原智恵子さんのベヒシュタイン

CD61枚、本53冊
2月6日と8日、福島県立美術館と東京の如水会館でトーク・コンサートに出演したときの物販の成果である。聴衆はそれぞれ200名と130名。3人弱に一人は何か買ってくださったことになる。
ご来場いただいた方、ご購入いただいた方、誠にありがとうございました。

福島美術館のほうは、昨年亡くなった造型作家・伊砂利彦先生の追悼回顧展での演奏だった。伊砂先生は、ドビュッシーの『前奏曲集第1巻』『同第 2巻』にヒントを得た24枚のパネルを制作されている。それからの作品をご紹介しつつ、当該の前奏曲を弾く試みを、浜離宮朝日ホールや京都芸術センター、 そしてパリの日本文化会館でもおこなってきた。

『前奏曲集』のパネルは京都の近代美術家に収められているか、福島の美術館にも小型のパネルが24枚所蔵されている。今回は展示室の壁にそのパネルを掲げ、前にピアノを置いて演奏しつつ語った。

以下にトークの原稿を転載する。

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*演奏:『映像第2集』より「しかも月は廃寺に落ちる」を弾く。
 
皆様、こんにちわ。今日は伊砂利彦先生がドビュッシーをテーマに制作された作品をご紹介しながら、当該作品を演奏したいと思います。

今弾きましたのは、クロード・ドビュッシーの『映像第2集』から第2曲「今や月は廃寺に落ちる」です。
もう40年前になります。フランス留学から帰国した私は、東京でデビューリサタイルを開き、NHK-FMで『映像第2集』を録音しました。その 前の番組は邦楽の時間で、尺八の演奏が流れていたのですが、その直後に私の演奏するドビュッシーの作品が流れたとき、まったく違和感がないのにびっくりし ました。

それもそのはず、「今や月・・・・」の自筆原稿には、ちょうどこの部分に( とピアノで示しながら) 「ブッダ」と書きつけられていました。
また、『映像』の第3曲「金色の魚」のイメージ源は、ドビュッシーが所有していた金蒔絵の鯉だと言われています。

ドビュッシーは東洋の美術にヒントを得て制作しましたが、伊砂利彦先生はドビュッシーやムソルグスキーなど西洋音楽に刺激を受けてすばらしい作品の数々を創られました。

伊砂利彦先生は1924年、京都の三代つづいた友禅の染め物職人の家に生まれました。ドビュッシーが自然の描写を創作のよりどころとしたよう に、伊砂先生もまた、近代陶芸家の第一人者である富本憲吉に出会い、自然の写生から優れた模様をつくりだす姿勢を学びます。出発点で彫刻を学んだ経験を活 かし、対象を徹底的に「視る」ことによって形態的な特性を抽出し、伝統的な技法を駆使しながら造形していくという手法を追求していくことになります。

初期は蝋纈染めが中心でしたが、まもなく型染を主として手がけるようになります。

伊砂先生のテーマは10年周期で変化していきます。1960年代は「松シリーズ」でした。ついで1970年に「瀬」を発表してから「水シリーズ」がはじまります。

水流を上から眺めるだけではなく、水面近くまで目線を下げ、伊砂先生自身の言葉によるなら「水の表面に神経を集中し、型紙の型紙の制約に合うパターンがあらわれるのを待って描き留める」作業に没頭するあまり、一時的な視力障害を起こしたほどでした。

*「水の反映」を演奏する

伊豆の河津七滝に通い、滝口に落ちる水の一瞬の変化をパターンに置き換える作業に熱中していたとき、大阪でアレクシス・ワイセンベルクのリサイ タルでムソルグスキー『展覧会の絵』を聴いた先生は、「演奏された音がはっきりしたタッチでかたちになって頭に眼に飛び込んでくる」という体験をします。 ここで1ヶ月の間に一気呵成に制作されたのが、「ムソルグスキー『展覧会の絵』のイメージ」でした。

その後「音楽シリーズ」をはじめた伊砂先生は、まずドビュッシーの『海』にもとづく大作を制作しますが、規模が大きすぎてうまくいかず、もう少し短い作品を求めて『前奏曲集第1巻』にもとづく12枚のパネルを制作し、1981年に個展で発表しました。

型絵染の技法につきましては、プロのピアニストにしかピアノの奥義がわからないのと同じように、素人の私どもには表面的なことしかわかりませんが、伊砂先生のご令嬢に伺ったことを基に、ごく初歩的なところだけご説明致します。

模様の形に型紙を切り、和紙の上に置いて糊を上からヘラで塗り、型紙を取り去ると模様の形に糊のついていないところができます。その部分を墨濃淡、または絵の具等で染めて糊を洗い流すと型紙の形の模様になります。

