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| 2002年3月1日/イタリア旅行 2月11日から19日まで、ローマとその周辺を旅行してきた。以下にダイジェストでご報告しよう。 メディチ荘:スペイン階段をのぼったところにある広大なヴィラ。フランス学士院の施設で、ローマ賞という絵画・彫刻・作曲のコンクールで優勝人たちが、2〜4年間滞在して、国費の援助で勉強する。ドビュッシーやベルリオーズもここに留学していた。 観光客は入れないのだが、土、日だけガイドつきで庭園の鑑賞ができるというので、参加した。メディチ荘の前の階段は、ドビュッシーが同期のローマ賞受賞者と集合写真を撮った場所。写真そのままのたたずまいで、感激した。ガイドはフランス語のしゃべれるイタリア人で、巻き舌のフランス語がほほえましい。ほとんどはフランス人だと思 われるお客さん相手に、まぁフランスの悪口が出ること、出ること。ここには、イタリア式とフランス式の二種類の庭園があるのだが、フランスは植木を刈り込んで幾何学的につくるし、イタリアは自然のままに残したい方。ここで軋轢があったらしく、ある時期、フランス側がイタリア式の庭園まで短く刈り込んでしまったので修復に苦労したとか。フランス政府の管理人はみんな ドロボーで、庭の彫像を全部持っていってしまうから、今は庭園内の彫像はほとんど偽物だとか・・・・。 建物の中にははいれないのだが、扉の奥にかいま見た部屋は、石に囲まれて狭く小さく冷たそうで、ずっと住んでいたらリュウマチになりそうだった。 ドビュッシーが夏休み、貴族の別荘に招待されたという海辺の町フィミチーノ(空港のあるところ)にも行った。南フランスと同じ地中海のはずなのだが、海の色がひたすら透明で水色で、沖までずっとそのままなのでびっくりした。パリに年上の恋人を残してきたドビュッシーは、この海岸で何を思い、さまよい歩いたのだろうか。 オスティア・アンティーカ:ローマから地下鉄で行ける古代都市遺跡。留学生時代にも2度ほど訪れたが、何回見てもわくわくする気分は変わらない。 ポンペイほど規模は大きくないが、俗化していないため、心ゆくまでタイム・スリップ感を味わうことができる。 典型的なローマの傘型の松に囲まれたメイン・ストリートを歩いていくと 、古代の浴場跡 、円形劇場、カピトリウムの巨大な神殿などが次々とあらわれて、壮観である。なかでも、1700人を収容できるという円形劇場は、舞台の裏の壁がくずれてしまったために 、石段に座ると奥にあるセレスの神殿まで、壮大なパノラマがひろがっている。 オスティアの町は港町として栄えたが、神殿のまわりには70国もの商人がオフィスをかまえていた回廊跡も残っていて、床のモザイク模様からそれぞれのお国柄がしのばれる。すてきなフレスコ画の残っている居酒屋の跡で、もっていったワインとチーズ、ソーセージ(ローマ地方はソーセージの種類が豊富で、どの店も天井からすだれのように 吊して売っている)でささやかな饗宴を楽しんだ。 そのほか、思いがけず修復中の壁画のある家をみつけてはいりこんだり、巨大な洗濯屋さんの遺跡に感激したり、メドゥーサ模様のモザイクの家がなかなかみつからず、何度も行ったりきたり、迷路のようになっている古代都市をさまよい歩いているうちに閉館時間を1時間もすぎてしまったのだが、不思議なことに、時おり見かける観光客の誰 も急いでいる気配がない。別に、入り口で中にはいった人数を点検しているふうもないし、遺跡には番人もいないし、もしかして、このまま夜を明かしても、誰も文句を言わ ないんじゃないだろうか、とふと思った。 ハドリアヌス帝の別荘とエステ荘:ローマ郊外のティヴォリの名所だが、留学生時代に訪れたときは、観光バスに乗ったら、時間がなくてハドリアヌス帝の別荘に行ってもらえなかった。以降、ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」という名著を読んで、ずっとあこがれてきたのである。 ハドリアヌスは、治世のほとんどを視察旅行に費やした皇帝だが、そのときに印象に残った建物を、広大なヴィラの敷地内に建てさせた。海の円形劇場やセラピスの神殿とそれにつづくカノープ、大小2つの浴場跡、黄金宮殿の広場。