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ドビュッシー生誕150年の年

『新メルド日記』の読者の皆さん、長らく更新を怠っていてごめんなさい。
今年はドビュッシー生誕150年にグレン・グールド生誕80年・没後30年が重なり、レコーディングと関西ツアーで演奏も忙しく、HPに書く時間とエネルギーを、依頼原稿や単行本の執筆、ピアノの練習に全部吸いとられてしまった。せっかく、東京創元社から『メルド日記』単行本化のお話もいただいているというのに。    

2月は2度もパリに行った。一度めは2月2日から5日まで開催されたドビュッシー生誕150年記念国際シンポジウムに出席するため。このときのてんまつは、『図書』9月号から4回連載で書いている。

二度めは2月27日から3月8日まで。バスティーユの大劇場と小劇場でドビュッシー『ペレアスとメリザンド』と『アッシャー家の崩壊』のダブル上演を見るためと、関西ツアーで共演するクリストフ・ジョヴァニネッティとのリハーサルを兼ねての渡仏である。 その間、2月9~10日には大阪音大で演奏家特別コースの入試の審査をしたし、25日にはテレビ朝日で『題名のない音楽会』の収録をおこなっている。このときのてんまつは、『音遊人』の連載に書き、9月10日刊行の『ドビュッシーとの散歩』に収録した。帰国後も、3月10日には大阪音大大学院の入試審査をしている。
つまり、入試の合間をぬってパリに行っていたことになる。

4月10~12日には三重の県立文化センターでレコーディング。いつも収録に使うピアノのハンマーを交換したばかりとのことで、タッチの跳ね返りが悪く、いくつかの予定曲目がうまくはいらなかったので、さらに6月21日に録音することになってしまった。

5月3日は蓼科の川崎山荘のサロンに出演。ソプラノ歌手の吉原圭子さんのご協力を得て、「ドビュッシーと『雅びなる宴の世界』」というタイトルでレクチャーコンサートをおこなった。5月9日には、杉並公会堂小ホールでピティナの「ミュージックブランチ」に出演。こちらは、バリトン歌手の根岸一郎さんのご協力を得て、「黒猫詩人たちとドビュッシー」というタイトルで、やはりレクチャーコンサート。このあたりは、9月の『黒猫』連続コンサートのリハーサルを兼ねている。

5月16日には、ジョヴァニネッティが関西空港に到着。18日は豊中市の大阪大学会館で、ドビュッシー『アッシャー家の崩壊』のDVD上映と実演も含めたレクチャー・コンサートである。関連の作品で「水の精」や「カノープ」などピアノ曲、『ヴァイオリン・ソナタ』も演奏した。神戸女学院大学大学院在学中の松井るみさん(松井大阪府知事のお嬢さん)には、『アッシャー家』からマデリーヌが歌う「幽霊宮殿」のアリアを歌っていただいた。やはり神戸女学院の大学院生、藤波真理子さんのご協力を得て、4手連弾曲『6つの古代碑銘』も演奏した。

阪大会館は講堂を改装し、1920年製のベーゼンドルファーの修復をおこなったばかり。これからワンコイン市民コンサートを開催していく皮切りということで、事前に産経新聞に記事が出たこともあって会場は大盛況だった。

堺の山本宣夫さんが修復なさったベーゼンドルファーは幽玄な響きで、まさに『アッシャー家』の世界にぴったりだったし、大型スクリーンで観る『アッシャー家』のDVDも迫力満点で、お客さまにも喜んでいただけたと思う。

19日は、その山本さんが主催するスペース・クリストフォリ堺でジョヴァニネッティとのデュオ・コンサート。山本さんの工房は楽器博物館のようだが、私たちのプログラムのために1920年製のエラールを用意してくださった。天井が高いサロンで、ほんの軽く弾いただけですばらしい響きが立ちのぼる。

前半は私のソロでピエルネ『子供たちのアルバム』、デュオで『ヴァイオリン・ソナタ』。後半は再び私のソロで、ドビュッシーの「霧」「水の精」「カノープ」。デュオでハイフェッツが編曲した『牧神の午後への前奏曲』など編曲ものをいくつか弾いたあと、『ヴァイオリン・ソナタ』。

ピエルネのソナタを弾くのはこのときが初めて。とくに第1楽章は5連音符の連続でリズム的に不安定。和声的にも大胆な飛躍が多く、ピアノもヴァイオリンもなかなかはまらず苦労したが、客席には大いに受けたらしく、拍手喝采を浴びた。私のCDや著書も飛ぶように売れて、サイン会は大盛況だった。

翌20日は京都亀岡の桂ホールでのサロン・コンサート。檜の香りがする美しいサロンにハンス・ホラインという特別あつらえのベーゼンドルファーが置かれている。今回の関西ツアーでは、このピアノのタッチが一番手になじんで、楽しく弾くことができた。前半のプログラムは堺と一緒。後半のソロに「風変わりなラヴィーヌ将軍」、デュオの最後にラヴェル『ツィガーヌ』を加えた。お客さまはそう多くはなかったが、さすがに京都で、フランス音楽の専門家や仏文専攻の方など、ハイ・カルチャーな集まりだった。

その晩は亀岡温泉の豪華な温泉旅館に泊めていただき、豪華なお食事とお風呂を堪能した。翌朝は7時半から日蝕観測。お天気もよく、雲も少なくて絶好の観測日より。宿でもらった眼鏡で部分蝕を楽しんだあと、バスで保津川下りの船着場へ。

舟には3人の船頭さんがいて、前に立つ恰幅のよい船頭さんは、ときおりユーモラスなトークをまじえて漕ぐのだが、うしろにいるやせ型の船頭さんは長い竿をぐいと川底に突きたて、竿が斜めになるまで力をこめて押しながら舟の中をす早く移動する。竿が水平になったところで、またぐいと突きたて・・・をくり返す。その操作がとても力強い。赤銅色に日焼けした腕もたくましくてステキだなと思って見ていたのだが、前の船頭さんと交替してトーク番になったら、とってもひょうきんで、イメージが崩れた。
黙っていたほうがよい男性というのもいるものです。

以前に保津川くだりをしたときはジェットコースターのような急流の連続でスリル満点だったような記憶があるが、今回は「さぁくるぞ、くるぞ」と思っていたら一回もそんな場面がなく、ちょっと刺激不足だった。

船着場から嵐山駅に向かう道すがら、骨董好きのジョヴァニネッティは何度も立ち止まって好みの陶器や布を物色。こんな表通りに出物があるわけもないのだが、店の主人は喜んでしまい、以前にご来店なさったフランスの方はあの火鉢を購入されました、とかしゃべっている。どうやって運んだんだろう。

この日の午後は神戸女学院で公開講座の予定。ここで私がチョンボをした。JRで三ノ宮に着き、タクシーの運転者に「神戸女学院!」と告げるとけげんな顔をしている。
「はて、どこでしたかいな」「三ノ宮の運転者が女学院を知らないのかっ!」とか怒ったのだが、これは私のほうが悪い。女学院に行くときによくとり違えるのだが、最寄り駅は「西宮」。同じ「宮」でも大違い。

仕方なくえっちらおっちら電車に乗り直して「西宮」に向かった。ここでもチョンボ。降りるべき駅は阪急の「西宮北口」だったのだが、私たちはJRの「西宮」に着いてしまった。駅員さんに神戸女学院どちら? ときいたらこちらが近いというので、北口だったか南口だったか、閑散としたほうのタクシー乗り場で待っていたのだが、待てど暮らせどタクシーあらわれず。反対側の出口に降りればよかった。

30分ほど待たされてようやくタクシー到着。暑さと保津川下りの疲れと電車乗り違え事件でへとへとのまま女学院へ。何とか無事公開講座をすませたものの、やはり観光と仕事は両立しないと思い知らされた一日だった。

翌日から3日間オフ。山陰線沿線にある私の田舎の家に立ち寄ったり、丹後半島のピアノつきペンションで練習したりで英気を養ったあと、いよいよ関西ツアーの最後、神戸松方ホールでのデュオコンサートである。

前の夜はANAクラウンプラザホテルをとっていただき、夕食はお寿司。表面をこんがり焼いたあなごの押し鮨が最高だった!

