行間往来とーくたいむ 編集委員関正喜
ジャンル交差させ表現の本質に迫る
ピアニストであると同時に文筆家。最新刊の『音楽と文学の対位法』(みすず書房、3150円)で著書は十冊目となった。対位法とは音楽理論上の用語で、ふたつ以上の旋律を同時に進行させていくときの技法。本書では、両分野のさまざまな作品を自在に往還し、音楽と文学を耕作させた地点からモーツァルト、シューマンなど6人の作曲家と、音楽という表現形態のエッセンスを浮かび上がらせた。評伝、ピアニスト論、エッセーなどで実績を積み重ねてきた青柳さんとしても、本書には「達成感がある」という。
--最初の章「モーァツルト-カメレオンの音楽」では、ムージルの短編『トンカ』に始まりブリオン、カポーティから窪田般彌、筒井康隆、福山庸治のコミックまで、ざっと40もの作家や文学作品への言及があり、その万華鏡の中心にモーツァルト像が焦点を結ぶといった感じです。
青柳 モーツァルトという人は、時代をかなり飛び越えていたので、後の時代の文学にその本質を投影させる形をとったのです。そういう方法で、実際に演奏者でもある私がモーツァルトに体感しているものを形にしたいと思ったんです。それも、音楽学の楽曲分析用語を使わないで、モーツァルトが生理的に訴えかけてくるものを、読んでいる人にも生じさせるよう書くことにすごく苦労しました。
--音楽と文学を交差させるのは『ドビュッシー想念のエクトプラズム』(1997年刊)の延長線上にある問題意識ですね。
青柳 ドビュッシーは19世紀末詩人たちと親交があり、デカダンスやオカルトに親しんでいた。しかし作品には、そういう要素がほとんど現れていません。そこに音楽という芸術の本質にかかわる問題があるのではないか、というのが私のテーマでした。
文学と違い、楽譜は万人には読みこなせません。音楽には、演奏され同時代の人々から共感を得られないと作品として成立できないという特殊性があります。ドビュッシー自身、「やはり音楽というものは人を楽しませるものだ」と書いて、(デカダン的な表現と結びつく)耳に快くない音は避けています。
--最先端の時代精神からは一歩か二歩、引いたことろが音楽の居場所にならざるを得ない?
青柳 ドビッシューのころまでは。その後の20世紀の作曲家たちは、一般大衆と関係のないラジカルな方向に走ってしまいましたが。今度の本では第6章でドビュッシーを、ランボーと重ねて扱っています。
ドビュッシーは最後になって、大胆なピアノ曲『12の練習曲』を作曲しました。「死を目前にして、ようやく全的にランボーの境地に達したのだ」と書いた最後の一行には、万感の思いがあります。
ドビュッシーがもっと早く、本当に自分が言いたい音楽を書いてくれていたら、20世紀音楽はあんなに一般の人から遊離した不毛なものにならずに済んだのにと、すごく残念なんです。
--E.T.A.ホフマンの場合、文学者であると同時に作曲家で、小説は先鋭的なのに音楽作品はなんともおとなしい。
青柳 ホフマンの文学と音楽を両方体験すると「なんじゃこりゃ?」です。音楽というものの特殊性を示す典型的な例ですね。私は作家としてのホフマンが好きで、(同じドイツロマン派の)シューマンとの関係は、以前から考えていたテーマです。
ハイネとショパンの響き合いも、いつか書きたいと思っていたことでした。ショパンの手紙の日本語訳は、英語からの重訳しかなかったのですが、ポーランド語が専門の関口時正さんに新たに訳出していただきました。そうして読む手紙をハイネの評論と比べると、批評精神という面で意外に似ていたことが分かります。
--シューマンはホフマンから大きな影響を受け、ショパンとハイネは親しい間柄でした。逆に親交も芸術的接点もないが実は--という事実から音楽と文学のありようを解くのが「ラヴェルとレーモン・ルーセル」の章です。
青柳 ルーセルは、言葉から意味を断ち切り、同音意義語など音からの読み替えで小説を組み立てました。だから読む人には理解できなかったのですが、実はこれは作曲家が音楽のモティーフを扱う場合と同じ。この章はルーセルの手法をさぐることによる音楽論です。
--書くことと演奏は、どう関係しているのですか?
青柳 弾く自分と書く自分の分裂をもてあましています。ピアノを弾くときは、やはり音楽は美しくなければという意識はあります。でも、気質としては(デカダンスや人間の暗い面にひかれる)根っからの物書きだと思う。音楽と文学の差異を検証していくことで、なんとか自分の中でせめぎ合っているものを鎮めているんです。