本書は著者10冊めにあたる節目の本である。扱われるテーマは長年あたためてきた、という。そこでは、「ステージからの比較”芸塾論”をもくろむ」著者らしい視点から、シューマンとホフマン、ショパンとハイネといった音楽かと文学者の、あるいはホフマンといった同一人物の中にある音楽家と文学者の「創作身ぶり」の比較が展開される。両者間の関係とともに、ずれを鮮やかに分析してみせる著者の手腕といったら!
中でも興味深いのは、ワーグナーとボードレールらフランス象徴派詩人や音楽家との身振り比較。「滅びの美学」に象徴されるデカダン芸術家たちの多くは「感情的に孤立ないし抑圧された人」(同性愛、近親相姦、冷感症崇拝者、ロリコン、マザコンら)であるからこそ、ワーグナーの作品に強く刺激を受けた。「肉体と精神の相剋という人類の普遍的な問題をワーグナーはおっとり受け止め壮大なドラマに仕立てたのに対し、デカダン芸術家たちは本質的に不能であり、己の不能を見越して善悪や美醜といった価値観を入れ替え、己の存在の正当化を図った」という著者の分析は興味深く、また
強い説得力をそなえている。
とりわけ、著者の研究対象のひとつ、ドビュッシーとワーグナーとのねじれた関係がおもしろい。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド゛』などには、彼が否定したはずのワーグナー色が見え隠れする。その様子を著者は、「お釈迦様の掌の上で飛び回っていた孫悟空のよう」と表現する。お釈迦様はワーグナーで、やはり彼の阿片は抗し難いのだ。
ドビュッシーとランボーのニアミスも刺激的だ。二人の遭遇の可能性を発見した著者は、ランボーの『酔どれ舟』を作曲していたかもしれないという。晩年ドビュッシーは幻視者ランボーの境地に達したと著者は述べるが、彼女の音楽と文学を見渡す「身振り」も幻視者のもの。青柳いづみこという磁場で次は何が「ポエジー」となるか。次作もまた待ち遠しい。