松方ホールは昨年、メゾ・ソプラノの竹本節子さんとご一緒して以来だ。ここでも、トラブルが起きた。リハのために会場に行ってみると、見慣れない調律師さんが待っていらっしゃる。えっ、去年の方は?? 目がテンになった。

いにしえのフランス流奏法の私は、アフタータッチを多用するので、関西ふうの調律は性に合わないことが多い。下までしっかりタッチしないと音が出ないピアノでは色彩の微調整がきかないし、ハーフタッチが使えないと弾きにくいことこの上ないのである。昨年は2台あるうち1台のスタインウェイを選び、ついでにそのピアノを修復なさった松本さんという調律師さんを指名させていただいた。結果はごきげん! だった。

今回もとくに問い合わせがなかったので、同じピアノで松本さんが担当してくださるものとばかり思いこんでいた。もし別の調律師さんにお願いするなら、ひとこと確認していただきたかったのだが、ホール関係者は、ピアノは調律すればよいと思っているらしく、ぽかんとしている。

調律師さんはレーシングカーの整備師のようなものです、と恩師の安川加壽子先生はおっしゃっていた。ほんのちょっとしたことで致命的な事故につながるから、いつも綿密な連携をとっていなければならない。もちろん、演奏はカーレースではないから死亡事故が起きたりはしないが、こちらの計算と楽器の反応が食い違うと万全な演奏はできない。まぁ、安川先生が帰国なさったころは、そもそも「ピアノは調律しなければならない」ことすらわかっていない関係者が多かったそうだが。

もちろん、その日の調律師さんの技術が悪かったのではなく、単に私の奏法と合わなかったためなのだが、私的には鍵盤の跳ね返りが悪く、とくに、ツィンバロンという民族楽器を模したラヴェル『ツィガーヌ』のソロ部分など残念なことになった。

いつも譜めくりをしてくださるセミナーの生徒さんは、会場できいていて、少し響きがぼやけて聞こえたと言っていらした。デュオ的には、ヴァイオリンが少し元気がない感じに聞こえたとも。ステージで互いの音が聞こえにくく、ジョヴァニネッティは少し表現を抑えてしまったらしい。

それでも、ピエルネやドビュッシーの『ソナタ』は、ツアーの中では一番うまく弾けたように思う。両曲とも来年3月にパリでレコーディングを控えている。これから深めていくべき作品だ。

27日朝、ジョヴァニネッティを関空に送り出してほっとしていたところに、吉田秀和さんの訃報がはいり、週刊新潮で電話取材、共同通信からは追悼記事の依頼がはいった。28日月曜日までに原稿がほしいという。でも、その日から2日間神戸女学院でレッスンがあるので、東京に帰って資料を調べているひまがない。仕方なく心おぼえで書いて送った(こちらはHPの執筆・インタビュー欄に掲載されている)。早くも29日の東京新聞朝刊に載ったようで、知り合いの編集者からメールをいただいた。

共同通信は地方新聞に記事を送るので、いろいろな地方紙に同じ記事が載ったらしく、神戸や京都から反響があった。

帰京してからも『レコード芸術』はじめ音楽雑誌から追悼文の依頼があったが、共同通信の記事は、かえって資料のないところで書いたので楽だったように思う。

29日に神戸から帰ってその足で表参道のパウゼに向かう。前日からショパン協会主催のフェスティヴァルが始まっていて、私は全7回のコンサートのうち3回の人選とトークを任されていたのだ。29日のテーマはショパンとドビュッシーの練習曲。パリ音楽院でピエール・バルビゼとドミニク・メルレに師事し、長くヨーロッパで活動された岡本愛子さんにドビュッシー『12の練習曲』、安川門下の先輩でスイス在住の津田理子さんにショパンの作品25を全曲演奏していただいた。私はプレトークで、ドビュッシーとショパンの練習曲、ピアニズムの共通点について解説する。

岡本愛子さんは私が大好きなピアニストで、フランス風のエスプリというか、巧まざるユーモアが魅力だ。晦渋な難曲と思われているドビュッシーの練習曲も、岡本さんの手にかかると実にチャーミングで軽やかな作品に変貌するから不思議。

演奏会終了後、津田さんと久しぶりにお食事した。指揮者のご主人と結婚し、スイスで演奏活動をなさっている津田さん、送っていただいたショパンの『練習曲集』のCDがすばらしく、今回出演をお願いしたのだ。ショパン協会会長の小林仁先生も、海外が長いピアニストは語り口が違うねぇき感心していらした。母音の多い日本語を話していると、どうしても音楽も単調になりやすい。フランス語もドイツ語もしゃべっているだけで自然なリズムとメロディが生まれる。そんな違いだろう。

ご主人と共演した協奏曲のCDもある。さぞ幸せな演奏・家庭生活だろうと推測していたら、とんでもない、何年か前にご主人が病気で倒れ、看病のかたわらのコンサート活動だと苦労話をしてくださった。

津田さんは考えられるかぎりもっとも自然な奏法で、今まで手を傷めたことがないという。音楽も自然でおおらか、お人柄もそのとおり。そんな自然体でどんな苦難も乗り越えて行かれるのだろう。長く音楽をやっていくことについての指針のようなものをいただいた思いがした。

6月1日は、堀江真理子さんとのレクチャーコンサート。私が先にドビュッシーとショパンの音響語法について解説し、サンプルとして堀江さんがショパンの練習曲から2曲を弾かれる。後半は堀江さんにドビュッシー『前奏曲集第1巻』全曲を弾いていただいた。

堀江さんはご自身も病気と戦いながら活発な演奏活動をつづけていらっしゃる。昨年、86歳で超越的にすばらしいリサイタルを開いたアルド・チッコリーニのお弟子さん。やはり演奏活動を息の長いものととらえていて、「とにかく人前でなるべくたくさん弾きたいの」とおっしゃる。ある程度のレベルに達したら音楽は聴衆と一緒につくり、聴衆と一緒に成長させるものだからだ。

新緑の表参道、シゲル・カワイを弾かれる堀江さんの音はあくまでも豊穣に鳴り響いた。神宮前在住なので、足しげくリハーサルに通い、楽器の扱い方を熟知されたものと思われる。静謐な表現、ロマンティックな表現、コミカルな表現、いずれもツボにはまっていて、聴衆をひきつけた。メモリー的に必ずしも無傷ではなかったのに、そのことが少しも障害にならない。改めて、演奏とは音を通して伝える芸術で、よい響きこそが大事なのだと思った。

