著者は語る
「私たち70年代に音楽学生だった者は、先生から『楽譜に忠実に、自分を出さず、 作曲家の意図に従って弾きなさい』ということをずっと言われ続けて育って世代。ちょうどその頃、イタリアのピアニストのポリーニが、技術的にも完璧、楽譜の読み方も完璧みたいな、すごいレコードで登場して、そういう、”客観的な解釈”がスタンダードになった時代でした。
ところが、そのポリーニの先生で、氷のような完璧主義者だと思っていたベネデッテ ィ=ミケランジェリの若い頃の録音をたまたま聴いて、椅子から転げ落ちるほど驚きました。一九三九年のリストの協奏曲第1番など、カンツォーネの歌手のように歌いまくり、個を前面に出している。ああこの人は何かの理由でスタイルを変えたんだ、それはなぜだろう、と思ったのがこの本を書くことになった最初のきっかけです」
本書には、そのミケランジェリをはじめ、リヒテル、アルゲリッチ、フランソワ、ハイドシェック、そして著者の師バルビゼと、六人の個性的なピアニストの裏の素顔が、豊富なエピソードを交え生き生きと描かれている。そのどれもが旧来のピアノ教育とは相容れない型破りな面白さで、ある意味ピアノ学習者にとっては禁断の扉を開けてしまう危険な本とさえ言える。
例えばアルゲリッチは、友達が練習していたむずかしい曲を睡眠中に聴いただけでおぼえてしまった。リヒテルも、新しい曲をやるときは本番の一週間前に練習を始め、舞台で初めて全曲を弾いたことさえある。そんな記憶力とテクニックの持ち主なのに、ステージにのぼるのが死ぬほどこわい。アルゲリッチは一人で弾くのをやめてしまったし、リヒテルも、聴覚の障害が起きたころから楽譜を見て弾くようになった。
「あんなに弾けたらどんなにいいだろうと遥かに仰ぎ見る存在なのに、実際は下々と同じ悩みをかかえている。完璧を求められるからよりプレッシャーが強いんだろうなと思いました」
音楽について文章で的確に表現することはとても難しいが、青柳さんは演奏家としての知識やステージ経験を踏まえつつ、豊富な語彙で誰にでも想像力を掻き立てるように書いているのも大きな魅力だ。たとえばスピード・スケートの清水宏保が、「五百メートル35秒台と34秒台ではまるで感触が違う、世界が違う」と述べていることを引用しつつ、いかにしてピアニストがスピーディな指の筋肉と対話しながら練習するかという問題を鮮やかに論じていく。
ピアノの世界がこれほど人間臭く、裏のドラマに満ちたものであると知ったならば、クラシック音楽に日頃から馴染んでいなくとも、ついピアノを聴きに行ってみたくなる人も多いだろう。では実際にコンサトーでピアニストを聴く時には、どんな点に注意したらよいだろう?
「演奏家なら何かオーラを発してくると思うので、結局ラジオと同じで、それにチャンネルを合わせようとして欲しいですね。チャンネルが合わないとどんな素晴らしいものが流れていていも捉えられません。客席がチャンネルを合わせて乗ってくれれば、演奏家はどんどんいいものを出せます」
ところで青柳さんの音楽的ベースの一つは、意外なことに坂本冬美、美空ひばりなどの演歌だとか。
「演歌のこぶしのちょっとした揺らし方や発音、声の色などは、私たちがたとえばショパンのノクターン弾くときなどに参考になります。やはり音楽は人の心に届いて捉えなければ」
(取材・構成 林田直樹)