ドビュッシー生誕150年の年

『新メルド日記』の読者の皆さん、長らく更新を怠っていてごめんなさい。
今年はドビュッシー生誕150年にグレン・グールド生誕80年・没後30年が重なり、レコーディングと関西ツアーで演奏も忙しく、HPに書く時間とエネルギーを、依頼原稿や単行本の執筆、ピアノの練習に全部吸いとられてしまった。せっかく、東京創元社から『メルド日記』単行本化のお話もいただいているというのに。    

2月は2度もパリに行った。一度めは2月2日から5日まで開催されたドビュッシー生誕150年記念国際シンポジウムに出席するため。このときのてんまつは、『図書』9月号から4回連載で書いている。

二度めは2月27日から3月8日まで。バスティーユの大劇場と小劇場でドビュッシー『ペレアスとメリザンド』と『アッシャー家の崩壊』のダブル上演を見るためと、関西ツアーで共演するクリストフ・ジョヴァニネッティとのリハーサルを兼ねての渡仏である。 その間、2月9~10日には大阪音大で演奏家特別コースの入試の審査をしたし、25日にはテレビ朝日で『題名のない音楽会』の収録をおこなっている。このときのてんまつは、『音遊人』の連載に書き、9月10日刊行の『ドビュッシーとの散歩』に収録した。帰国後も、3月10日には大阪音大大学院の入試審査をしている。
つまり、入試の合間をぬってパリに行っていたことになる。

4月10~12日には三重の県立文化センターでレコーディング。いつも収録に使うピアノのハンマーを交換したばかりとのことで、タッチの跳ね返りが悪く、いくつかの予定曲目がうまくはいらなかったので、さらに6月21日に録音することになってしまった。

5月3日は蓼科の川崎山荘のサロンに出演。ソプラノ歌手の吉原圭子さんのご協力を得て、「ドビュッシーと『雅びなる宴の世界』」というタイトルでレクチャーコンサートをおこなった。5月9日には、杉並公会堂小ホールでピティナの「ミュージックブランチ」に出演。こちらは、バリトン歌手の根岸一郎さんのご協力を得て、「黒猫詩人たちとドビュッシー」というタイトルで、やはりレクチャーコンサート。このあたりは、9月の『黒猫』連続コンサートのリハーサルを兼ねている。

5月16日には、ジョヴァニネッティが関西空港に到着。18日は豊中市の大阪大学会館で、ドビュッシー『アッシャー家の崩壊』のDVD上映と実演も含めたレクチャー・コンサートである。関連の作品で「水の精」や「カノープ」などピアノ曲、『ヴァイオリン・ソナタ』も演奏した。神戸女学院大学大学院在学中の松井るみさん(松井大阪府知事のお嬢さん)には、『アッシャー家』からマデリーヌが歌う「幽霊宮殿」のアリアを歌っていただいた。やはり神戸女学院の大学院生、藤波真理子さんのご協力を得て、4手連弾曲『6つの古代碑銘』も演奏した。

阪大会館は講堂を改装し、1920年製のベーゼンドルファーの修復をおこなったばかり。これからワンコイン市民コンサートを開催していく皮切りということで、事前に産経新聞に記事が出たこともあって会場は大盛況だった。

堺の山本宣夫さんが修復なさったベーゼンドルファーは幽玄な響きで、まさに『アッシャー家』の世界にぴったりだったし、大型スクリーンで観る『アッシャー家』のDVDも迫力満点で、お客さまにも喜んでいただけたと思う。

19日は、その山本さんが主催するスペース・クリストフォリ堺でジョヴァニネッティとのデュオ・コンサート。山本さんの工房は楽器博物館のようだが、私たちのプログラムのために1920年製のエラールを用意してくださった。天井が高いサロンで、ほんの軽く弾いただけですばらしい響きが立ちのぼる。

前半は私のソロでピエルネ『子供たちのアルバム』、デュオで『ヴァイオリン・ソナタ』。後半は再び私のソロで、ドビュッシーの「霧」「水の精」「カノープ」。デュオでハイフェッツが編曲した『牧神の午後への前奏曲』など編曲ものをいくつか弾いたあと、『ヴァイオリン・ソナタ』。

