【関連記事】「グレン・グールド 未来のピアニスト」クラシックジャーナル44号 2011年9月 聞き手・中川右介(クラシックジャーナル編集長)

~特集は、ピアニスト。~

グレン・グールド ライブ演奏を徹底分析した新しいグールド評伝

いったい、何冊目になるのだろう。グレン・グールドの評伝がまた一冊刊行された。けっして長くはない生涯なのに、グールドについては夥しい数の評伝、演奏論が出ている。ところが、青柳いづみこ著『グレン・グールド未来のピアニスト』はこれまでのグールドの評伝・評論とは異なる視点を持つ。ひとつは・著者自身がピアニストであることからの視点、つまり「ピアノを弾く」ことの身体論・精神論が具体的であること。さらに、この本で主に論じられるグールドの演奏は、彼がスタジオにこもり心血を注いで制作したレコードではなく、彼が否定したはずのコンサートのライヴ録音なのだ。著作隣接権が切れたものから、次々とリリースざれるグールドのライヴCDを徹底的に聴くことで、これまで誰も語らなかったグールドの新しい面が描き出される。著者の青柳いづみこさんが語る、グールドとピアノ演奏の真実。

― グールドとはどういう出会い方をされたのですか。「ゴルトベルクの衝撃」は、リアルタイムというより、歴史的事実として知っている世代ですよね。
私が音大生になった頃、すでにグールドは有名でした。中学生とか高校生の頃は、バッハの組曲は教材として勉強しましたが、ゴルトベルクは誰も弾かなかったんです。だから、グールドでは組曲のほうが衝撃的でした。指さばきが鮮やかで、左右の手が独立して自在に動くということで話題になりました。

― グールドは、テクニックで話題になっていたんですね。
完全にそうですね。

― それは当時の他のピアニストにはなかった面なのですか。
左手があれだけ動くっていうのは、なかなか珍しいですよね。彼は左利きなので有利なんですね。今では対位法的な教材も多いし、見事に弾くピアニストはたくさんいますが、当時はむずかしかったと思います。私が音楽学生だった頃は本当にテクニック重視の時代でした。ポリーニとかアルゲリッチが出てきて、グールドを入れて、その3人が、とにかくすごいテクニシャンだというので、騒がれていました。ポリーニは完全無欠でお手本のようなピアノ、アルゲリッチは自由奔放で情熱的、そしてグールドは異端ですけど、頭脳派のあこがれ…という感じでしたね。

― 前世代のホロヴィッツとも違う騒がれ方ですね。
ホロヴイッツは1965年のカーネギー・ホールの復活リサイタルのレコードが偶像視されていました。とくにモシュコフスキーの練習曲!最近になって、あのリサイタルの編集されていない録音がリリースされたので聴きましたが、もちろん19世紀的ヴィルトゥオーゾの魅力に変わりないですが、ミスタッチはあるは、途中で止まりかけるはで、かなりあぶなっかしい演奏だったんですね。それをレコードでは編集して修正して出したところ、伝説的な名盤になっていましたね。

■グールドはどこがどう異端だったのか

― グールドは「テクニックがすごい」、けれど「異端だ」と言われますが、どういうところが異端なんですか。
やっぱり解釈が変わっているんですよね。先生たちから「グールドは聴いてはいけまぜん」とよく言われました。

― 真似してはいけない、という意味ですね。
そうです。どうしてもうつるんですよね。当時のピアノ科の学生というのは、先生に曲をもらったら、まずレコード店に走って有名ピアニストのレコードを買ってきて、聴き比べるんです。私はそのやり方は嫌いなんですけど、そういう人が多かったです。

― でも、現在のようにひとつの曲で何十種類ものCDがある時代ではなく、数種類しかなかったろうから、すぐに誰のレコードを聴いたか、分かってしまうのではないですか。
分かるんですけど、それが必ずしもマイナスにはならないというか。「誰々みたいにうまい」ということで評価されたりして。

―それなのに、「グールドさんのようにうまい」というのだけはダメ、なわけですね。
グールドの場合は、解釈がオーソドックスではないから、困るんですよね。

― そこで言う「解釈」というのは、ようするに何なんですか。
楽譜とは違う弾き方をするということですね。私たちの学生時代は「楽譜に忠実に弾くべし」がお約束でした。バロックはそもそも楽譜はあってないようなものですが、そういう様式研究はまだ進んでいまぜんでしたから、印捌された楽譜が絶対。速いところが遅かったり、遅いところが速かったりするでしょう、グールドは。レガートのところをスタッカートにしたり、装飾音を変えて弾いたり。だから、異端。

