【書評】「ドビュッシー 想念のエクトプラズム」他 UP(東京大学出版会)2007年7月号 評・池上俊一(東京大学 地域文化研究)

音と言葉の錬金術

プロはだしの楽器演奏が自慢だという文学者や学者なら山ほどいよう。あるいは文章がとても上手で、気の利いたエッセイを書く音楽家もいる。だがそれはあくまで片方がプロの仕事で、もう片方は趣味の領域になる。そして、だからこそ許容され喝采を博することにもなるのだろう。

青柳いづみこの場合はどうなのだろう。世評では,彼女はフランス音楽とりわけドビュッシーを得意とするピアニストで、文学にも造詣が深く、評伝、エッセー、そして小説にも手を染めたマルチタレントな女丈夫ということになっている。だが意地の悪い人に言わせれば、ピアノの演奏と教授に鋭意専心している音楽家ではないし、マラルメなりプルーストなりの文学研究者でもなく、音楽にせよ文学にせよ「専門家」集団の欄外で器用に跳ね回る異端児だ、ということになるのかもしれない。つまり文学と音楽、両者を対等にプロフェッショナルに追求するなど保守的な日本の学界や文壇では、あってはならないのである。

だが音楽と文学の、今は忘れられつつある深いところで結ばれた関係を絶えず意識化し、言葉にする彼女の著作、音にする彼女の演奏を、読み、聴いていると、どうもこうした主従関係、つまり、一方が主で他方が従という旧弊な思考法、そればかりか音楽と文学の二分法に立った上での評価といったものが、もはや成り立たないのではないか、と思われてくる。

最近話題になった『音楽と文学の対位法』(みすず書房)や『ピアニストが見たピアニスト』(白水社)といった書物は、これまでになかった書物である。

前者は、19世紀から20世紀初頭のフランス・ドイツを中心とする作家と作曲家の性癖、生い立ち、運命、「身振り」の思わぬ類似や交換の意味するところ、言い換えれば文学の後を遅れがらに歩んでくる音楽の深い係わりを、小説作品の特質の抽出と曲の様式、モティーフや音楽言語の分析を織りまぜながら明らかにしている。著者の言葉を借りれば、「音と言葉が交錯する、その瞬間をいかに言語化するか」という困難な課題を、平明な叙述で軽々とこなしているのである。

後者も凡百の音楽評論家の音楽批評とは次元の違う斬新な著作で、読み進みながら、私自身の指がサンソン・フランソワの指になり、鍵盤上で親指が生き物のように動き回るかのような錯覚に囚われ、またどうしても「ソロを弾きたくない」アルゲリッチの内面に難なく入り込めるのである。それは、ピアニストの体の動きとそれがもたらす音の様相をすべて完璧に弁えた上で、精確無比に言葉で表現する術を著者が心得ているからであり、また、巧みな比喩を駆使して、ピアニスト-人間の性(さが)を一瞬にして捉えてしまう、文学的なセンスを持ち合わせているからであろう。

ピアノ演奏についても、音の言葉との交錯をめぐる研究と思索が、斬新な楽曲解釈をもらたしていることは、言うまでもない。

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ドビュッシー 想念のエクトプラズム(単行本)
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本書評でとりあげたいのは、最近の演奏家論や音楽エッセーではなくて、少し前に出された評伝、人物・作品研究である。青柳いづみこは、これまで3冊の評伝・人物研究をものしている。いずれも堂々たる出来で、そのまま主著と目してかまわないだろう。

まず『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』は、東京芸術大学大学院に提出された博士論文をもとに、より広範囲の読者を対象に書き直されたドビュッシー論である。ドビュッシーの波瀾多き結婚生活、マラルメ、ヴァレリー、ジイド、ピエール・ルイス、メーテルリンクなどの文学者との出会いとつきあいについての豊富な叙述も興趣が尽きないが、本書の核心は別のところにある。

すなわち軽く繊細で印象派の絵画に例えられることが多いこのフランス世紀末の作曲家は、じつは印象派とは似ても似つかぬ、根本的に異質に精神を具えていたことを、鮮やかに解きあかしているのである。