ピエルネのソナタを弾くのはこのときが初めて。とくに第1楽章は5連音符の連続でリズム的に不安定。和声的にも大胆な飛躍が多く、ピアノもヴァイオリンもなかなかはまらず苦労したが、客席には大いに受けたらしく、拍手喝采を浴びた。私のCDや著書も飛ぶように売れて、サイン会は大盛況だった。

翌20日は京都亀岡の桂ホールでのサロン・コンサート。檜の香りがする美しいサロンにハンス・ホラインという特別あつらえのベーゼンドルファーが置かれている。今回の関西ツアーでは、このピアノのタッチが一番手になじんで、楽しく弾くことができた。前半のプログラムは堺と一緒。後半のソロに「風変わりなラヴィーヌ将軍」、デュオの最後にラヴェル『ツィガーヌ』を加えた。お客さまはそう多くはなかったが、さすがに京都で、フランス音楽の専門家や仏文専攻の方など、ハイ・カルチャーな集まりだった。

その晩は亀岡温泉の豪華な温泉旅館に泊めていただき、豪華なお食事とお風呂を堪能した。翌朝は7時半から日蝕観測。お天気もよく、雲も少なくて絶好の観測日より。宿でもらった眼鏡で部分蝕を楽しんだあと、バスで保津川下りの船着場へ。

舟には3人の船頭さんがいて、前に立つ恰幅のよい船頭さんは、ときおりユーモラスなトークをまじえて漕ぐのだが、うしろにいるやせ型の船頭さんは長い竿をぐいと川底に突きたて、竿が斜めになるまで力をこめて押しながら舟の中をす早く移動する。竿が水平になったところで、またぐいと突きたて・・・をくり返す。その操作がとても力強い。赤銅色に日焼けした腕もたくましくてステキだなと思って見ていたのだが、前の船頭さんと交替してトーク番になったら、とってもひょうきんで、イメージが崩れた。
黙っていたほうがよい男性というのもいるものです。

以前に保津川くだりをしたときはジェットコースターのような急流の連続でスリル満点だったような記憶があるが、今回は「さぁくるぞ、くるぞ」と思っていたら一回もそんな場面がなく、ちょっと刺激不足だった。

船着場から嵐山駅に向かう道すがら、骨董好きのジョヴァニネッティは何度も立ち止まって好みの陶器や布を物色。こんな表通りに出物があるわけもないのだが、店の主人は喜んでしまい、以前にご来店なさったフランスの方はあの火鉢を購入されました、とかしゃべっている。どうやって運んだんだろう。

この日の午後は神戸女学院で公開講座の予定。ここで私がチョンボをした。JRで三ノ宮に着き、タクシーの運転者に「神戸女学院!」と告げるとけげんな顔をしている。
「はて、どこでしたかいな」「三ノ宮の運転者が女学院を知らないのかっ!」とか怒ったのだが、これは私のほうが悪い。女学院に行くときによくとり違えるのだが、最寄り駅は「西宮」。同じ「宮」でも大違い。

仕方なくえっちらおっちら電車に乗り直して「西宮」に向かった。ここでもチョンボ。降りるべき駅は阪急の「西宮北口」だったのだが、私たちはJRの「西宮」に着いてしまった。駅員さんに神戸女学院どちら? ときいたらこちらが近いというので、北口だったか南口だったか、閑散としたほうのタクシー乗り場で待っていたのだが、待てど暮らせどタクシーあらわれず。反対側の出口に降りればよかった。

30分ほど待たされてようやくタクシー到着。暑さと保津川下りの疲れと電車乗り違え事件でへとへとのまま女学院へ。何とか無事公開講座をすませたものの、やはり観光と仕事は両立しないと思い知らされた一日だった。

翌日から3日間オフ。山陰線沿線にある私の田舎の家に立ち寄ったり、丹後半島のピアノつきペンションで練習したりで英気を養ったあと、いよいよ関西ツアーの最後、神戸松方ホールでのデュオコンサートである。

前の夜はANAクラウンプラザホテルをとっていただき、夕食はお寿司。表面をこんがり焼いたあなごの押し鮨が最高だった!

