、正反対の女性である。なぜ無意識にふたりを結びつけてしまったのか。
冒頭で提示されたこの謎は、ピアニストとして鍛えられた指と繊細な耳、そして文学的な素養が三つどもえになった身体感覚に支えられたもので、どれかひとつでも欠けていたら、けっして問われることがなかっただろう。謎を解く鍵を、青柳氏は水辺の女に求める。神話、民間伝承、文学、音楽の諸領域に登場する水の精の姿を、そして道筋はどうあれ最後には男たちを破滅に導く「宿命の女」や「つれなき美女」のイメージをひとつひとつ押さえ、それらの類型のなかからオンディーヌとメリザンドの相違と共通項を摘出していく手際はじつに鮮やかだ。
その言葉がもっとも精彩を放つのは、「水の音楽」と題された最終章である。ピアニストが受けた指導の型と、持って生まれた手の質によって、テキストの読解やレパートリーも変わると指摘したのち、著者はドビュッシーとラヴェルの音の差異をこう表現する。
「もし、彼らの水を飲めといわれたら、ラヴェルの水は飲めるけれども、ドビュッシーの水は、あおみどろが浮かんでいたりして、あまり飲みたくない」なんという感性の水質検査!
二種類の水が、妖しげで、はかなげで、しかも危険な香りの漂うふたりの女たちの身体を浸しているのだ。すぐれた論考はみなそうした構造を備えているけれど、本書は読者の感興を、それこそ水も漏らさぬ筆で運んでいく、上質なミステリーだと言えるだろう。