6月2日の最終日は、若手のピアニスト、谿裕子さんにドビュッシー『前奏曲集第2巻き』、大トリで日本を代表するピアニストで、浜松国際ピアノコンクールの審査員長にも就任された海老彰子さんにショパンの『24の前奏曲』を演奏していただく。私のトークのテーマは、両方の作曲家の革新性。未来に向かうドビュッシーがショパンから得たものについてお話した。

この日の演奏もすばらしかった。谿裕子さんは神戸女学院大の大学院在学中に、拙書『水の音楽』で修士論文を書いてくださったときからのご縁だ。安川記念コンクールの優勝者でもあり、しなやかな奏法と独特の斬新な解釈が持ち味だ。抽象性が勝った2巻の前奏曲にはぴったりで、とくに「妖精はよい踊り手」や「水の精」など聞きほれた。

後半の海老さんは、ショパン協会の理事会でもご一緒しているし、『我が偏愛のピアニスト』でお話を伺ったこともある。安川先生と同じく、私的な利益よりも社会的な利益ののことを考える方で、近年、とみにオフィシャルなお勤めが多く、自身の演奏活動に支障をきたすこともあると言っていらした。もともとじゅうぶんに練習してよい演奏をなさる方だ。

そんな中、前日は「疲れてひっくり返っていた」という2日の演奏は、まさに音楽の神様が乗り移ったような名演だった。ひとつひとつの音、ひとつひとつの表現に、海老さんの音楽家人生が詰まっていたし、彼女の音楽にかける強い思いが伝わってきて目頭が熱くなった。

ショパン協会のフェスティヴァルは、小林会長からドビュッシーに関する曲目と人選を任され、トークも担当させていただいた。自分では一音も弾かなかったけれど、よいコーディネイトをしたという感触があったし、達成感はひとしおだった。
でも、あとになって、やっぱり一音ぐらい弾いておけばよかったと後悔したのだが。

後日、協会の事務局から当日の写真を入れたCD-Rが送られてきた。出演者たちがドレスを着て記念撮影している。これは演奏前に撮影したのだろう。演奏中の写真もある。どれも、コンサートのチラシに使えそうな写真ばかりだ。私も、6月1日には前半まるまる使ってレクチャーをしたので、そのときの写真はいつ出てくるのかなとずっと見て行ったのだが、ついに写真はなかった。プレトークや打ち上げのときのスナップはあったけれど、正式なものではない。

私は演奏しなかったので、公式な撮影はしていただけなかったらしい。でも、プログラムなどでは出演者の一人として扱っていただいていたのだけれど。
こういうとき、やはり音楽の世界では弾いてナンボなのだと思い知らされる。

話は遡るが、6月1日の午前中には、桐光学園で講演を依頼されていた。夏の甲子園でドクターKの異名をとった松井投手の高校である。6月時点では、「桐蔭学園とどう違うの?」とかきいていたぐらいだった。サッカーの中村俊介選手や本田拓也(圭佑ではない)選手の出身校ということでスポーツ専門かと思ったら、文武両道の学び舎らしく、音楽教育にも力を入れていて合唱コンクールの上位常連校だという。

残念ながら講堂にはアップライトのピアノしかなく、演奏はできなかったが、父兄の間からは、せっかくピアニストなんだから演奏してもらったらいう意見も出ていたという。

中高一貫校で、講演の内容は大学生のレベルでよいという。今年は生誕150周年ということで、ドビュッシーの修業時代を映像やCDとともに振り返ったが、講演後の質問では、もっぱら私の「書いて弾く」活動に興味が集中していたようだから、そちらをテーマにお話すればよかったかもしれない。

のちに甲子園の関連記事で、上下関係が厳しい高校野球で、2年生の松井選手が先輩たちとタメ口をきいているという話題が出ていたが、本当にそんなリベラルな感じの学園だった。

6月21日は積み残しのレコーディングで三重へ。ドビュッシー晩年の「エレジー」や「負傷者の衣服のた
の作品」を収録した。2分足らずの切れっ端のような作品にこめられたメッセージ、行間の重さに胸を打たれる。うまく伝わっているとよいのだが。

翌日から大阪に行き、音大でレッスンしたあと、22日はシンフォニーホールでABC新人オーディションの審査。昨年の覇者、法貴彩子さんもいらしていて、終演後は出演者たちと楽しく会食した。今年のピアノ部門は芸大や東京音大の男子学生ばかりで、私の本も何冊か読んでくださっているらしく、グールドやツィメルマンなど、世界の名ピアニストの話題に花が咲いた。

みんなピアニストおたく、ピアノおたく。変わってないなぁ。私が芸大生のころは、あんまり有名ピアニストに興味がなく、同級生たちの会話から取り残されていた記憶がある。それがひょんなことから安川先生の評伝を書き、その流れで『ピアニストが見たピアニスト』を書き、邦人ピアニストへのインタビュー集『我が偏愛のピアニスト』も上梓し、昨年はついにグレン・グールド論まで上梓してしまうのだから、変われば変わるもんだ。 若い学生たちを見て思うのは、尊敬するピアニストがいるのは結構なことだけれど、あんまり尊敬しすぎるといつまでたっても越えられないよ、ということ。自分の音楽家としての理想をたった一人のピアニストに限定するのはもったいないことだと思う。ツィメルマンはもちろんすばらしいけれど、全然違う道で自分でなければつくれないものをつくろうとするのがクリエイターというものではないだろうか。

25日は午前中に高田馬場で『月刊ピアノ』の取材、午後は早稲田で音楽学の恩師、船山隆先生にお会いした。先生は前立腺癌を患い、7月初めにダ・ヴィンチというロボット手術を控えていらしたのだ。このときは、懸案の武満徹評伝の準備で早稲田大学の図書館に通っているころで、珍しい資料を見せてくださりながら、従来とはまったく違う武満像を描くのだと熱っぽく語っていらした。早稲田の図書館は夜遅くまで勉強できるのでとても使いやすいという。長く捜していた本も見つかって、自説にはずみがついたとも。

当たりをつけた方向に沿った資料に巡りあったときは本当に嬉しいものだ。私も早く、パリの図書館にこもってドビュッシーの資料研究を再開したいものだと思った(つづく)

投稿日:2012年9月2日

ジェローム・ロビンスのバレエとアンリ・バルダ その2

その1はこちら

結局、私たちはすぐにバルダと仲直りした。

最初のアクションは、私の携帯にはいっていたバルダからのメール。
「もしかしてお前たちは今日(4日)の午後の後半に私に会いたいと思っているか?」直訳するとこんな感じになる。

次のアクションは川野さんの手紙。最大限に礼をつくしておわびの言葉を書き連ねたらしい。最後に愛のメッセージもふんだんに盛り込む。美術館見物に行くついでにバルダのホテルに持っていき、フロントに預けてくると言って川野さんはアパートを出た。

私は部屋に残って仕事のつづきである。グレン・グールド論の初校が出ていて、一応出発前に戻してはきたのだが、往生際が悪く、まだ推敲したりないところがある。PCを開いてゲラの写しに手を入れる。