松方ホールは昨年、メゾ・ソプラノの竹本節子さんとご一緒して以来だ。ここでも、トラブルが起きた。リハのために会場に行ってみると、見慣れない調律師さんが待っていらっしゃる。えっ、去年の方は?? 目がテンになった。

いにしえのフランス流奏法の私は、アフタータッチを多用するので、関西ふうの調律は性に合わないことが多い。下までしっかりタッチしないと音が出ないピアノでは色彩の微調整がきかないし、ハーフタッチが使えないと弾きにくいことこの上ないのである。昨年は2台あるうち1台のスタインウェイを選び、ついでにそのピアノを修復なさった松本さんという調律師さんを指名させていただいた。結果はごきげん! だった。

今回もとくに問い合わせがなかったので、同じピアノで松本さんが担当してくださるものとばかり思いこんでいた。もし別の調律師さんにお願いするなら、ひとこと確認していただきたかったのだが、ホール関係者は、ピアノは調律すればよいと思っているらしく、ぽかんとしている。

調律師さんはレーシングカーの整備師のようなものです、と恩師の安川加壽子先生はおっしゃっていた。ほんのちょっとしたことで致命的な事故につながるから、いつも綿密な連携をとっていなければならない。もちろん、演奏はカーレースではないから死亡事故が起きたりはしないが、こちらの計算と楽器の反応が食い違うと万全な演奏はできない。まぁ、安川先生が帰国なさったころは、そもそも「ピアノは調律しなければならない」ことすらわかっていない関係者が多かったそうだが。

もちろん、その日の調律師さんの技術が悪かったのではなく、単に私の奏法と合わなかったためなのだが、私的には鍵盤の跳ね返りが悪く、とくに、ツィンバロンという民族楽器を模したラヴェル『ツィガーヌ』のソロ部分など残念なことになった。

いつも譜めくりをしてくださるセミナーの生徒さんは、会場できいていて、少し響きがぼやけて聞こえたと言っていらした。デュオ的には、ヴァイオリンが少し元気がない感じに聞こえたとも。ステージで互いの音が聞こえにくく、ジョヴァニネッティは少し表現を抑えてしまったらしい。

それでも、ピエルネやドビュッシーの『ソナタ』は、ツアーの中では一番うまく弾けたように思う。両曲とも来年3月にパリでレコーディングを控えている。これから深めていくべき作品だ。

27日朝、ジョヴァニネッティを関空に送り出してほっとしていたところに、吉田秀和さんの訃報がはいり、週刊新潮で電話取材、共同通信からは追悼記事の依頼がはいった。28日月曜日までに原稿がほしいという。でも、その日から2日間神戸女学院でレッスンがあるので、東京に帰って資料を調べているひまがない。仕方なく心おぼえで書いて送った(こちらはHPの執筆・インタビュー欄に掲載されている)。早くも29日の東京新聞朝刊に載ったようで、知り合いの編集者からメールをいただいた。

共同通信は地方新聞に記事を送るので、いろいろな地方紙に同じ記事が載ったらしく、神戸や京都から反響があった。

帰京してからも『レコード芸術』はじめ音楽雑誌から追悼文の依頼があったが、共同通信の記事は、かえって資料のないところで書いたので楽だったように思う。

29日に神戸から帰ってその足で表参道のパウゼに向かう。前日からショパン協会主催のフェスティヴァルが始まっていて、私は全7回のコンサートのうち3回の人選とトークを任されていたのだ。29日のテーマはショパンとドビュッシーの練習曲。パリ音楽院でピエール・バルビゼとドミニク・メルレに師事し、長くヨーロッパで活動された岡本愛子さんにドビュッシー『12の練習曲』、安川門下の先輩でスイス在住の津田理子さんにショパンの作品25を全曲演奏していただいた。私はプレトークで、ドビュッシーとショパンの練習曲、ピアニズムの共通点について解説する。

岡本愛子さんは私が大好きなピアニストで、フランス風のエスプリというか、巧まざるユーモアが魅力だ。晦渋な難曲と思われているドビュッシーの練習曲も、岡本さんの手にかかると実にチャーミングで軽やかな作品に変貌するから不思議。