伊砂利彦は音楽家でも音楽学者でもありません。彼はドビュッシーの音楽をひたすら聞き込み、タイトルからイメージをふくらませて制作しました。 それぞれの前奏曲のタイトルの裏にあるもの、作曲にまつわるエピソードなどは何も知りません。しかし、実際に作品を前にして私が驚くのは、伊砂がそうした 予備知識なしに見事に作品の核心をとらえ、ドビュッシーの音楽思想の深奥にまで達していることです。

たとえば第2曲「帆」は二重の意味を含んでいます。港に停泊するヨットの三角の帆が風にゆらいでいるところとも、ロイ=フラーというミュージッ クホールのダンサーが透明なヴェールと照明を巧みに使って踊っているさまとも。伊砂は三角形の型を微妙にずらすことによって濃淡をつけ、渦をまく五線譜 (黒い細い線)で帆の間を流れる風を表現しています。
 
毛筆の一筆書きのような見事な線をきざんでいるのは「アナカプリの丘」です。伊砂先生は、染める段階になると職人の仕事になるが、木炭でデッサン し、その線を切り出すときにもっとも芸術的な霊感が働くと言っています。霊感が湧き出るときは手が勝手に動くとも言っています。この作品の線がそれを物 語っています。 
 
いっぽう「雪の上の足跡」では、ドビュッシーが楽譜に書きつけた心象風景”Ce rythme doit avoir la valeur sonore d’un fond de paysage triste et glace”を木炭の形をそのまま残した型紙を微妙な角度で並べることによって表出しています。
 
ドビュッシーと伊砂先生の親和性をもっともあらわしているのは、「沈める寺」でしょう。伊砂利彦が水のさまざまなヴァリエーションを描きつづけ たのと同じように、ドビュッシーもまた水のさまざまな様相を音にしました。前奏曲だけでも、帆、雪の上の足跡、西風の見たもの、霧、オンディーヌ、そして 沈める寺と6曲もあります。
 
ご存じのように『沈める寺』は、ブルターニュの伝説にもとづいています。悪魔と結託した娘によって海の底に沈んでしまったイスの町。水辺に立つ と今も波の間に間に僧侶の読経の声と鐘の音が漏れきこえてくるといいます。曲は、いったん教会堂がせりあがり、また沈み行くさまをあらわしています。伊砂先生は、沈む寺が浮き上がる時の予兆の水の騒ぎを表現したと語っています。水のゆらぎを思わせるバックは、和紙全体に糊を置き、乾燥させてひび割れたとこ ろに薄い色を染めて洗うことにより、見事な効果を出しています。

*前奏曲を抜粋で演奏

1984年には同第2巻も発表されています。この回顧展のパンフレットに使用されている第1曲「霧」は、「スキーで体験した霧の音」を表現した といいます。「信州横手山から志賀高原へのコースを誤って草津側へ下り、誤りに気づいて引き返す時にわかに霧に包まれ、その時の恐怖の中で聴いた霧の音。 霧の中をまた一段と濃い霧が流れていく」

第8曲「水の精」は傑作ですね。原曲はロマン派の作家ド・ラ・モット・フケーの『ウンディーネ』をもとにイギリス20世紀初頭のイラストレー ター、アーサー・ラッカムが制作した絵本にもとづいています。「美しい妖精が水から現れる予兆の水の騒ぎ出す表情」と伊砂先生は語っています。

*2曲をつづけて演奏

伊砂利彦は伝統的な型絵染のテクニックを駆使しながら、彼のアイディアはすぐれて立体的であり、むしろ抽象的ですらあります。いっぽうドビュッ シーは西洋音楽の手法を使い、西洋の楽器を使っているにもかかわらず、彼の音楽は平面的でスタティックである。この西洋文化と東洋文化の二重の交換は、私 には大変興味深いものに思われます。

また、いくらドビュッシーがスタティックといっても、武満徹の作品と並べて聴くとやはり立体的に聞こえるし、ドビュッシーの音楽に流れる時間 は、ゆったりとしながらも確実に前に進んでいます。いっぽうで伊砂利彦の作品は、いくら型絵染作品にしては立体的といっても、やはりフランス人にとっては 平面的な美を誇っているというふうに理解されるでしょう。このあたりも面白いです。

それでは、最後に伊砂先生の「月之道」にちなんで「月の光」を演奏します。

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以上が福島県立美術館でのトーク原稿である。必ずしもこの通りにしゃべったわけではないが、おおよその雰囲気は感じとっていただけると思う。

美術館にはピアノがないので、シゲル・カワイ・モデルのセミグランドを運んでいただいた。このピアノはとても色彩感豊かでよく響く。ところで展 示室も残響が多いスペースだったので、ペダルを少なめにしたりタッチをスタッカート気味にしたりして、何とか響きをまとめることができたように思う。