そうこうしているうちに、バルダから電話がかかってきた。「アロー?」もう川野さんからの手紙を読んだかなと思い、「ヨーコは?」ときいてみたら、「ヨーコ? 何のことだ」とバルダ。彼女はそちらのホテルに行ったはずだが・・・と言いかけたとたん、バルダが「今、あっちのほうにヨーコが見えた」と叫ぶ。えっ、何それ。とにかく川野さんにかわってもらったところ、笑いながら、ホテルに手紙を届けたあと、道でばったり会っちゃったのだと言う。「私、いつもバルダとばったり会ってしまうのよね」。

このあたりの経緯を川野さんにきいたら、以下のようなことだったらしい。ホテルには運良く! バルダはいなかったのでフロントに詫び状を託し、スワロフスキーで妹さんに頼まれたお土産を買い、外に出て数歩き振り返ったら、そのスワロフスキーのお店の脇でバルダに良く似た人物が電話をかけていたという(電話の相手はもちろん私)。まさかこんなところで会うはずないよね・・・と思ったら手招きするので、駆け寄ったという。

川野さんはてっきりバルダが置き手紙を読んだと思っていたのだが、電話切った瞬間、「お前たちは何で大変な思いをして取った招待席に座らなかったんだ~~~!!」とすごい剣幕で叱られて、返す言葉もなく「ごめんなさい、悪気はなかったの・・・」とくり返し、私のぶんまで怒られて大変だったらしい(スミマセン)。とにかくどこかでお茶することにして、ドイツ語のできない私でもわかるシュテファン寺院の前で15分後に落ち合う約束をした。

ところが、私がアパートを出て寺院のほうに歩いて行ったら、向こうからバルダと川野さんがやってくるではないか。どうも、方向音痴の私がちゃんとシュテファン寺院まで来れるかどうか心配になって、ケルントナー通り(オペラ座か らシュテファン寺院に通ずるウィーンのメインストリート)をゆっくり歩き、シュテファン寺院の手前を右折してアパートに向かったらしい。

新メルド日記20110731_01

川野さんの手紙を読んでいないバルダは、まだ渋い顔をしている。
バルダの提案で、シュテファン寺院の向かいにあるホテルの上階のカフェにはいった。カフェは込んでいて、しかもタバコの煙がもうもうにたちこめている。バルダはむせながら「フランスでは禁煙はあたりまえなのに何なんだここは・・・」と文句を言う。教会の塔がよく見える窓際の席に座り,バルダビールとソーセージ、私たちは焼きサンドのセットとコーヒーをオーダーする。

バルダはまだ昨夜の招待券のことをブツクサ言っている。どうしてお前(私のこと)は自分が電話したときにもうチケットを取ってあると言わなかったのか、せっかく事務局にかけあってよい席をおさえたのに、その席に誰もいないので本当に恥ずかしかった、etc,etc 。いちいちごもっともで、ひたすらあやまるしかない。でも、事務局は招待券をばらまいているから、座る場所に気をつけろと言ったのはそっちなのに・・・とかお腹の中では考えている。

気まずいのでサンドイッチにぱくつく。つけあわせのポテトフライがかりっと揚がっていておいしい。ビールにも合うのでバルダも手をのばし、ケチャップにつけてぱくぱく。少し機嫌がなおったかしら。

ぶつくさ言いつつ、バルダはカメラを出してシュテファン寺院や私と川野さんの写真を撮り、楽しそうでもある。笑いながら怒る・・バルダにはよくあることだ。

私たちはその日オパーで『ドン・ジョヴァンニ』を観ることになっていて、ボックス席のかなりよい場所をおさえていた。川野さんは普段着のまま出てきてしまったので着替えに帰りたいらしいが、私はただでさえ気まずいバルダと二人きりにされるのがいやで、このままいてくださいと懇願する。

『ドン・ジョヴァンニ』の開始時刻が近づいてきたのでカフェを出てオパーに向かう。バルダが、ウィーンの歌劇場は最新式で、正面の壁にスクリーンを設置し、チケットを持っていない人でも上演をみることができるようになっていると話す。たしかに、武道館を思わせる巨大なスクリーンが設置され、前にはベンチが置かれている。バルダとそのスクリーン前で別れ、劇場内にはいる。普段着で来てしまった川野さんは、ボックス席の場所を確認したあと大急ぎでアパートに戻り、ワンピースに着替えてきた。ウィーンのオパーの観客は割合に地味で、初日でもないし、それほど着飾っている人はいない。

留学時代にウィーンでオパーに通いつめた話は前回書いたと思う。ビルギット・ニルソンのイゾルデ、ペーター・シュライヤーのハーゲン、ギネス・ジョーンズのサロメとか、『ドン・ジョヴァンニ』ではフィッシャー・ディースカウの騎士長もあったろうか、とにかく豪華キャストだった。

今回の『ドン・ジョヴァンニ』も舞台はきれいだっだが、背景は写真だけとかずいぶん節約している感じだ。地獄落ちの場面も装置にお金をかけないのでまるで迫力なし。

指揮(Welner-Most)はすごくテンポが早く、序曲など荘重さが出ないし、歌手たちも早口言葉みたいになってブレスが大変そうだった。これが今の流行なのだろうか。

ドン・ジョヴァンニ役(Ildebrando D’Arcangelo)はよい声で、演技も自然、見た目もワイルドでかっこよかった。この役ばかりは、これなら女たちがほだされるのも無理はない、という気持ちにさせるようなワルの魅力がないとシラケてしまう。対して、ボケ役のレオポッロ(Wolfgang Bankl)はすごく肥っていて、久しぶりに歌手らしい歌手を見た思いがす る。この人もよい声だが、ドン・ジョヴァンニ役の声に似ているので、ときにかぶってしまうことがある。

男性陣に比べて女性陣は見劣りがした。ドンナ・エルヴィラ(Malin Hartelius・スウェーデン) はまだいなせな感じでよかったが、ドンナ・アンナ(Camilla Nylund ・フィンランド) はまったく声が出ていなかったし、コロラトゥーラの音程も不正確。これで、今シーズンのウィーンのサロメやアラベラを歌っているというから、ソプラノはよほど人材不足なのかと思ってしまう。

ツェルリーナ(Ilena Tonca・ルーマニア) も声が何だかぱっとしない。「お手をどうぞ」のアリアなど、かわいらしい魅力がなければ効果がないだろう。それでも、ウィーンのオパーの聴く者を包み込むような音響はすばらしく、堪能して帰ってきた。

この日の晩ごはんは前日の残りのターキーをきざみ、ズッキーニとトマトを加えたソースをつくり、ペンネにかけていただく。他にハム、ウオッシュチーズ、ピクルスなどをつまみに、オーストリア産赤ワインで乾杯した。

食事中にバルダから電話がかかってきた。何と、チケットを持っていなかったので、劇場の外の大型スクリーンでずっと観ていたのだという。ドン・ジョヴァンニは好演だが、ドンナ・アンナは声が出ていなかったし、音程も悪かった、地獄落ちの場面はまったく恐怖不足だった・・・と、同じような感想を言う。お前たちを驚かせるために終演後入り口で待っていようと思ったのだが、あまりに寒かったので最後の6重唱の場面の前で帰ってきてしまったという。そのくらいならチケットを買えばよかったのに。ホテルのフロントから川野さんの詫び状を渡されたらしく、ヨーコの手紙に感激している・・・というので川野さんに電話をかわった。作戦成功!

