【書評】「無邪気と悪魔は紙一重」すばる 2002年7月号 評・鈴村和成

こばみ、じらす恋愛論

女の魔性とは何か? それはいかに水と親しむのか? 前作『水の音楽』に続く、“魔性の女”をめぐる恋愛論である。これが類書と一線を画すのは、“魔性の女”という、一般に男が好む題材を女が取り上げたこと、作者が文学畑の人ではなく、ピアニストであり、博士号を持つドビュッシー研究家であることだろう。女のまなざしと、音楽家の技巧が、恋愛という手垢のついたメロディを、新しくアレンジして聞かせるのだ。

恋愛論が読まれるのは、そこに著者の告白を聞き取ることができるから。とはいえ生を聞かされては鼻白むもの。この種の書物の成否は、どこまで素顔を見せるか、どこまで仮面で通すかの兼ね合いに懸かっている。恋愛論はストリップティーズに似て、読者をじらすテクニックが不可欠だ。

著者が本書で顔につけた仮面は恋愛小説やオペラである。 古今東西の名作が目白押しに出て来る。すぐれてアンソロジーの手法なのだ。『痴人の愛』や『マノン・レスコー』のような定番の小説もあれば、太宰治の『カチカチ山』や椎名麟三の『永遠なる序章』、出口裕弘の『京子変幻』のような意外な顔触れもある。青柳の魅力の一つに、博覧強記と言ってよい飽くなき書物の渉猟がある。

もちろん、チラチラと著者の素顔を垣間見る楽しみはある。仮面――本――によってしっかりとガードされているだけに、この垣間見はシゲキ的だ。「まあ、このあたりは、私もときどき使う手なんだが」とか、男が女の服を脱がせるのに「あんまり手まどられるとシラケるし」といった一節に、ゾクッと来ない読者はいないはずだ。青柳いづみこは「こばみ、じらす女」のスタイルで書く。

祖父の仏文学者・青柳瑞穂の評伝に「真贋のあわいに」とサブタイトルした著者は、虚実皮膜に遊ぶのが上手だ。“あわい”を住み処とする彼女は、仮面と素顔の紙一重の差を微妙なものにする。

女のように語るかと思えば、男のように語る。音楽の専門的な語り口から少女マンガの舌足らずな口調まで、多彩な文章を駆使して、自在に他人に成り代わる(評伝を得意とするのも、この変身能力による)。よく調べて書き、引用がツボを押さえている(安川加壽子の評伝はその好例)。魔性が聖性と紙一重の差で競り合うさまはスリリングである。
対位法であり、セイレーンやオンディーヌを戯れる「水の音楽」だ。彼女はピアノを弾くように、「翼のはえた指」で恋という主題を弾きこなす。

無邪気と悪魔は紙一重(単行本)
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