週刊図書館
ドビュッシーの演奏家が綴り広げる
音楽、文学、美術を往環する「水の精」の探索
今夏『ジロドゥ戯曲全集』(白水社)が復刊され、『オンディーヌ』を再読するという幸運に恵まれた。この芝居、三十数年前テレビで偶然見たド田舎の中学生が、頭をしこたま蹴飛ばされた作品なのである。加賀まりこさん演じた水の精オンディーヌの輝きは、不滅だ。そんな想いにひたっていたある日、店頭で本書の副題「オンディーヌとメリザンド」が目に飛びこんできた。
ドビュッシー演奏で知られる著者だけに専門書ではと恐れたが、違った。これは音楽と文学と美術の世界を自在に往還する、ワクワクするような批評の織物なのだった。
ふた昔ほど前のフランス留学時代、授業で「ダダをこね」た体験から語り起こされる。先生にラヴェルの『オンディーヌ』を「もっと濃艶に歌って弾くように」と注意され、それが「はなはだ気にくわなかった」若き著者はこう言い放つ、「されど我が師よ、我れオンディーヌなるもの、かの[メーテルリンク原作・ドビュッシーによるオペラのヒロイン]メリザンドの如しとみるも如何に?」と。面白い。男を誘い死をもたらす水妖オンディーヌと、泉の畔で泣いていて見初められ結婚した男を破滅させる謎の美女メリザンドが同じとは、どういうことか。それも人を魅了する水の精とはいかなる存在か。
かくて探索が始まる。神話・伝説や民話、創作文学や音楽作品から、様々な海神、河や泉を司る女神、水怪が渉猟され、へえー、そうだったのかと楽しい。例えば、古代の叙事詩『オデュッセイア』の、歌声で船人を誘うセイレーン。人魚ローレライのルーツだが、初めは何と鳥女だったらしい。
さらに、誘惑のパターンによる分析が秀逸だ。十九世紀ドイツロマン派の作家フケーのウンディーネは「網をはる女」。フランス象徴派に愛されたベルトランの詩のオンディーヌは窓際まで「出かけていく女」。だが真に恐ろしいのは、何の悪意もないのに近づく男が不幸になってしまう「何もしない女」だという指摘には、ハタと膝を打つ男性読者も多いのではないか。
では問題の、メリザンドとは何者なのか。ラファエロ前派の「宿命の女」や世紀末の「つれなき美女」のイメージまで導入し解明していく本書の後半は圧巻である。だが、その謎解きの楽しみは読んでいただいた方がいい。かわりにエピローグの言葉を引こう。
「[わたしは]水を弾きたかったのだ。(略)水は、すべての可能性を秘めながら、ひたすら水でありつづける」
水とは何か。透明で、流れ、澱み、荒れ狂い、移ろい(映ろい)、癒し、気まぐれな、あの魅惑だ。とすれば著者が幻視しているのは、耽美や唯美をすら超えた向こう、と言うべきではないか。それは本書中にさりげなく、しかし断固として主張されている音楽の命、ポエジー(詩)、である。
「『音によって表現される芸術は、音楽と呼ばれる』『人間の定かならぬ(模糊)たる言葉、それが音である』というような[ショパンの]寸言は、『ポエジー』を否定するのではなく、むしろ肯定するものとして読むべきではないだろうか。(略)すべては、芸術的本質としての『ポエジー』を前提とした上での話である」
ならば、どうしても哲学者ジャンケレヴィッチの次のような「不可逆性」の思索を重ねてみたくなる。「若返りもすべて失敗し、無心さもすべて幻影だったことから、ひとは、奇跡を絶望して、歌い始める。音楽において、そして詩において、郷愁の人間はそのことばを見いだしたのではないだろうか」(『還らぬ時と郷愁』国文社)。
逆行できないもの・取り消せないものの果て、音楽=ポエジー。それ故にこそ、人は古来かくも水に囚われ、水の精の物語に魅入られて来たのである。
文化史的考察が堪能できる本書だが、同時にこれは、まっすぐポエジーという一点へと人を誘う何とも豊潤な批評の出現なのだ。読後、祝杯をあげながら僕は、メイ・サートンの『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』(みすず書房)を本棚から取り出した。