5月5日はロビンスのバレエの2回目の公演がある日だ。昼間はウィーンの美術館巡りである。まず、「黄金のキャベツ」の異名があるセセッションにクリムト「ベートーヴェン・フリース」の壁画を見に行った。

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「ウィーン分離派」の第14回展覧会(1902)に出品された壁画で、ベートーヴェンへの賞賛の念を示すために構想されたという。楽園の天使たちの合唱をバックに接吻をかわす男女の姿は、第九交響曲の歓喜の合唱のテキスト「この接吻を全世界に」からとられたとか。展覧会の終了とともに破棄される運命にあったが、美術コレクターが購入し、1903年の分離派第18回展覧会のあと、8つの部分に切り分けて保存された。

音楽が聞こえてくるような壁画なのかなと思って観たのだが、部屋そのものに風情がなく、とてもミケランジェロの『最後の晩餐』とは比較にならない。クリムトの装飾的な図柄や繊細な線、金箔や螺鈿細工を駆使した手法は、ベートーヴェンの無骨で壮大な音楽とはあまり相いれないように思われた。これはちょっと期待はずれ。

逆に期待を上回ったのが、新王宮の美術館である。留学生時代に市立の歴史美術館には通ったが、新王宮のほうは初めてである。いくつかある博物館の中で、エフェソス博物館と古楽器博物館に行った。

エフェソスには思い出がある。新婚旅行でギリシャに行ったとき,エーゲ海クルーズの一環としてエフェソス観光が組み込まれていた。エフェソスは紀元前11世紀に古代ギリシャ人が建設した都市国家で、現存する古代ギリシャ文明最大の遺跡である。とくに、乳房をたくさんつけたアルテミス像は有名だ。

都市遺跡はポンペイを巨大にしたようなもので、柱が立ち並ぶ石畳の道を歩んでいくと、左右に古代の円形劇場とか神殿、広場や浴場跡、美しいタイルや壁画で飾られた住居跡など次々にあらわれて、壮観である。当時はまだ発掘途中で明らかになっていない部分が多かったようだが、今は全貌をあらわしたのだろうか。

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オーストリアの考古学者がこのエフェソス発掘にかかわっているようで、当初からの写真がずらりと展示されている。壁には遺跡から発見された彫像やレリーフが飾られ、ちょっとした神殿体験ができるようになっている。これは非常になつかしかった。

古楽器博物館にはヴァイオリンや管楽器と並んで、チェンバロやオルガン、フォルテピアノ、ウィーンの銘器ベーゼンドルファーなどの鍵盤楽器もずらりと並んでいる。さすがにウィーンで、有名作曲家の名前がバンバン出てくる。モーツァルトがロンドンで弾いたと言われる1775年製のペダル・チェンバロ、ベートーヴェンが使っていた1800年製のヴァルター。ローベルト・シューマンとクララが結婚したとき、コンラート・グラーフがお祝いに贈ったという1839年製のコンラート・グラーフなんてのもある。これはのちにブラームスが譲り受けたそうな。

いずれも鍵盤の上にはプラスチックの覆いがかぶせられ、音出し禁止なのだが、下から手を差し入れるとタッチの感触ぐらいはわかる。昔のピアノはシングルアクションだから指のひっかかりがなく、ストンと落ちる。近代ピアノ奏法はひっかかりを計算しながら弾いているから、ストンと落ちるとびっくりする。これでシューマンを弾くにはずいぶんコントロールが必要だったろう。本当は弾いてみたかったけれど。

出口でバルダに電話して、出てこないかと言ってみたが,稽古で抜けられないという。午後はベルヴェデーレに行くと伝えて近くのイタリアン・レストランに昼食をとりに行く。キリッとした白ワインで乾杯。前菜はイタリアのソーセージ・サラミの盛り合わせ。付け合わせにオリーブ、ドライ・トマト、パプリカ。メインはラザーニャ。パリでバルダの行き付けのイタ飯屋で食べたラザーニャが冷たかったのを思い出す。こちらはチーズがとろりと溶けて、熱々でとってもおいしかった。窓の外を観光用の馬車が通っていくのを長めながらゆっくりと食事をした。

食後はベルヴェデーレにクリムトを観に行く。代表作の「接吻」や「ユディットとホロフェルヌス」が展示されている。といっても,私も川野さんもさしてクリムトは好きではない。私はココシュカに見入っていた。クリムトもココシュカも、アルマ・マーラーと縁の深い画家である。風景画家の娘として生まれたアルマ・シントラーは、17歳のとき35歳のクリムトに恋をしたが、愛人だらけで身持ちの悪い画家のことを心配した家族によって仲を割かれたという。

アルマは1902年、22歳のときにウィーン国立歌劇場の音楽監督で作曲家のグスタフ・マーラーに見初められて結婚する。シェーンベルクに作曲を習っていたアルマは,夫から作曲を禁じられて生きがいを失い、1907年には長女も亡くなって寂しさをアルコールで紛らすようになる。10年に保養先で出会った4歳年下の建築家グロピウスと関係をもち、夫が亡くなったあとは肖像画を依頼した7歳年下のココシュカと関係を持つ。

ココシュカはアルマに求婚するが、アルマは「傑作を描いたら結婚してあげる」と答える。アルマをモデルにしたココシュカの『風の花嫁』はこうして生まれた。しかしアルマは結局グロピウスと結婚するのである。

『風の花嫁』はバーゼルの美術館にあるらしいが、ベルヴェデーレにも『母と子供』などが展示されている。クリムトのような華麗な画風ではないが、タッチに深みがあり,思わず惹きつけられる。

最後にミュージアム・ショップでクリムトのスカーフを買う。金茶とオレンジを基調にしたもので、あまりけばけばしくなくて気に入った。

アパートにも度って着替え。川野さんは昔ウィーンでかったという紫地に花柄の、可愛いパフスリーブのワンピ。私はひらひらつきのアニマル模様のトップスにパンツ、クリムトのスカーフ。

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オパーに行き,バルダの2回目の公演を観る。今日は前回バルダが取っておいてくれたのと同じような最前列の席だ。思ったとおりダンサーの足先は見えない。パフォーマンスは1回めよりさらにこなれていて、とりわけノクターン作品55-2の同一性がすばらしかった。作品9-2も、前回はバルダのテンポが早めでダンサーたちが踊りにくそうだったが,このときはしっとりと弾かれた。ソロを弾くときは考えられないような速さで聞き手を置き去りにしてしまうことがあるバルダだが、ダンサーたちのステップには思いやりを見せて,じゅうぶんに待ってあげる。その配慮がえもいわれぬ「間」を生んで美しい。

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感激して劇場を出たところでバルダから電話。どうも音量が小さくて何を言っているのかよくわからない。どこかで待ち合わせ・・・と言っている肝心の「どこ」が聞き取れない。聞き返しているうちに電話が切れてしまった。楽屋口などいろいろなところに行ってみたが、姿がない。探しまわっているところに再び電話。「何をしているんだ!」

実はバルダ、劇場前の大型スクリーンの前で待っていると言ったらしい。なんだ、そうか。
衣装を入れたかばんを肩から下げてぽつんと立っているバルダを発見して、今度こそ「すばらしかった!」と首ったまにとびつく。彼もフツーに嬉しそうだった。

近くのカフェにウィンナーシュニッツェルを食べに行く。仔牛を平たくなるまで叩き、衣をつけて揚げた、いわゆるカツレツ。おいしかったのだが、食べている最中に油がはねてクリムトのスカーフを少し汚してしまった。

