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「MERDE/メルド」は、フランス語で「糞ったれ」という意味です。このアクの強い下品な言葉を、フランス人は紳士淑女でさえ使います。 |
2008年7月27日/天使のピアノのレコーディング 6月2日〜5日はレコーディングだった。会場は、兄がお世話になっている知的障害児福祉施設・滝乃川学園の礼拝堂。メルド日記の愛読者の方はすぐにおわかりになるだろう、そう、「天使のピアノ」が置かれているところだ。 「天使のピアノ」とその所有者だった石井筆子さんについてはこれまでも何度かご紹介してきたのでここでははぶくことにする。 きっかけは、2004年5月、美智子皇后陛下もご列席くださった立教女学院でのコンサートで「天使のピアノ」を弾いたときである。演奏曲目からクープランのクラヴサン曲を収録したCDを差し上げたところ、美智子様は「天使のピアノでお弾きになったの?」とおききになり、そうではないとご説明するととても残念そうなお顔をなさった。 当日の出席者の方々からも「このピアノでレコーディングしてください」という声が多く寄せられ、学園側にも応援しますよと言っていただいた。以来、ずっと念じてきたのだが、CD業界は極端な不況で、なかなか名乗りをあげてくれるレコード会社が見つからなかった。 今回、7枚目のCD『ドビュッシーの時間』を出したカメラータ・トウキョウが興味を示してくれて、実現することになったのだ。カメラータは毎年8月に草津音楽祭を催している。美智子皇后陛下もお越しになり、音楽祭に招聘されている講師たちとプライヴェートで室内楽や協奏曲を演奏なさることもある。昨夏の演奏の模様はカメラータによって録音され、ごく一部がNHK−TVのニュースで放映されたから、ごらんになった方もいらっしゃるかもしれない。 そんな皇室にゆかりのレコード会社で、美智子さまが深い関心を寄せてくださる「天使のピアノ」のレコーディングが実現したのだからこんな嬉しいことはない。 しかし、実際にはとてもたくさんの問題があった。ひとつは、録音会場。 レコーディンクというのは一切雑音のはいらない環境で行う必要があるから、普通はスタジオやホールを借り切るのだが、「天使のピアノ」は100歳ぐらいでとてもこわれやすいため、できたらあまり移動させたくない。しかし、礼拝堂の目の前には調理室のボイラーが設置され、朝食から夕食まで園生たちの食事のためにフル回転、ブーンブーンという雑音がする。止まるのは夜の8時以降だという。防音設備もほどこされていないため、ちょっとでも雨が降ると雨音が何倍にも増幅されて聞こえる。 もうひとつの問題は、収録曲目。「天使のピアノ」はアップライトの古いピアノだから、普通のコンサートグランドのようにバンバン音を出す作品はふさわしくない。オーバーダンパーという機構でひとつひとつの音が糸をひくので、あまり音の多い曲だと何が何だかわからなくなる危険性もある。 最後の問題は、ほかならぬレコーディングである。「天使のピアノ」はとても音が小さいので、響きのよい場所で録音するのがベストなのだが、礼拝堂はそもそもコンサート会場ではないので音響設備の点でいろいろと不備がある。直接音を録ると、ほわんほわんとした魅力が失せてしまうし、間接音では目鼻だちがぼやけてしまうかもしれない。 そんな数々の問題を考慮に入れつつ、カメラータが出した結論は、「天使のピアノ」の保存を最優先して礼拝堂で録音することだった。ただし、調理室のボイラーが止まる夜の8時以降の録音で、雨が降ったら即中止。真夜中まで録音するとしても1日につき4時間ぐらいしか使えないし、天候にも左右されるので、通常の録音より少し長めに4日間の日程を組む。 曲目は、これまで「天使のピアノ」で演奏してきた曲目を中心に、ポピュラリティも考慮して以下のようなものを考えた。
さて、6月2日からレコーディングがスタートしたのだが、気になるのはお天気だ。例年はまだ梅雨入りしていない時期だからと選んだのに、間が悪いことに今年はすでに突入してしまった。しかも、梅雨入りするとお天気がつづくのが通例なのに、今年はしっかり雨が降った。そんなわけで、天気予報を気にしながらの録音となった。 初日は夕方まで雨が降っており、早くも中止かとあきらめかけたころに雨が上がり、6時ごろから礼拝堂入りした。スタッフはディレクターの末吉さん、エンジニアの宮田さん、営業の中野さんの3人。そして調律の小野さん。 まずは音決め。予想通り、これがむずかしかった! カメラータは現代音楽のレコーディングが多い会社で、どうしてもマイクの位置が近い。つまり、直接音を録ることが多い。『ドビュッシーの時間』のときも、大きなホールでのレコーディングではあったのだが、やはり最初はマイクが近くて、もっと響きに包んでほしいという要望を出したものだ。 