大胆な仮設と緻密な論証
ヨーロッパ古今の文学、絵画、音楽
主題を脱領域的、立体的に取り扱えるのは彼女をおいて他にない
本書は、ここ数年間のうちに評論、評伝で数々の賞をとり、またドビュッシーを始めとする3点のCDがいずれも『レコード芸術』月評で特薦盤に選ばれるなど、目下向かうところ敵なしのピアニストで評論家(どちらを先に置くのがよいのだろうか)による、水の女と水の音楽に関する最新の書き下ろしの評論である。扱う範囲がヨーロッパの古今の文学と絵画という姉妹芸術のみならず、音楽に力点を置く点で、筆力旺盛な著者ならではの著作といえよう。
水と女といえば、ローレライ、オンディーヌ、人魚姫と、だれもが小さい頃から謳い、読み、そして挿絵で愛でた体験をなつかしく思い出すだろう。19世紀ロマン主義の中で顕在化したこれらの女たちには、ワーグナーの歌劇『タンホイザー』で主人公に一途の愛を捧げる無垢の女エリザベートと、男をたらしこむ魔性の女ヴィーナスの二元的対立に見られるごとく、いずれかの属性が与えられている。シェイクスピアのオフィーリアのように、19世紀になってから画家や作曲家を刺激した無垢の水の女もいるが、本書の対象は男心をもてあそぶ宿命の女に絞られている。
宿命の女(ファム・ファタール)は、ラファエル前派による絵画展が日本に来るようになって人口に膾炙したした感があるが、実際その源は西洋の古典時代にさかのぼる。
『美術のなかの裸婦』全集の『神話・ニンフと妖精』(集英社、1980)や「水の物語」と題した展覧会(1999)の目録を見れば明らかである。著者も本書のはじめで多くの神話・伝説に現れる水の精のイメージを渉猟し、分類する。次に、19世紀のロマン主義の文学作品に現れた多くの水の女が、絵画に描かれ、作曲家にインスピレーションを与えた過程を分析する。
「この世にことさら男を誘う女と誘わない女の2種類があるとすれば、明らかにオンディーヌは前者であり、メリザンドは後者である」とは、大胆かつ説得力をもつ定義である。オンディーヌといえば、一昔前に劇団四季のジロドゥ作品で加賀まり子が演じた可憐な小悪魔を思い出す世代の人も多いだろうが、もとはフーケによって生み出された。メリザンドはマーテルリンクの劇『ペレアスとメリザンド』の女主人公であり、原作がほとんど忘れ去られた現在では、ドビュッシー唯一の歌劇で不滅の存在となった。著者はこのふたりを扱った音楽作品を取り上げるが、シェーンベルクの50分にも及ぶ長大な交響詩『ペレアスとメリザンド』に言及していないのは惜しい。ドビュッシーのオペラの影響を受けたかどうかは別にして、12音技法に移行する前の世紀末的な音の奔流は、この物語の音画として無視できないからである。
著者はメリザンドを中世以来の美しき人魚あるいは蛇女メリュジーヌとの音の類似に注目し、劇の冒頭で森の泉のほとりにたたずむ長い金髪のメリザンドを水の女とみなす。さらに「この物語はトリスタン伝説にも、ダンテの『地獄篇』のパオロとフランチェスカの挿話にも、インドの古典劇にも中世の伝説にも、また、ありとあらゆるメルヘンにも酷似している」と看破して、実際『ペレアスとメリザンド』のそれぞれの挿話がグリム童話といかに多くの共通点をもつかを実証してみせる。
「メリザンドと水」と題する第9章では、水の精たちが人間を誘惑する方法には、「網をはる」「ひきずりこむ」「出かけていく」「何もしない」の4種類あり、清純な「何もしない女」メリザンドは、そのあまりの美しさゆえに男を破滅に陥れるのだとする。大胆な仮設と緻密な論証には圧倒される思いだ。
そして最後の章では、世紀末に生み出された水の音楽をピアノ演奏の技術的な側面から分析する。ショパンのバラードの第2、3番のように標題性の強い作品から、水の織細な動きを印象主義音楽として取り上げたものまでさまざまであるが、さすがにピアノの実践家としての解説はひとつひとつ納得させられる。
著者は、本書の校正に追われながらも、そこに扱われたリスト、ショパン、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフらのピアノ作品を自ら演奏してCDを制作したという。
さらにこの11月8日にはこれらの曲を自らが解説しながら、弾いてみせてくれるという。これだけ主題を脱領域的にまた立体的に取り扱うことができるのは、青柳いづみこという小さな巨人をおいて他にあるまい。
本書を一気に読み終わったわたしは、ブーレーズ指揮の『ペレアスとメリザンド』のLDでオペラの舞台を確認し、展覧会目録「水の物語」にカラーで掲載されたマリアンヌ・ストークスのテンペラ画『メリザンド』で画像を確認した。本書の読者なら、だれでもこういった衝動にかられるに違いない。その意味で、同時に発売されたCD「水の音楽」は格好の音楽資料となるだろう。