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食後はバルダのホテルまで夜の散歩。建築に詳しいバルダがウィーンの建物について私たちに説明してくれる。詳しいのはいいのだが、いちいち立ち止まって「お前たちはこの美しさに気づかないのか!」とアールヌーヴォーの建築様式について講釈を始めるので、いささか食傷気味。カフェでトイレに行き忘れた私たちは、にわかにもよおしてきてだんだん機嫌が悪くなる。バルダが、アールヌーボー様式の豪華トイレを見せたいというので一挙両得と喜びいさんで行ってみたら閉まっていたり。ようようのことでバルダをホテルに送りとどけたあと,脱兎の勢いでアパートに戻った。(つづく)

投稿日:2011年7月31日

「安川加壽子記念会 30年の時を経て蘇る秘蔵映像」を終えて

アンリ・バルダのウィーン日記が途中なのだが、次から次にことが押し寄せる。

6月24日には浜離宮朝日ホールの小ホールで安川加壽子記念会の第10回コンサートとして、安川先生ご自身の演奏映像を上映する会を催し、私がナビゲーターをつとめた。

安川記念会は、1996年7月12日に先生が亡くなったとき、ご葬儀の折りに楽奏するために発足した門下生の集まりが母体になっている。一周忌を期に結成され、97年に東京の紀尾井ホールで開かれたコンサートでは、先生のレパートリーからドビュッシーの前奏曲をメドレーで弾き、私も2、3曲弾かせていただいた。普通は一回かぎりの公演で終わりになるものだが、この会では、長く演奏活動をつづけた先生に倣って、先生にゆかりの演奏家の方々のご協力も得てそのつどコンサートを催してきた。

その第7回だったか、東京文化会館小ホールのロビーで、先生の演奏映像のごく一部を紹介したところ、大変好評をいただいた。当時はご夫君の定男先生もご存命で、「まるで加壽子が帰ってきたようだ」と喜んでくださった。そのときは、ロビーに椅子を並べただけだったので、残念ながら後ろのほうの席の方にはまったく見えなかったようだ。

今回のホールには大きなスクリーンもあり、後ろのほうの席はスロープになっているので見やすい。先生のあでやかな舞台姿を記憶にとどめていらっしゃる方には、それを新たにするこの上ない機会だろうと思う。今では、先生のステージに接したことのない方もたくさんいらっしゃるので、そんな方々にも是非見ていただきたいと企画した。

安川先生のファンの多くは、もう定年退職していらっしゃる方にちがいない。夜は出にくいかもしれないから、14時から昼の部を開催しよう。もちろん、現役の方々にも見ていただきたいから夜の部は19時に開催する。そんな提案をしたのは私だった。昼夜公演はトークコンサートで慣れている。それでも、自分が演奏するなら大変だが、今回はナビゲーターに徹するので大丈夫。

最初に放映したのは、1981年9月2日、先生の演奏生活40周年記念の年に日本テレビ『私の音楽会』という番組のためにおこなわれた公開録画からラヴェル『水の戯れ』である。

この作品は、先生の十八番のひとつだった。残念ながら典雅なピアノの響きはダビングで損なわれてしまったが、映像はそのままだ。安川先生のピアニズムで一番すごいと思うのは、左右の手の独立である。左手と右手がまるで別の生き物のように動き、左手は美しい放物線を描いて右手をとびこえ、すばやいアルペジオやたっぷりしたメロディを奏でる。体幹がしっかりして、肩から肘が完全に脱力しているからこそできることなのである。『水の戯れ』の右手には親指で二度を弾くむずかしい場面もあり、普通は手がひきつってしまうのだが、先生の長い親指は2つのキーを苦もなくとらえ、美しいソノリティをつくり出す。先生の手は大きく、左手で十度をつかんでいる場面もほんの一瞬出てくる。
そして、豊かな響をともないながら決して透明感を失わない絶妙のペダリング。

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次は、同じ番組から、音楽評論家の丹羽正明さんによっておこなわれたインタビューの模様である。主な話題は、前年に創設され、先生が審査委員長をつとめた日本国際音楽コンクール。それまでは日本から海外にコンクールを受けに行くばかりだったが、今度は自国で開催するので、やっと対等な場に立てた思いがするというお話だった。

お父さまが国際連盟で活躍され、自らも海外で育った先生は、国際社会の中に日本を置いて見るという意識が大変強かった。世界のピアノ界の動向と日本との比較、そして未来への展望まで、先生の視野の広さ、先見の明には驚かされる。1980年代はじめといえば、旧ソ連を初めとするいわゆる共産圏諸国が全体主義的な教育をおこない、国際コンクールで成果をあげていた時期なので、そのことも話題に出てきた。

民族によって勉強の仕方も違うというお話もおもしろかった。フランス、イタリアなどラテン系の国々は、まず土台づくりをしてから作品の演奏に応用するというやり方だが、アングロ・サクソン系はいきなり作品を勉強して、むずかしいところはその中で練習する、等々。私が育ったころの日本のピアノ界はまだまだ「より強く、より速く」という時代だったが、当時から安川先生は、テクニックは音楽表現や解釈に則したものでなければならない、そのためにもテクニックの土台づくりが重要だと力説していらっしゃった。

昨年のショパンコンクールなどを見ると、練習曲など、本来は腕の見せどころの場面でもあまりテンポを上げず、テキスト解釈で勝負しようとした人が多く、先生の予言は見事に当たっていると思う。

つづいて、同じ『私の音楽会』からモーツァルト『ピアノ協奏曲第26番 戴冠式』の第2楽章「ラルゲット」を見ていただいた。

『戴冠式』は1788年に書かれ、翌89年4月14日、ドレスデンの宮廷音楽会で、モーツァルト自身が初演したと言われている。翌90年、レオポルト2世の戴冠式の折りに演奏されたことからこの呼び名がある。

「ラルゲット」はイ長調の典雅な気分にひたされた美しい曲。カメラは先生の掌をいくぶん下から映し出すので、タッチが非常によくわかる。同じ音が4つつづく主題の前半をさまざまな方向のタッチで弾きわけ、つづくスラーとスタッカートでは手首の高さを変えて表情をつける。また、歌い込んでいくときの指のレガート、手首の位置なども、古典のメロディを歌うときのお手本のような奏法で、解釈とピアニズムが理想的にむすびついている。

中間部、右手一本でメロディを歌うところなど、音が減衰してしまうピアノには酷な箇所なのだが、先生が腕をしなやかに使って打鍵すると、たっぷりした余韻が長く糸をひき、少しも不足を感じさせない。あらためて先生のフレージングの見事さに耳を奪われた。

前半の最後は、同じ年の5月28日にNHKホールで開かれたN響特別演奏会から野田暉行『ピアノ協奏曲』の模様である。プログラムは他に、モーツァルト『ピアノ協奏曲K488』とラヴェル『左手のための協奏曲』。ラヴェルの『左手』には、低音部から高音部にかけて長いグリッサンドが出てくるが、右手をさっと出して邪魔になるたもとをおさえる動作がかっこよくて、今も目に焼きついている。