今回はとくにアップライトのピアノなので、響きを拾うのはなかなかむずかしい。最初に試し録りしたときはピアノの響板近くにマイクをセッティングしていたので、音が乾きすぎ、どうもただの古いピアノにしか聞こえない。 そのことをエンジニアさんに言うと、「だって、古いピアノじゃないですか?」という答が返ってくる。「いや、『天使のピアノ』のレコーディングはただの古いピアノじゃダメなんてすよ、オーラがなくちゃ!」と抵抗する私。 「オーラはあとでつけます」とエンジニアさん。「ダメです、録音の段階でオーラがなかったら、決していい作品になりません」とあくまでも抵抗する私。 「天使のピアノ」を修復し、ずっと面倒を見ている調律師の小野さんに、「紀尾井ホールで聴く『天使のピアノ』は如何ですか?」ときいてみた。 「音は小さいんだけど、響きのよい紀尾井の最後列に座っていると、何とも言えない響きで包まれるような感覚を味わいます。それが普通のモダンピアノにはない感覚なんですよ」と小野さん。 「はい、その『響きに包まれる感覚』を求めて行きましょう!」とスタッフにハッパをかける私。なんだか反対・・・。 マイクの位置を変えたり、開いた蓋の上から音を拾うように工夫したり、ピアノの下部の蓋を取り去ったり、いろいろと試していたら、スピーカーからほわんといい感じの響きが出てくるようになり、やっと録音・・・と思ったら雨が降ってきた。 3日も夕方まで雨が降っており、中止かと思っていたらなんとかやんでくれたという、前日と同じようなパターン。録音の前に撮影がはいった。『レコード芸術』などのアーティストの写真を撮っているというカメラマンで、いろいろに照明を変えながら「天使のピアノ」と私の写真を撮る。レトロな楽器なので、いい絵が撮れるとカメラマンは上機嫌だった。 撮影も終わり、ボイラーのスイッチも切られたところで録音開始。曲が多いチャイコフスキーの『子供のための曲集』から録ることにする。各曲2回ぐらいずつ弾いて先に行くやり方。ところが、早速問題が起きた。 「お母さま」という曲でペダルの音がカタカタうるさいのである。子供のための曲だからペダルは少ないのだが、この曲はレガートがつづくので頻繁に踏むことになる。ところで、前日は付き添ってくれた調律の小野さんが、この日は都合が悪くて欠席。なおしていただくことができない。結局、ペダルの騒音が気になる曲だけハンギングになってしまった。 やはりチャイコフスキーの「ナポリの歌」でもメカニズムの問題が起きた。この曲は左手が和音でポロネーズのリズムを刻むのだが、「天使のピアノ」は鍵盤のはねかえりが遅く、和音が混ざってきこえてしまう。何度弾いても改善できなかったのでカット。かわりに「ポルカ」を入れた。こちらはごきげんな上がり。 つづくベートーヴェンでも、困った問題が起きた。『月光』ソナタの第1楽章を録音したところ、ディレクターさんが何だか変な響きがする・・・と言い出したのだ。ある和音の響きが濁って聞こえるという。「天使のピアノ」は古いメカニズムの特殊な楽器のため、音の組み合わせによっては完全な調和ということは望めないのだが、ディレクターさんの耳には耐えがたく聞こえるらしい。この問題も、調律師さんが不在のためクリアすることができず、ハンギング。 それでは『エリーゼのために』と思ったら、今度は別の問題が・・・。天井から雨垂れの音がぽつん、ぽつんときこえてくるのである。すわ、雨が降ってきたかと思って外に出てみると、晴れている。おそらく、礼拝堂の屋根の上に張り出している大きな木の枝からしずくが落ちてくるのだろう。 そんなわけで、雨音が気にならないうるさい曲を弾こうということで、スカルラッティとクーラウを録音したところでこの日はお開き。すべては、一日中晴れるという予報が出ている4日にかけることになった。 6月4日。私の誕生日はよく晴れわたり、ピアノも乾燥して気持ちよさそうで、レコーディングは調子よくすすんだ。調律師さんにはペダル、音の濁りなど前日の問題点をすべてクリアしていただき、録音し残したチャイコフスキーから収録。ついで、ベートーヴェン『月光ソナタ』と『エリーゼのために』も万全の響きで録音。とくに『月光』は集中して演奏できて、ワンテイクでOKが出た。 つづくクープランのクラヴサン曲も快調に録音していったが、ちょっと困ったのが「小さな風車」。タイトルどおり風車がくるくるまわっている様子をあらわしたかわいらしい曲なのだが、音がつぎつぎとかぶってしまうので、なかなか個々の音がクリアにきこえない。これは何度か録りなおしたところであきらめた。「天使のピアノ」の特性にあわなかったということだ。「修道女モニカ」はOK。 滝廉太郎の『怨』には苦労した。