― 一方で、それが「新しい」とか「面白い」と言う信仰者がいたわけですよね。
話題にはなりましたよね。

― そういうグールド信者は、ピアノを弾かない人たちだったのかもしれませんね。
ピアノを弾く人でも、ちょっと変り種が好きな人って、どこにでもいると思うのですが、そういう人は騒いでいましたね。

― でも、そういう人は結局、グールドの亜流にしかなれませんね。異端は存在価値があるけど、異端の亜流は、ダメですね。
そうですね。とにかく、先生は、もう完全に、オーソドックスなものを薦めますよね。

― それは今でもそうですか。
今でもそう。

― 今でもグールドは異端ですか。
異端ですね。だから、ピアニスト仲間でグールドのことを話題にすると、声を潜めて、「実は聴き込んだんですよ」なんて言いますよ。男性に多いのですが、解釈研究系みたいな人は、「実はグールドを」って。グールドを大いに気にしているツィメルマンだって、初来日のインタビューでは「彼のアイディアを真似たり、彼のような方法で弾いたりしようとは決して思いまぜん。ただ興昧深いなと感じるだけで…」と言ってますもの。

― いまでも、ピアニストとしては、大きな声では話せない存在なんですね。それなのに、青柳さんはグールドの本を書いてしまったわけですが、大丈夫ですか。
もう少し声を大にして、グールドのことを語り合おうよ、というわけです。なんて。(笑)

■グールドはなぜデビューできたのか

― ピアニストとしては、「クールドが好き」と大声では言ってはいけない雰囲気のなか、あえて、グールドで一冊の本を書いた、そもそもの動機というか、つまりは?
私はピアニストでもありますが、物書きでもあるわけです。そうすると、グールドについて書いてくれという依頼が多いんですよ。雑誌のグールド特集などで。そのたびに、音源を聴いてきました。それで、いつの間にか興味をおぼえるようになっていったわけです。私は、演奏家が世に出るプロセスに興味があるんです。ショパン国際ピアノコンクールとかチャイコフスキー国際コンクールなどで優勝するのがもっとも王道でしょうか。でも、キーシンのように天才少年でその前に有名になってしまう人もたくさんいます。そう考えると、グールドってすごく不思議です。国際コンクール優勝者でもなく、神童として売り出されたわけでもない。NYデビューは23歳でカーネギーホールですらない。どうしてあの人はこんなに有名になったんだろうって。

― いきなり、無名の新人がレビユドデビューっていう感じですよね。
まず、ありえないですよね。いまだって、最初はインディーズで始めて、その後、メジャー・デビュ…でしょう。それなのに、いきなり、最大手のCBSからですから。

― デビュー前に一枚、カナダで出していますが、それが売れたからっていうわけでもないようです。
不思議ですよね。

― その謎は、この本を書いていくことで解明できましたか。
そうですね。一つは時代が良かったということです。前著の『我が偏愛のピアニスト』で柳川守さんにインタビューをしましたが、彼がちょうど1955年にカラヤンの前でピアノを弾いたところ、ロンドンのEMIのディレクターに紹介され、「あなたを世界ツアーができるようにしてあげます」と言われたそうです。柳川さんは、レコーディングはしたものの、「自分の意に沿わない演奏なので、出したくない」と言ったら、ディレクターが「大丈夫です、私たちがうまく編集しますから。誰それさん(といって有名な人の名をあげながら)もそうやって売り出した」と言うので、「それは本意ではない」と固辞されたそうです。そのくらい当時のクラシック界ではピアニストが払底していて、若い新鮮な才能を探していたと。良い時代だったんですね。

― ゴルトベルクが売れてヒットチャートに出た時、シングルではプレスリーが初めて一位になっているんですよね。
プレスリーは、グールドとは異なり、まずインディーズでデビューしましたが、メジャー・デビューは同じ1956年1月なんですよね。もちろん、シングルを一千万枚売り上げたというプレスリーとグールドでは桁が全然違うとは思いますが、その世界でのベストセラーという点では似ていますよね。