モーツァルトの第3楽章でもハプニングがあった。ロンド主題が再現されるところで先生は、とっさにあとのほうの経過句を弾いてしまったのである。一瞬はっと思ったが、よどみない流れの中で巧みに処理され、事故は何も起きなかった。それでも、演奏生活40周年を祝う演奏会で、先生のステージにかける意気込みとともに緊張も感じられ、先生にもこんなことがあるんだなーと、ちょっとほっとした気分になったことをおぼえている。

野田暉行さんの協奏曲は、1977年、NHKの委嘱により作曲・初演、同年尾高賞、芸術祭優秀賞を受賞した作品である。17歳までパリで学んだ安川先生は、アンリ・デュティユをはじめ同時代の作曲家たちがフランスの音楽界を担っていくさまをリアルタイムで見ていたので、作曲界が元気になると楽壇も元気になるからと、日本の現代ピアノ曲のシリーズを企画するなど、作曲界の活性化に力を尽くされた。

野田さんは、CD「安川加壽子の遺産」のライナーノーツで演奏会の模様を次のように書いている。

「安川先生が、ある日突然、私のピアノ協奏曲を弾くかもしれないと言われた時は大へんな驚きだった。いつも芸大の教授会では、斜め後ろの席でお近かった。とはいえ、先生は、若輩の私などなかなかお声をかけ難い存在であり、静かな佇まいの先生をただただ仰ぎ見るばかりだったのである。洋楽の神髄を体現され、日本の音楽史を自らの手で育ててこられた先生が、まだ生まれて間もない新曲を演奏して下さるということに、私は真に勇気付けられたのであった。(中略)

この夜の演奏は、まさに、自由な境地に到達された先生の奥義であった。まさかのこの演奏が、私の聴き得る、先生の最後の協奏曲の夕べになろうとは考えもせず、私は、ひたすら堪能していた。今もなおその光景は鮮明なのである。それから暫くして、先生はリウマチを患われ、それは不治の病となり、とうとう先生の手から音を奪い去ってしまった。最後の曲目の一つに私の曲を選んで下さったその思いを、その重さを、私は強く胸に秘めている。

演奏会当日、オーケストラとのゲネプロが終って先生に一つだけお願いをした。普通ならこの段階での注文は、聞くだけ聞いて、ということになるのであるが、先生はそうではなかった。「あ、そう」と軽く頷かれたその箇所は、決して変更容易なものではなかったが、本番で見事に変っており、私を驚嘆させた。やはり先生は、幼くしてプロとしてのメティエを獲得された、プロ中のプロであることを目の当たりにしたのであった」 
この演奏会で先生は、花柄のドレスの上に、打ち掛けのような同柄のふわっとしたガウンをまとってあらわれた。今から思えばリウマチで肩が冷えるのを防止するためだろう。

1980年代はじめといったら、現代音楽は一般的に「ガラガラドシャン」とうるさいものだと認識されていて、演奏するほうも平気でつぶれた音や汚い響きを出していたように思うが、先生は現代曲を弾くときでも常にためをつくり、極力ダイレクトなタッチを避けている。文字どおり「翼のはえた指」、シャープな腕の運びはさすがだと思った。

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この映像でおもしろかったのは、譜めくりである。譜めくり役は前の新演奏家協会代表の魚住源二さん。ホールではよくあることだが、天井で風が渦まいているので、譜面の片方が返ってきてしまってハラハラする。魚住さんが立ち上がるタイミングを失して先生がご自分でめくっているところもある。そうでなくても丁々発止の現代曲の協奏曲で、普通はそんなことがあったら気が動転するものだが、先生の沈着冷静ぶりに頭が下がる。

昼の部では、ここで楽しいできごとが起きた。協奏曲の映像途中で事務所の人が、野田先生がいらしてます・・・と耳打ちしてくださったのだ。演奏終了後、安川先生が客席に向かって手まねきをし、作曲者を呼ぶシーンが映っていたから、とっさにこれを利用しようと思った。

協奏曲が終わり、ステージが明るくなる。すかさず、客席のどこかにいるはずの野田さんに向かって「安川先生が呼んでいらっしゃいます」と呼びかけた。野田さんは立って挨拶し、客席からは拍手が沸き起こった。

終演後にきいたことだが、実はこのとき、音楽評論家の丹羽正明さんもいらしていたのだ。ご紹介しなくてすみませんとあやまったら、丹羽さんは、番組のことを熱っぽく語ってくださった。安川先生とのインタビューはよどみなく流れているように見えるが、実は4日前に打ち合わせし、細部まで練り上げたものだという。たしかに、先生はパリ育ちでフランス語が母国語、寝言もフランス語でおっしゃるというから、周到な準備がなければスムーズには運ばなかったかもしれない。

後半のプログラムは、前半より3年ほど前の1978年7月5日にNHKホールで開かれたショパン・リサイタルからの録画である。野田暉行さんが書いていらっしゃるように、先生はリウマチからくる手指の故障で83年を期に演奏生命を奪われたが、その最初の発作が起きるわずか1ヶ月前の演奏だった。リウマチが悪化してからは、語り種になっている先生のあでやかな舞台姿も損なわれてしまったが、この映像では、すべてが準備されているのにまったく自然なステージマナーを堪能することができる。

演奏会のプログラムで井上二葉先生が「袖から出てきたときからすでに音楽がはじまっている」と書かれているが、まさにそのとおりで、まずピアノの背もたれに右手をのばし、ついでピアノの背に左手を軽くそえる。そうえいば、このころはまだ背もたれのある椅子を使っていた(今ではスツールタイプが一般的だ)のだなと、そんなところにもなつかしい思いがした。

最初の曲は『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』。ポロネーズは1831年作。序奏は34年に出版される際に作曲された。管弦楽伴奏つきとして書かれたが、こんにちではソロで演奏されることが多い。アンダンテ・スピアナートでは、左手の親指を基点とした自在なアルペジオと、右手の美しいカンタービレが印象的だ。モーツァルトのときは手首を高くとって腕をつり下げるようにして弾いていらしたが、ショパンでは手首を低くとり、指先で練るようにタッチしている。安川先生といえば、優雅で繊細なタッチばかり愛でられたものだが、実はロマンティックな音楽にも対応するテクニックを持っていらしたのだ。

ポロネーズは右手の技巧が大変むずかしいが、先生独特の手前に引き寄せるようなタッチで苦もなく処理されている。腕でぽーんとはずませるスタッカート、身体中が躍動するようなダイナミックなリズムは圧巻。

何度も見ている映像なのだが、改めて大きな画面で見ると、しきりに胸が詰まって涙が出そうになって困った。聴いていらした方も同じ思いだったらしい。演奏終了後に客席はどよめき、自然発生的に拍手が湧き起こった。

先生のリズム感はヨーロッパ仕込みなのだ。パリで小学校に通っていらしたころ、体操の授業にダンスが組み込まれていて、すべてのステップを習ったという。先生のお宅に伺ったとき、小さな銀色のケースに細い爪楊枝のようなものがはいっているのを見つけて、これ何ですか? と伺ったら、舞踏会でダンスを申し込んできた男性に渡すものだと話していらした。残念ながら先生は、舞踏会デビューの前に戦争で帰国しなければならなくなったのだが、十七歳の先生が舞踏会に出ていたらどんなに人気だったろうと、思うだけでわくわくする。涙をこらえてこんな話をしたあと、「子守歌」「舟歌」「スケルツォ第4番」をつづけて見ていただく。