演奏会終了後、津田さんと久しぶりにお食事した。指揮者のご主人と結婚し、スイスで演奏活動をなさっている津田さん、送っていただいたショパンの『練習曲集』のCDがすばらしく、今回出演をお願いしたのだ。ショパン協会会長の小林仁先生も、海外が長いピアニストは語り口が違うねぇき感心していらした。母音の多い日本語を話していると、どうしても音楽も単調になりやすい。フランス語もドイツ語もしゃべっているだけで自然なリズムとメロディが生まれる。そんな違いだろう。

ご主人と共演した協奏曲のCDもある。さぞ幸せな演奏・家庭生活だろうと推測していたら、とんでもない、何年か前にご主人が病気で倒れ、看病のかたわらのコンサート活動だと苦労話をしてくださった。

津田さんは考えられるかぎりもっとも自然な奏法で、今まで手を傷めたことがないという。音楽も自然でおおらか、お人柄もそのとおり。そんな自然体でどんな苦難も乗り越えて行かれるのだろう。長く音楽をやっていくことについての指針のようなものをいただいた思いがした。

6月1日は、堀江真理子さんとのレクチャーコンサート。私が先にドビュッシーとショパンの音響語法について解説し、サンプルとして堀江さんがショパンの練習曲から2曲を弾かれる。後半は堀江さんにドビュッシー『前奏曲集第1巻』全曲を弾いていただいた。

堀江さんはご自身も病気と戦いながら活発な演奏活動をつづけていらっしゃる。昨年、86歳で超越的にすばらしいリサイタルを開いたアルド・チッコリーニのお弟子さん。やはり演奏活動を息の長いものととらえていて、「とにかく人前でなるべくたくさん弾きたいの」とおっしゃる。ある程度のレベルに達したら音楽は聴衆と一緒につくり、聴衆と一緒に成長させるものだからだ。

新緑の表参道、シゲル・カワイを弾かれる堀江さんの音はあくまでも豊穣に鳴り響いた。神宮前在住なので、足しげくリハーサルに通い、楽器の扱い方を熟知されたものと思われる。静謐な表現、ロマンティックな表現、コミカルな表現、いずれもツボにはまっていて、聴衆をひきつけた。メモリー的に必ずしも無傷ではなかったのに、そのことが少しも障害にならない。改めて、演奏とは音を通して伝える芸術で、よい響きこそが大事なのだと思った。

6月2日の最終日は、若手のピアニスト、谿裕子さんにドビュッシー『前奏曲集第2巻き』、大トリで日本を代表するピアニストで、浜松国際ピアノコンクールの審査員長にも就任された海老彰子さんにショパンの『24の前奏曲』を演奏していただく。私のトークのテーマは、両方の作曲家の革新性。未来に向かうドビュッシーがショパンから得たものについてお話した。

この日の演奏もすばらしかった。谿裕子さんは神戸女学院大の大学院在学中に、拙書『水の音楽』で修士論文を書いてくださったときからのご縁だ。安川記念コンクールの優勝者でもあり、しなやかな奏法と独特の斬新な解釈が持ち味だ。抽象性が勝った2巻の前奏曲にはぴったりで、とくに「妖精はよい踊り手」や「水の精」など聞きほれた。

後半の海老さんは、ショパン協会の理事会でもご一緒しているし、『我が偏愛のピアニスト』でお話を伺ったこともある。安川先生と同じく、私的な利益よりも社会的な利益ののことを考える方で、近年、とみにオフィシャルなお勤めが多く、自身の演奏活動に支障をきたすこともあると言っていらした。もともとじゅうぶんに練習してよい演奏をなさる方だ。

そんな中、前日は「疲れてひっくり返っていた」という2日の演奏は、まさに音楽の神様が乗り移ったような名演だった。ひとつひとつの音、ひとつひとつの表現に、海老さんの音楽家人生が詰まっていたし、彼女の音楽にかける強い思いが伝わってきて目頭が熱くなった。

ショパン協会のフェスティヴァルは、小林会長からドビュッシーに関する曲目と人選を任され、トークも担当させていただいた。自分では一音も弾かなかったけれど、よいコーディネイトをしたという感触があったし、達成感はひとしおだった。
でも、あとになって、やっぱり一音ぐらい弾いておけばよかったと後悔したのだが。

