繊細で強靱な音楽小説
声の出なくなったピアニスト志望の少女、真琴の心の軌跡を描く、繊細で強靱(きょうじん)な音楽小説である。音楽の世界の厳しい舞台裏を垣間見る面白さもある。
音楽を楽しむよりも競いあうことを強いられる生徒たち。コンクール、留学試験…。真琴はそんな東京の生活を離れ、祖母のいる「水生」へと移る。古い家の古いピアノが、傷を負った真琴の心をゆらし、過去の時間を解いていく。
遊ぶ間もなく練習にあけくれた孤独な幼年時代、レッスンに付いてきてくれた父との濃密でいびつな関係。一方で、音楽は勝ち負けじゃないと言い、真琴の美質を発見してくれた先生との出会いもあった。著者は、主人公に過度の思い入れをせず、安易な物語を背負わせない。読者は読みながら自分自身で、真琴という少女を「発見」していかなければならない。
ピアノは鍵盤を叩(たた)くだけ。だが真琴にとって、音楽の本質には「歌」がある。真琴は歌いたい。しかし声がでない。楽器演奏者は「声を出して歌わなくっても、声帯を動かす筋肉は使っている」という医者の言葉は示唆的だ。真琴に限らず、歌うということは、人間にとって命の発露に等しい行為なのではないか。能に惹(ひ)かれる真琴が、能には西洋とは違う「歌い方」があると気づく所も印象的で、能表現の持つ沈黙の烈(はげ)しさを、彼女は「水の炎」という言葉で捕まえようとする。この言葉に、私はドビュッシーを連想し、ドビュッシー研究でも知られる著者を重ねたが、もちろん本書は私小説ではなく、大胆な虚構が施された小説だ。放蕩(ほうとう)の父との幻想的なからみや、少年との疑似恋愛など、真琴の性が目覚めていく場面は生々しくも音楽的で、その文章は、音楽を対象として描くと同時に、音楽そのものになろうとしている。
本来、活字ではとらえきれない、様々な楽曲のメロディーや謡いが、「口三味線」で紹介されているのも楽しい。曲を知っていればさらに楽しめるし、知らなくても、読めば一度は聞いてみたくなる。読者に音楽と文学の間を、自在に行き来させる小説である。