― コンサートだろうがレコードだろうが、同じ演奏は二つとないわけです。それでも「これはグ…ルドの音だ」いう演奏になる、その秘密は何ですか。
4月にグールドのライヴ録音を集めたCD『グレン・グールド イン・コンサー卜1951~60』が出ましたよね。その中のブラームスの『協奏曲第1番』を仲間に聴かせたら、「ブラインドで聴いたらグールドって分からないかもしれない」「アラウみたい」と言っていました。グールドの好みでハープシコードのように調整したピアノとか、好みの位置にセットしたマイクによる録音じゃないと、グールドの音にならない。だいたい、グールドの代名詞のようなスタッカートではなくレガートを多めに使って、すごく歌い込んでいる演奏なので、ブラインドではあれっと思う人が多いと思う。

― グールドがグールドになるには、スタジオに籠もるしかなかったのでしょうか。
編集作業が大事だったと思います。

― 編集っていうのはピアニストとして、アリですか?
もちろんです。自分が演奏し、録音してもらったテイクを聴いていて、すごく立体的に像を結ぶときがあるんです。このテイクとこのテイクを繋いだら、こういう演奏になると分かる瞬間はすごく楽しいです。

― それは、本当に一種の創作ですよね。
創作です。みんな、そう言っています。凝る人は自分でテープを全部取り寄せてしまいます。ディレクターに任せられなくて。

― 弾く前に、こういうものにしようと思って、演奏しているわけではないのですか。
弾いているときは、自分では客観的にわかりまぜん。入れ込んだ演奏だなと思っても、テイクを聴いたらすごくつまらなかったり、疲れてしまってダメだと思ったものが、意外に良かったり。ディレクターはそのつどメモをしていて、それを頼りにラフ編集をつくってくるので、ミスはないけれどあまり面白くないものになったりするんです。結局、「もうちょっと、雰囲気あるテイク、ない?」とか注文をつけて探し、それでも足りないときは立ち会い編集で、自分でテイクを選んで編集してもらいます。

― いまあるものだけでは足りないから、また弾こうということもありますか。
それはありません。ホールを借りて、エンジニアを呼んで、調律もしなければなりませんから、膨大なお金がかかります。だから色々な材料を録音しておくことが大事ですよね。

― グールドはそういう面で恵まれていましたから、編集はやり始めたら、キリがありませんね。
贅沢ですよね。何年間ものスパンで作ったりしています。これからは宅録の時代ですから、そうするとツィメルマンみたいに、あまりに可能性が多すぎてなかなかまとまらないケースも出てくるかもしれません。自宅がスタジオ化してしまって、膨大なダットの山があったりして。(笑)

■ライヴ録音のディープな世界

― 今回の青柳さんのグールドの本は、「ピアニストが書いたグールドの本」というのが、売り文句のひとつだとは思うのですが、それだけではなかったですね。読む前は、同業者ならではの視点、たとえばこんなに指が動くのはすごいとか、あの姿勢でよく弾けるとか、あるいはコンサートは私も緊張するとか、そんな話なのかなと思ったのですが、とんでもなくて、きわめてまっとうな評伝でした。ピアノを弾く立場だから分かるという部分も面白かったのですが、録音とライヴを徹底的に聴き込んでいるところが、すごい。とくに、最近になってやたらに出るようになった、グールドが否定したはずのコンサートのライヴ録音まで、聴いていますね。そこが、これまでのグールド本にない、新鮮なところでした。いままで、レコードを分析するのは山ほどありましたが、ここまで丹念にライヴを解析したものは初めてでは。
それが今までなかったんですよね。グールド自身がライヴを否定していたので、ライヴ録音自体も二義的に見られていたというか。

― かなり時問をかけて書かれたようですが、苦労した点はどこですか。
未発表録音や私が聴いたことがない音源が、カナダのグールド・アーカイヴに保存されていて、インターネットで検索するとたくさんリストアップされるのに、それが取り寄せられなかったことです。色々な壁がありました。時差の関係で向こうの図書館と交渉するのが、日本の明け方の5時なんです。毎朝、明け方の5時に「この録音が欲しい」とメールでやりとりして、ようやく出てくるかと思うと、最後にどんでん返しがあってダメだったり。申し込んでダウンロードするか、図書館へ取り寄せるか、どちらかで簡単で聴けるはずなのに、結局、出版社経由で交渉しても最後まで出てこなくて。それが大変でした。