後日、協会の事務局から当日の写真を入れたCD-Rが送られてきた。出演者たちがドレスを着て記念撮影している。これは演奏前に撮影したのだろう。演奏中の写真もある。どれも、コンサートのチラシに使えそうな写真ばかりだ。私も、6月1日には前半まるまる使ってレクチャーをしたので、そのときの写真はいつ出てくるのかなとずっと見て行ったのだが、ついに写真はなかった。プレトークや打ち上げのときのスナップはあったけれど、正式なものではない。

私は演奏しなかったので、公式な撮影はしていただけなかったらしい。でも、プログラムなどでは出演者の一人として扱っていただいていたのだけれど。
こういうとき、やはり音楽の世界では弾いてナンボなのだと思い知らされる。

話は遡るが、6月1日の午前中には、桐光学園で講演を依頼されていた。夏の甲子園でドクターKの異名をとった松井投手の高校である。6月時点では、「桐蔭学園とどう違うの?」とかきいていたぐらいだった。サッカーの中村俊介選手や本田拓也(圭佑ではない)選手の出身校ということでスポーツ専門かと思ったら、文武両道の学び舎らしく、音楽教育にも力を入れていて合唱コンクールの上位常連校だという。

残念ながら講堂にはアップライトのピアノしかなく、演奏はできなかったが、父兄の間からは、せっかくピアニストなんだから演奏してもらったらいう意見も出ていたという。

中高一貫校で、講演の内容は大学生のレベルでよいという。今年は生誕150周年ということで、ドビュッシーの修業時代を映像やCDとともに振り返ったが、講演後の質問では、もっぱら私の「書いて弾く」活動に興味が集中していたようだから、そちらをテーマにお話すればよかったかもしれない。

のちに甲子園の関連記事で、上下関係が厳しい高校野球で、2年生の松井選手が先輩たちとタメ口をきいているという話題が出ていたが、本当にそんなリベラルな感じの学園だった。

6月21日は積み残しのレコーディングで三重へ。ドビュッシー晩年の「エレジー」や「負傷者の衣服のた
の作品」を収録した。2分足らずの切れっ端のような作品にこめられたメッセージ、行間の重さに胸を打たれる。うまく伝わっているとよいのだが。

翌日から大阪に行き、音大でレッスンしたあと、22日はシンフォニーホールでABC新人オーディションの審査。昨年の覇者、法貴彩子さんもいらしていて、終演後は出演者たちと楽しく会食した。今年のピアノ部門は芸大や東京音大の男子学生ばかりで、私の本も何冊か読んでくださっているらしく、グールドやツィメルマンなど、世界の名ピアニストの話題に花が咲いた。

みんなピアニストおたく、ピアノおたく。変わってないなぁ。私が芸大生のころは、あんまり有名ピアニストに興味がなく、同級生たちの会話から取り残されていた記憶がある。それがひょんなことから安川先生の評伝を書き、その流れで『ピアニストが見たピアニスト』を書き、邦人ピアニストへのインタビュー集『我が偏愛のピアニスト』も上梓し、昨年はついにグレン・グールド論まで上梓してしまうのだから、変われば変わるもんだ。 若い学生たちを見て思うのは、尊敬するピアニストがいるのは結構なことだけれど、あんまり尊敬しすぎるといつまでたっても越えられないよ、ということ。自分の音楽家としての理想をたった一人のピアニストに限定するのはもったいないことだと思う。ツィメルマンはもちろんすばらしいけれど、全然違う道で自分でなければつくれないものをつくろうとするのがクリエイターというものではないだろうか。

25日は午前中に高田馬場で『月刊ピアノ』の取材、午後は早稲田で音楽学の恩師、船山隆先生にお会いした。先生は前立腺癌を患い、7月初めにダ・ヴィンチというロボット手術を控えていらしたのだ。このときは、懸案の武満徹評伝の準備で早稲田大学の図書館に通っているころで、珍しい資料を見せてくださりながら、従来とはまったく違う武満像を描くのだと熱っぽく語っていらした。早稲田の図書館は夜遅くまで勉強できるのでとても使いやすいという。長く捜していた本も見つかって、自説にはずみがついたとも。

当たりをつけた方向に沿った資料に巡りあったときは本当に嬉しいものだ。私も早く、パリの図書館にこもってドビュッシーの資料研究を再開したいものだと思った(つづく)

投稿日:2012年9月2日

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