メンデルスゾーン『ロンド・カプリチオーゾ』に似た最後のオクターヴの連続がなかなかうまくはいらないのだ。普通のピアノには鍵盤のクッションというものがあって、和音やオクターヴの連打はその跳ね返りを利用して弾いている。跳び箱の踏み切り板を思い浮かべれば、その感覚をわかっていただけるだろうか。 ところが、「天使のピアノ」の鍵盤はこのクッションがなく、ストンと指が落ちてしまうので距離や幅が計りにくい。跳び箱の踏み切り板にしなりがなく、反発する力を利用できないような感じだ。かてて加えて、あまり大きな音を出してバンバン弾けない楽器なので、テイクのたびに調律の小野さんが心配そうな顔をなさる。ある程度弾いたところで中止することにした。というわけで、滝廉太郎は『メヌエット』だけになるだろう。 一番「天使のピアノ」に合っていたのは、もしかするとショパンの『ノクターン』だったかもしれない。有名な『作品9−2』と、映画『戦場のピアニスト』で有名になった遺作。2曲とも羽根のはえたように軽いタッチでごきげんで弾き終えた。 ふと、ショパンが弾いていたころのプレイエルを弾いたときのことを思い出した。古いプレイエルはシングルアクションで指がストンと落ちるピアノだが、横の動きに強く、ほんの軽く指をすべらせるだけで信じられないような美しい響きが立ちのぼる。「天使のピアノ」で弾くショパンの装飾音の数々も、ちょうどそんな具合だった。 ショパンはCD『浮遊するワルツ』のときも少し弾き、雑誌のレコード紹介欄で「もっとショパンを弾いてください」などと書いていただいたこともあったけれど、もともと苦手でコンプレックスをもっていた。でも「天使のピアノ」でならどんどんショパンを弾きたい、と思ってしまった。 余勢を買って、これも苦手なはずのシューマン『トロイメライ』も気持ちよく録音。私はもともとせっかちでテンポ感が早いのだが、「天使のピアノ」は鍵盤の跳ね返りが遅く、それを待ってから弾くためにどうしてもテンポは遅くなる。それが私の精神状態によい影響をおよぼしているようだった。 残るドビュッシーの『月の光』、ピエルネ『昔の歌』、ラザール・レヴィ『子守歌』もするするとすすんだ。 いよいよあと2曲。美智子さまが作詞なさった『ねむの木の子守歌』は、ちょっと思い出深い。ピアノ版の楽譜がなかったのでネットで検索していたら、小原孝さんが編曲なさっていることが判明した。私のコンサートの常連の方が小原さんの事務所にいらして、よく小原さんのお話は伺っていた。 文春新書『ボクたちクラシックつながり』で小原さんのインタビューを再録させていただいたところお礼メールが届き、ドビュッシー・シリーズ第2回のときには聴きにきてくださった。手元に名刺があったので、図々しく楽譜をFAXしてください! とお願いしたらすぐに送ってくださった。このときすでにレコーディング当日。午後の間に譜読みして収録にそなえたというわけだ。イントロにはドボルザーク『母が教えてくれた歌』のメロディを使い、なかなかしゃれたアレンジだ。とくにピアノの鍵盤の上の方を使う部分では、「天使のピアノ」のオルゴールのような高音部がよく活かされたと思う。 さて、いよいよ最後の筆子さま愛誦の賛美歌。「いつくしみ深き主の手にひかれて この世の旅路を歩むぞうれしき・・・」 自分でも歌っているようなつもりで弾いた。同じ鍵盤をはるか昔に筆子さまも弾かれたのだなーと思ったら、何だか自分が弾いているのではないような感覚におそわれ、不思議な気持ちになった。2回繰り返して最後に「アーメン」を置き、全曲目が終了。 5日も録音を入れていたのだが、天気予報によるとほぼ全日雨ということなので、ここで録音終了とすることにした。 私の誕生日だということをきいて、長く園生たちの世話をなさっている先生がワインを差し入れてくださった。といってもコンビニで買ったらしい赤ワインと白ワイン。赤ワインのほうは赤玉ポートワインみたいに甘かったけれど、おいしかった。ディレクターさんがもってきたおいなりさんをつまみながらスタッフと乾杯し、簡単な打ち上げをした。 最後にちょっとしたハプニング。帰りがけ、私がペットボトルの紅茶を飲んでいるときにエンジニアさんがおかしなことを言ったので思わず吹き出してしまい、そうしたら逆流した液体が器官にはいって呼吸困難に陥った。溺れかけたときのような感じで肺がうまくふくらまない。 念願の「天使のピアノ」での録音。その場で命を落とすのも悪くないななどと頭では考えながら、でも体は必死で呼吸しようとひーひー喉を鳴らす。 幸い、発作は4〜5分でおさまり、みなさんにお礼を言って帰路についた。 (「天使のピアノ」CDリリース:2008年10月25日) |
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