― カナダに乗り込んだ方が早かったのではないですか。
それが、日本のグールド研究第一人者の宮澤淳一さんもアーカイヴで音源を入手したことはなかったみたいなので、ごく限られた研究者しか聴けないんでしょうね。遺産管理事務所が難物らしいです。

― それは研究の阻害になりますね。
資料については本当に困った状況でした。でも、ステージ演奏家時代のグールドの演奏はラジオ放送されていますから、エアチェックしたものをコレクターたちが交換しあっていて、そういうところから入手したものもあのます。ただ、そういう人たちって、お金儲けでやっているわけではなく、熱烈なグールド・ファンなので、なかなか大変なんです。私のほうに、向こうが欲しがるようなアイテムがないと。

― ああ、ブツブツ交換なんですね。
私は深入りできなかったのですが、どうもそうらしいです。レアなものを持っていないと、レアなものをもらえない。私はグールド研究家ではないので、最初、どのぐらいグールドについて知っているか、探りを入れてきます。タイトルもない音源を送ってきたり。それは海賊盤も含め手に入れようと思えばできるもの、つまりレアではあるけれど超レアではないのですが、私がどの時期のどの録音か判定できるかをテストするらしいんです。

― それはディープな世界ですね。
だから、聴いたけれど本には書けない音源もありました。偽物かもしれない、特定できないものもあります。

― 録音って、絵画よりも、贋作かどうかの判定が難しいですよね。
そういった意味で、音源はこれから更に難しくなりますよね。4月に出た『イン・コンサート』に収録されているべートーヴェン『ソナタ作品109』も、ライナーでは「たぶん」ウィーン音楽祭でのライヴと書かれていますが、あまりはっきりしないんです。

― 巨大なマネーが動くわけでもないのに、何なんでしょうね。
本当ですよね。そんな中、宮澤さんはじめ研究者たちが積極的に資料を提供してくれたのは、彼らはピアノを弾かないので、ピアノを弾く人の視点は大切だという気持ちが働いたからだと思うんです。そういう意味で私はとても恵まれていました。

― 本が出来上がりましたが、今後もレアなアイテム集めは続けるんですか。
もうやらないですね。だって、私はグールド・マニアでもコレクターでもないですから。本を書くのに必要なので集めただけですし、自然に集まってきたものもありますし。

― 青柳さんのグールドとのそういう距離感は、いいですね。
今はグールドに強いシンパシーを感じていますが、それは、自分も悩んでいる問題でグールドも悩んでいたということが分かって、それに対する共感ですね。

■コンサートのよさ

― グールドのレパートリーは、青柳さんのレパー卜リーとは違いますよね。
全く重ならないですね。

―自分が演奏するしないは別として、バッハなどはあまり聴かないのですか。
私は小さい頃ランドフスカのモダンチェンバロでのバッハを聴いて、バッハが大嫌いになりました。エドヴィン・フィッシャーの『平均律』を聴くまでずっと嫌いだったんです。

― でもグールドの本を書く以上、バッハやベートーヴェンは聴かなければなりませんよね。
べートーヴェンは好きです。だからいつもグールド関連で依頼されると、「ちょっとやぶにらみですが」と断りながら、グールドのべー卜ーヴェンやモーツァルトについて書いていました。バッハは他の方が書いていましたね。吉松隆さんが編集された『200CDクラシックの自由時間』でも、「絶対落としてはならない名般」なのに、バッハはフィッシャーの『平均律』だけで、グールドのゴルトベルクを落としてしまったことがあるんです。

― 関心がないと、そういう事故が起きます。(笑)
もちろん、見事な演奏だとは思いますし、54年のラジオ放送音源は好きです。ライヴ録音も、今はザルツブルク音楽祭をはじめ聴くことができますから、ステージ演奏家時代のグールドに着目すれば、自分なりの視点が見えるかなと思いました。だからゴルトベルクの55年盤でグールドの大ファンになった人にとっては、ちょっと嫌な本かもしれません。神格化しないところから始まっていますから。