解説書には世界最初の建築博物館と書かれているが、現地の建築を忠実に再現したわけではなく、ハドリアヌス の記憶にたよっているために、時代様式も建築様式も不明、専門家の目からみても、ルーツが何だかよくわからないものが多いらしい。同じように皇帝の夢を実現させた例に、ワグナーのパトロンだったルードヴッヒ二世のノイ シュヴァンシュタイン城がある。 こちらは資金難だったらしく、内部はいかにも安普請の建物だが、ハドリアヌス帝の別荘はものすごい壮大さで、人の手がかかり、きっと犠牲者も多く出たことだろう。案内図には、昔この廃墟を描いたピラネージの版画がいくつか引用されていた。 対してエステ荘は、山の斜面を利用した階段式の庭園に、大小500もの噴水が配されている。リストは、僧籍にはいってからときおりこのヴィラに滞在し、「エステ荘の糸杉」や「エステ荘の噴水」というピアノ曲も作曲している。ローマの誕生のエピソードをあらわした噴水や、巨大なオルガンの噴水、女神の無数の乳房から水が吹き出ている自然の噴水など個々の噴水も勿論面白いけれど、庭園全体がひとつの趣味で統一されているという点で、ハドリアヌス帝の別荘とは対照的だった。リストが住んでいたとおぼしき部屋は、工事中ではいれなかったが・・・。 カステッリ・ロマーニ地方とネミ湖:ここが今回の旅のハイライト。ローマから汽車で30分ぐらいのところには、昔ローマ貴族の別荘地だった多くの絵画的な美しい町が並んでいる。 白ワインで知られるフラスカーティでは、16世紀の貴族の館アルドブランディーニの美しい庭園を見学し、坂を降りる途中でみつけた造り酒屋さんで、計り売りしているフラスカーティをしたたかに呑んだ。はちみつ色をした液体はこってりとして、しかもくどくなく、これがフラスカーティなら、いつも呑んでいる瓶入りのフラスカーティは、いったい何だろう、という感じ。グロッタフェラーラでは、1004年の僧院でビザンチン様式の美しい礼拝堂をみたあと、絵はがき 売り場にいた山羊髭のお坊さんに、地下にあるローマ時代の回廊を特別に案内して もらった。バスの待ち時間に、屋台で売っているカステッリ・ロマーニ名物の「ポルケッタ」(子豚の丸焼き:ソフィア・ローレン の料理の本につくり方が書いてある)にかぶりついたのも、いい思い出だ。 カステッリ・ロマーニ地方には、アルバーノ湖とネミ湖という2つの火口湖がある。カステルガンドルフォは、アルバーノ湖に面した町。ここには法王の離宮があり、庭園からの湖の眺望がすばらしいのだが、公開していなくて残念。ジェンツァーノでは、もうひとつの湖、ネミ湖のほとりまで降りていった。「ディアナの鏡」といわれたサファイヤ・ブルーのネミ湖。フレイザー「金枝篇」を読んで以来、あこがれの湖だ。南側の山の上にはジェンツァーノ、北側にはネミという2つの町がある。フレイザーの本には、このネミの町の崖下にディアナの神殿がある、と書かれているが、どの旅行案内書をみても紹介されていない。 その晩はジェンツァーノに泊まり、魅力的なおかみさんのいるトラットリアで典型的なラツィオ料理(ブルスケッタやソーセージの盛り合わせ、鱈のスープなどアンティパストが最高だった!)を堪能し、次の日の朝、バスでネミの町に行った。町といっても、たった1500人しか住んでいない、ピトレスクな集落。観光案内所もなく、広場にも何の案内図もない。しかし、「この先、通行禁止」の標識のすぐ向こうに、「ディアナの神殿」の案内板があった。町の人にきいてみると、自動車は通れないが、歩いてなら行けるだろう、とのこと。先は、細い細い山道で、あちらこちらで枝わかれし、行き止まりも多かったが、試行錯誤の末に、ついにディアナの神殿を発見!! フレイザーの表現から山の祠のようなものを思い描いていたのだが、実際には壮大な規模の神殿で、崖の下に巨大な壁がひろがり、一応柵はしてあるものの、野原の方からまわると自由に前に出られる。神殿の部分は3段の階段と2本の柱が残っていたが、まだ発掘中。ここも一応金網で囲ってはあるのだが、発掘人はいないし、戸はあいている し、無防備この上ない。これ幸いと、写真をバンバンとってしまった。 いずれ、詳しい旅行記を書きたいのだけれと、掲載先がみつからない。うぇーん! |
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