「子守歌」は1843~44年、ショパンが可愛がっていた歌姫ポーリーヌ・ヴィアルドーの娘のために書かれた作品。よどみない左手の伴奏に乗って、旋律に繊細な変化がつけられていく。カメラは下のアングルから映し出すので、先生の大きな掌で包み込むようにして装飾のヴァリアントが紡ぎ上げられていくさまに目をうばわれてしまう。自らも3人のお子さまをお持ちの先生の慈愛に満ちた表現にも心打たれる。

「舟歌」は、1846年に書かれたショパン晩年の傑作である。ヴェネツィアのゴンドラのリズムに乗って展開する音楽は刻々と表情を変える。いつも親指を基点とした重音のテクニック、常に呼吸しているようなしなやかな手首に目を奪われる。先生の「舟歌」のテンポでは、ひとつのエピソードがある。芸大のピアノ科の試験で、ある学生が「舟歌」の演奏時間を7分と書いて提出したところ、ある先生が「舟歌」は7分では弾けない、もっとかかるだろうと発言した。そうしたら安川先生はこともなげに「あら、私は6分で弾くわよ」とおっしゃったとか。

そんなわけでテンポは速いが、うつろいゆく表情の変化がさっとひと刷毛で描かれるあたりは見事。クライマックスでは、音楽に没入しきった先生ご自身の表情も読みとれる。

「スケルツォ第4番」は1842年作。悲劇的な作風のスケルツォの中で唯一長調で書かれた作品。優雅で洒脱な雰囲気が先生のピアニズムにぴったりだ。とりわけ両手でのぼっていく重音のスタッカートは誰もが苦労するものだが、先生は見事な指さばきで鮮やかに弾かれる。表面的な華麗さに耳を奪われがちだが、実は堅固な和声的構築にもとづき、太い線でぐいぐいと押していく迫力にも圧倒される。

ここでプログラムに書いた演奏がすべて終わり、客席からは再び拍手。

「ありがとうございます。先生は、今となってみればご丈夫だった最後の演奏会で、とても興に乗っていらして、珍しく3回もアンコールなさっています。先生のアンコールといえば、まずドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』『ミンストレル』、ショパン『練習曲作品25-1』や『同25-2』『夜想曲作品9-2』などでした。この日は練習曲2曲に加えて『ワルツ作品64-2』も弾かれています。残念ながら映像はないですが、そのアンコールの音をお聞きいただいて、終わりにしたいと思います。この音は、当時高校生だったあるファンの方が録音してずっと大切に持っていらしたのをコピーしていただいたものです」

音源を保存していらしたのは、当時地方の高校生だった方だ。一年の冬、テレビで安川先生の演奏会の録画を見て、「舟歌」のクライマックス部分でこれまで体験したことのない感動に襲われ、気がついたらテレビの前で涙を流していたという。この方はその体験を作文に書き、『音楽鑑賞教育』という雑誌の作文に応募したところ、入賞した。

そんな思い出とともに送られてきたのは、NHKホールでの演奏会の録音だった。私たちが入手した映像にはアンコール曲はショパン『練習曲作品25-1』だけだった(しかも映像は途中で途切れていた)が、録音ではさらに『ワルツ作品64-2』と『練習曲作品25-2』も収録されていた。

当初は『ワルツ』だけを聴いていただこうと思っていたのだが、リハーサルのときに聴いてみたら、『練習曲作品25-2』はさらに感動的な演奏なので、最後にこの2曲を聴いていただこうと思ったわけだ。
 どちらも、プログラムを演奏し終えたあとの高揚した気分がよく味わえるが、なかでも『練習曲作品25-2』はすばらしい。先生の右手からくりだされる繊細な6連音符を左手の三連音符が支え、からみあい、見事なアラベスクを紡ぎあげる(夜の部のトークではここを「アルペジオ」と間違えてしまった。痛恨のミス!)。
 
昼の部も夜の部も、終了後、ロビーに出て行ったら多くの方に囲まれた。
昼の部には野田暉行さんを安川先生の霊が呼ぶ(!)という感動的なハプニングがあり、こちらも高揚した気分がしばらくつづいた。夜の部にはその手は使えなかったし、そのぶん、立ち上がりが鈍かったように思うが、後半の『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』を見ているうちにどんどん音楽が身体に入り込んできて、後半のショパン・プログラムは昼の部より感情移入してトークすることができたように思う。

1978年という年は安川先生がエリザベート国際コンクールの審査に行かれて、日本人が誰も入賞できなかったのである種の挫折感をいだいたまま帰国、空港で肩に異変を感じたときである。先生はそのとき、「日本人が欧米のピアニストに追いつくまでにはあと25年はかかるだろう」と思われたという。それからとっくに25年はすぎているが、そして、その間日本のピアノ界は大進歩をとげ、国際舞台に進出しているはずなのだが、昨年のショパンコンクールでは再び振り出しに戻ってしまった・・・ような気がした。

いったい何なのだろう? 本物の脱力、本物のリズム感、本物の色彩感、本物の解釈とそれにむすびついたテクニック、アスリートと比べてもほれぼれするようななめらかで無駄のない動き。さりげない、でも美しいステージマナー、ドレス、仕種、たたずまいのすべて。何よりも、個より公のことをまず第一に考える姿勢、広い視野と暖かい心。

私は1999年に刊行した『翼のはえた指』で、「日本のピアノ界が頭打ちになっているのは安川加壽子が足りないからだ」と書いたが、その気持ちは今も変わっていない。

私は、評伝を書いたときもそうだったが、門下生だから安川加壽子先生のことを紹介したいと思ったのではない。真に偉大な音楽家で、生前にその希有なご存在がすべて理解されたとは思えなかったので、その隙間を-少しでも-埋めたかったのだ。

打ち上げを終えて帰宅したら、いくつか感想メールがはいっていた。
「初めて演奏とお姿を拝見したのですが、流麗でかつ衣装なども本当に美しく、当時の方々が憧れの眼差しで熱狂したのもうなずけました。あのような流れるようなショパン、あまり最近では聴かないように思います」
これは若い音楽学者の卵さん。

「初めて安川加壽子先生の演奏されている姿を拝見しました。衝撃でした。インタビューの内容もすばらしかったです。お話では幾度も、安川先生はこうであったといろいろな形で伺って来たのですが、実際目にすることができて本当に良かったです。映像を観たというよりも、本当に生の演奏会を観たような、生々しさ、鮮烈な印象を受けました」
こちらは元音楽雑誌の編集さん。

夜の部には子供たちもたくさんきていた。願わくば、彼ら彼女らの中に「安川加壽子」が根付き、いつか美しい実をむすばんことを。

新メルド日記20110608_03

投稿日:2011年6月30日

新メルド日記

MERDEとは?

「MERDE/メルド」は、フランス語で「糞ったれ」という意味です。このアクの強い下品な言葉を、フランス人は紳士淑女でさえ使います。「メルド」はまた、ここ一番という時に幸運をもたらしてくれる、縁起かつぎの言葉です。身の引きしまるような難関に立ち向かう時、「糞ったれ!」の強烈な一言が、絶大な勇気を与えてくれるのでしょう。
 ピアノと文筆の二つの世界で活動する青柳いづみこの日々は、「メルド!」と声をかけてほしい場面の連続です。読んでいただくうちに、青柳が「メルド!日記」と命名したことがお分かりいただけるかもしれません。

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