― そのあたりが面白いと思います。コンサートの記録も丹念に記録ざれていますが、それも、いままでにないですね。コンサートについては、これまでの本は、何月何日にどこで何をやったかとは書かれていても、その演奏がどうだったかは触れていません。コンサートからリタイアしたことについては、やたらに書かれているのに、どんなコンサートでどんな演奏をしていたのかが、これまでのグールド本では抜けていたと思います。
グールドというと、ステージ演奏は捨てたと思われていて、重要視されていませんが、今までも時々出ていたライヴ盤が素晴らしいので、そこから起こして、他にもっとライヴ盤がないか探しました。シェーンベルクの協奏曲で指に怪我をして、血染めで弾いたバッハの録音はないのかなとか、伝記的な興味でライヴ録音を取り寄せて、聴いていきました。そのときどきの苦労が伝わってきます。その他にもドラマがあって、肩を壊して、グールド自身が「もう弾けないかもしれない」とまで思い詰めたあと復活し、今までにない最高の演奏ができていると言った時期の演奏が、実際に私の耳にも最高の演奏に聞こえたり。つまり、グールドに関しては、何か、自分の価値観が通用しないピアニストだと思い込んでいたのが、意外にそうではないんだ、私にとって良いものは彼にとっても良いのだと、そういうことがだんだん見えてきて面白かったです。一般的に、グールドの演奏を聴くと意識が覚醒して、耳をすませてしまうので、睡眠薬代わりにはなりまぜんが、晩年の録音であるグリーグのソナタは良い気持ちになってまどろんでしまうんですよ。何しろ、遠縁の親戚ですからね。音楽が浸透していくというか。

― グールド自身はコンサートでは「お客さんとの一体感は一度も感じたことがない」と言っていますよね。それについては、同業者として、どう思いますか。
あれは嘘ですね。彼は6歳の時にホフマンの演奏会を聴いて、ホフマンになりきってしまったんですよ。彼は演技も上手ですし、本来はすごく入り込むたぢ質じゃないかと思います。お客さんの空気を感じ取って一体化すると、自分が自分ではなくなる感覚になります。本当は自分がコントロールできない状態になるから良いのですが、それを彼は嫌っていたのでしょうね。私もすごく調子が良い時は、ぼんやりしてどうやって弾いてきたのか、わからないことがあります。逆に、自分で全部計算通りにできたと思うと、周りの人が浮かない顔をしていたりします。でもグールドは、自分が飛ばされてしまう感覚が嫌で、何から何までコントロールしようとした。

― その当時の録音を、グールドは自分で聴いていたのでしょうか。
ステージ演奏家として頂点にいた1957年、レニングラードで弾いたべー卜ーヴェン『協奏曲第二番』のライヴ録音があるのをずっと知らなかったようですね。亡くなる少し前、クレーメルがその録音を持って行ったら、「元気いっぱい」と言ったそうです。ミスもたくさんあって完璧ではないのに、「レコードにしても良いしと言ったとか。意外ですよね。

― ライヴ録音を自分でもっと聴いていれば、意外と良いと思ったかもしれませんね。
晩年はマイクをたくさん立てて間接的な音を録ったり、多重録音したり、いろいろ工夫するようになっていましたしね。実はグールドはメンゲルベルクやストコフスキーが好きだったのですが、彼がデビューした頃は、トスカニーニ的なものが主流でした。それに合わせて自分の演奏を浄化したのですが、70年代終わりから80年代にかけてロマンチシズムへの回帰が始まって、実は19世紀的なものが良いという風潮になりました。これはグールドの死後ですが、1987年にホルショフスキーが95歳でリサイタルを開いてすごくヒットしましたよね。端正でモダンな演奏はポリーニをはじめ出尽くしたので、次はまた49世紀に回帰という、時代の耳が変化していきました。グールドも晩年、そろそろ自分のネイチャーを出してもいいんだと思ったのかもしれません。もう少し長く生きていたら、もう少し戻ったかもしれませんね。

― グールドも、ホロヴィッツも薬漬けになってしまいますが、その気持ちはわかりますか。
わかりますよ。試合前のスポーツ選手と同じで眠れませんから。稀にコンサート前でも眠れる人はいますが、昼寝ができるとか、そういう人はやっぱり長く続きますよね。タイプがあって、ツアーの孤独に耐えられないという人もいます。ホテル住まいになって毎晩枕が違うことが気になったり、一人で食事に出るのが淋しかったり。毎晩演奏会があって、見知らぬ土地で、見知らぬ人とパーティーに出たりするのが嫌な人もいます。そのようなメンタリティの人にとってはとてもつらいです。演奏は毎回違うので、昼夜の演奏でも、昼の部の演奏前に緊張して、終わってリラックスしたら、そのまま夜の部の演奏に行けばいいのに、その前にちゃんとまた緊張がやってくるんですよね。