世紀末のデカダンの美学に傾倒し「醜悪の美」に惹かれていたドビュッシーは、意に沿った文学テクストを深く読解して思想、言葉の抑揚、リズムに拘りながら音楽言語に転移させようと血の滲む努力をしたのである。ところが音楽は「人工美」とは対立し、「自然」にもっとも近くにある芸術だという通年を他の作曲家たちと共有しており、「聴覚の保守性」から脱し得なかった彼は、自作に耳あたりのよい「色彩の修正」をほどこし、その結果「印象派」を思わせる作品が出来上がったというのである。

このユニークな主張が、エドガー・ポーなどの作品の分析とそれに音楽を付けたドビュッシーの音楽言語の解析によって実証されているのである。

さらに、ことは音楽と文学の二律背反に人一倍苦しんだドビュッシー個人の問題にとどまらず、音楽言語そのものに関わる根本的な問いへと繋がっていく。そのため本書は、全体として、音と言葉の間に横たわる深淵とそれを架橋する可能性、ひいては、現在そして未来の音楽のあり方への提言にもなっているのである。

翼のはえた指 評伝安川加壽子
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つぎに『翼のはえた指-評伝安川加壽子』は、日本ではじめてのプロフェッショナルなピアニストとして、演奏と教育両面で多大の貢献をした安川加壽子(1922~96年)の評伝である。

幼くして両親とともに渡ったパリでの子供時代、パリ音楽院での修行風景、帰国後の日本での家庭生活、息の長い演奏活動、楽壇の重鎮としての多忙な日々などの様子が、加壽子のインタビューや著者自身の目撃談はじめ,多くの弟子、評論家の証言・評言の堆積の間から生き生きと浮かび上がってくる。

読後もっとも強烈な印象として残るのは、ピアニストとしての偉大さやあらゆるスポーツ競技をひきあいに出して説き明かされる超絶的なテクニックについての記述ではなく、ごく普通の女性(養女・娘・妻・母)としての、愛らしさ、けなげさ、芯の強さを写しだす、本書に薔薇の花弁のように纏められた諸シーンである。

しかし本書もたんなる一ピアニストの評伝には終始せず、音楽界への痛烈な批判が籠められている。

自己告白的な演奏が好まれてきた日本のピアノ界では、上体の各関節から完全に力を抜いて演奏する加壽子のたぐいまれなピアニズムが受け入れられなかったばかりか、その優雅で繊細なピアノを「フランス風」「女手」の名の下に総括して「ドイツ風」「男手」の下に置き、前者を特殊視する風土があった。その風土こそがじつは日本の「音楽界」「音楽教育」をゆがめてきたのだと、加壽子のリサイタルや演奏技術の淡々とした描写の背景から、著者は訴えつづけている。

青柳瑞穂の生涯 真贋のあわいに
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最後に3冊目の『青柳瑞穂の生涯 真贋のあわいに』は著者の祖父である青柳瑞穂の評伝である。文学者として詩やエッセイを書き、ロートレアモンやグラックなどの翻訳を世に送り出すとともに、「阿佐ヶ谷会」の中心メンバーとなって多くの作家たちと交流した青柳瑞穂は、文学者として以上に骨董蒐集家としての人生を送った。この祖父の多岐にわたる複雑な仕事ぶりが、周囲の作家たちの発表した多くの作品やその小説作法の紹介とともに細かく叙述されている。利己的な「ダメ男」で家族関係を崩壊させていく瑞穂を、ときに冷淡に、ときに親しみを込めて描き出す筆致が印象的である。

不思議なのは、瑞穂の一生と彼が生み出した随筆や詩、翻訳の仕事が中軸となって本書は組み立てられているはずなのに、瑞穂はいつの間にか黒子となって脇に退き、彼が場を提供した阿佐ヶ谷会につどう文士たちの執筆活動、同人雑誌への参加、あるいは将棋を指し酒を飲み野山に遊ぶ・・・といった賑やかな世界が上演されていくことである。

また後半部においては、佐野乾山の真贋論争の渦中に置かれた瑞穂の微妙な立場や発言を語りながらも、やがてモノの真贋についての一縄の形而上学が主調音となり、やはり瑞穂の影が薄くなるのである。著者は祖父に対し、違和感と親近感、反感と愛着をこもごも抱きながら、「なぜそうなったか」を探偵のように追い詰める。