― それは慣れないものなのですか。
慣れないんですよ。何回、同じところで同じ曲を弾いても、慣れません。常に何が起きるかわからない。時々、うまくいくことがあるので、やみつきになってやめられないのですが。『我が偏愛のピアニスト』で伺った小山実稚恵さんの話が面白かったのですが、彼女ほどピアニストに向いている人はいません。全く緊張しないし、自然にステージに出て行けるし、すぐに音楽に入り込んでしまう。その彼女でも終わったあとは後悔ばかりで、楽屋に人が来て、褒めてもらうと、「この人、何もわかっていない」と思うそうです。彼女はポジティヴ思考なので「良い人なんだな」と思うらしいのですが、もっと神経質な人は「何でよくない演奏を褒めるんだ」と怒り出してしまいます。それが年間80回あるとして、80回分そういうことが起きるんです。

― 一人で演奏するリサイタルと、オーケストラと協奏曲をやったり、デュオやトリオでやるのとは、どちらが楽ですか。
どんなに親しくても、違う人間ですから、別の気遣いをしますよね。ステージだけで気が合うという人もいるようです。離れると趣味も性格も全く違って、犬猿の仲なのに、ステージで音楽を通してだけわかり合える。私はあまり弾きませんが、協奏曲もコミュニケーションの取り方がむずかしいらしいです。オケ自体がバラバラで、管楽器は音が出るまで時間がかかりますから、弦楽部と平気で一小節ずれて弾いていたり。指揮者に合わせても、テンポが速い曲だとずれてしまうのですが、スケジュールの問題があるから、一緒に音楽を作り上げる状況になるまでプローベを重ねるのも無理だし。

― 一種のショウみたいなものでしょうか。
勝手に弾きまくるタイプの入は良いけれど、一緒に対話したいというタイプの人は不満が残るかもしれません。逆に、練木繁夫さんのように室内楽の名手は、協奏曲を弾くと「息が合う」とオケに喜ばれるらしいです。

― グールドもバーンスタインとのブラームスでの有名な話がありますね。
あの話については、はっきり書きませんでしたが、たぶんグールド側のお家の事情があったのだろうと思います。グールドが肩を壊してしまったのが、あの遅いテンポの理由ではないかと。不安になると演奏家は色々なことを考えますから。ただ、確証はない推測ですから、断言しませんでした。でも、同業者としてピンと来るものはあります。

― 次は何を書くのですか。
来年は全く無名のアンリ・バルダというフランス系ユダヤ人ピアニストの本を書きます。アルゲリッチと同い年の1941年生まれです。16歳までカイロで育ち、ホルショフスキーと同門の先生に習って、その後パリ音楽院でラザール・レヴィに師事し、ニューヨークのジュリアードで学んだ人です。一言でいうなら「失われた世界で発見された恐竜」。即興演奏が得意で、19世紀の生き残り的な興味があります。

― 最後に、読者に何かありますか。
これまでも語ってきましたが、4月に『イン・コンサート』というグールドのライヴ録音を集めたCD(非正規盤)が出ましたから、ぜひ、それを聴きながら読んでください。この前、トークイベントで、グールドの14歳の時のショパンの『即興曲』を流したら、55年盤でグールドファンになった人たちは相当ショックだったようです。その後にコルトーの同じ曲を流したらルバートのパターンが同じなんですね。そういう落差みたいなものがあります。正規発売されている中ではブラームスの「間奏曲集」やシベリウス・アルバムにシンパシーを感じる聞き手には嬉しい本かもしれまぜん。逆に、55年盤でグールドを神格化した人は、そのイメージがガラガラと崩れて最初は立ち直れないかもしれないので、心して読むようにという感じでしょうか。モデルふうに完璧なお化粧をしていた美女が、化粧を落としたら全く別のナチュラルな美しさに満ちていたという驚きですよね。どちらも素敵なんです。ただ、グールドに惹かれるのだけど、人工的なところが苦手という人にとっては、実はそうではない面があったのだと、再発見できる本だと思います。

「クラシックジャーナル 44号 」(アルファベータ 2011年9月)

グレン・グールド 未来のピアニスト
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