真贋のあわいに蜘蛛の巣を張っていた瑞穂は、やがてそのあわいに開いた「抜穽」にフェードアウトして、そこに目に見えない記憶の痕跡のみが残る。だがその瑞穂の溶け消えた「抜穽」から立ち現れてくる者がいる。それこそ瑞穂を精神的な父親とする、著者、青柳いづみこである。

以上の3冊の評伝は、世紀末フランスの代表的作曲家、日本初のプロフェッショナルなピアニスト、自分の祖父で文学者兼骨董蒐集家、というように、異質の対象を相手にしているが、それでも共通する特徴が見え隠れしている。

まず徹底した文献調査、聞き取り調査である。書物や雑誌・新聞だけではなく、家族や友人、直接・間接の知人などに労を厭わず取材を重ね、まるでルポルタージュのようである。科学者のような客観的で突き放した叙述が多く挟み込まれている。

たとえば安川加壽子のピアノの腕や指の動かし方、多様なタッチの説明部分では当然だとしても、彼女のリウマチの進行による症状の変化、肉体の変形の記述は、あたかも医者や解剖学者の所見であるかのようである。それは肉体に止まらず心理の解剖にも及ぶ。たとえばすれ違い生活を解決できなかった祖父瑞穂と妻とよの心理、嘘泣き名人で友情における秘密主義を貫いたドビュッシーの心理が、冷徹な筆で解剖されるのだ。

さらに刻々と変化する時代状況をそのつど綿密に把握していく、虫の目をもつ歴史的意識の存在がある。

第2次世界大戦へとなだれ込んでゆく日本やフランスの社会状況、19世紀末フランスの政治的な激動が、それらに対応する文学・音楽世界の特徴とともに着実に押さえられる。また文学作品・楽曲が作られ演奏された時代・日付を明示し、物価や報酬、借金の額を詳細に記載し、あるいはそのとき「誰」がその場に居合わせたのか、ということに特段の注意を払っている。細かいなあという感想を持つかもしれないが、それらはけっして不要なデータではなく、人物の置かれた状況を浮き彫りにするのにきわめて効果的である。

このような特徴が見られるとはいえ、それらはおよそ評伝・作家研究ならいずれも具備すべき基礎的な要素であり、べつにとりたてて著者の手柄に帰すべきではないと思われるかもしれない。しかしこれらの評伝の場合、念入りな構成、詳細なデータは、著者自身の芸術家・演奏家としての足場を固め、自己を引き裂く音楽と文学の相剋を克服するための方法を編み上げる基礎になっている点を、見落としてはならないのである。

文学者としての自分のルーツである祖父青柳瑞穂、ピアノの師である安川加壽子、著者とおなじように音と言葉の問題について突きつめて考えた作曲家ドビュッシー。3人は著者にとっての3人の師にして「生みの親」であり、とりわけ思い入れも深く、このトリロジーは書かれるべくして書かれたのだと言ってよい。3人の「限界」や「欠点」についての厳しい評価に、読者はしばしば驚かされるだろうが、これも愛情と敬意の裏返しだろう。これら3冊は、「音楽と文学の対位法」を自らの芸術活動の方法論に据えるようになった著者の、ルーツを明かす三位一体なのである。

『翼のはえた指』の最後に著者は書いている--「日本のピアノ界が頭打ちになっているのは、安川加壽子が足りないからである。日本は、安川加壽子の活かし方を誤ったのである」

おなじことが青柳いづみこについても将来言われるようになるのかもしれない。「文筆をよくするドビュッシー弾き」という口当たりのよいレッテルを貼って彼女を異端の神棚に祀って遠ざけるのは、音楽界にとっても文学界にとっても得策ではないのではなかろうか。彼女の音楽・文学双方を股にかけた果敢な挑戦を省みて、19世紀フランスで行われたような実り多き両者の相互関係を新たに転調して作り出すべきではないのだろうか。

音と言葉の錬金術に挑む青柳いづみこの今後の活躍を期待するとともに、どのような「活かし方」をされるのだろうか、ということにも刮目して見守っていきたい。

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