2月8日は一橋大学OB会主催による週一回のフォーラムで、竹橋の如水会館の2階でおこなわれた。企画はドイツ文学者で音楽評論家の田辺秀樹さ ん。お顔が広い田辺さんだから,毎週そうそうたる顔ぶれが講師をつとめていらっしゃる。そこに入れていただけるだけでも光栄だった。

ここには、原智恵子も弾いたという1923年製のベヒシュタインが置かれている。当日会場で配られたパンフレットを紹介しよう。

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*兼松講堂ものがたり

ベヒシュタインピアノ、原智恵子 そして兼松講堂

時は太平洋戦争の敗色が漂い始めた頃・・・。開戦当初の戦意高揚のスローガン「撃ちてし止まん」もいつしか「一億玉砕」に変わり、昭和18年、 学生の徴兵猶予が停止され学徒出陣が始まった。翌、昭和19年(1944)10月、この兼松講堂において本学学生の出征学徒壮行会が行なわれた。

2、3の教授の壮行の辞に続いて演壇に立たれた山口茂教授の力強い第一声は「諸君、どうか死なないでくれ…。」学生たちは一瞬我が耳を疑い、場 内は水を打ったような静けさになったという。戦場で国のために死ぬことが日本男子の名誉とされ、生きて帰るなどとは口が裂けても言えなかった時代である。
「一億玉砕なぞと、死にたい奴は死なせたらよい。しかし諸君には生きていてもらわなければ困る。戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは諸君なのだ・・・。」                            
              
この壮行会でピアノ演奏をしたのが、日本人ピアニストの草分けとしてショパンコンクール(1937)に初めて入賞し「特別聴衆賞」も得て、世界から「東洋の奇跡」と称えられた国際的な名ピアニスト・原智恵子(1914~2001)だった。

彼女は13歳でパリに渡り、ラザール・レヴィ、コルト-、ルービンシュタインなどに師事、コンセルヴァトアール(パリ音楽院)を首席で卒業しピアニストとしてのキャリアを着実に歩み始めたちょうどその矢先、戦争のため帰国を余儀なくされていた。

帰国後は、最も著名な演奏家の一人として、戦時色濃厚な中、芸術を求めて止まない人々の期待に応えて演奏を重ね、表現の自由が極度に制限された中でも、芸術としての本来持つ自由な精神を決して失わなかった意志の人でもあった。

実は、当初、彼女は出征壮行会なら出演しないと固辞したと伝えられている。とこうが、当時日本に3台しかないといわれていたドイツ製べヒシュタインピアノがあると聞いて、まさかと驚き、「そのピアノを弾かせていただくために・・・」ということで演奏が実現した。
山口茂教授の壮行の辞に引きつづいて原智恵子がピアノを演奏・・・。そして演奏が終ると自ら進んで演壇に立ち挨拶した。

「本日は思いもよらぬ素晴らしい会にお招きをいただき感激しております。ただいまは戦(いくさ)に向かう若者の情熱を讃えたショパンのポロネーズ を演奏いたしました。行く日があれば必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋のときにはぜひともまたお招きをいただきたい。みなさま、おすこやかに・・・」
この美貌のピアニストは両手を前に固く結び、両眼からとめどもなく溢れ出る涙は頬を伝って流れ落ちていた。
                       
この壮行会の翌日にはもう憲兵が来校し、教授の話を聞いた学生に内容を聞きまわっていたという。
この翌月11月3日、兼松講堂では創立記念を兼ねた文化厚生会(=文化祭)が行なわれ、ふたたび原智恵子が演奏している。

そしてこの日を境に、べヒシュタインピアノは片付けられて座席も取り外され、工作機械類が憲兵と軍人に先導されて次々とトラックで運び込まれ、 兼松講堂は軍需工場となった。いよいよわが国も、そして「東京産業大学」と改称させられていた東京商科大学(現一橋大学)兼松講堂も、終戦までの厳しい道 のりを歩むことになる・・・。
                       
そして幾星霜・・・。2005年7月18日、70数年ぶりに大改修された兼松講堂での第1回「くにたち兼松講堂 音楽の森コンサート」“ピアノ 四重奏の夕べ-上田京・恵谷真紀子とウィーン・フィルの仲間たち”を聴かれた往年の卒業生Eさんは、当日のアンケートにこう書いておられる。
「学徒出陣の思い出が残る兼松講堂が、今、こうして地元の方々に愛されているのは本当に嬉しい・・・。」(了)
〔注〕この稿は、一橋大学同窓会誌「如水会々報」に寄稿した田中秀一さん(1949年専門部卒、故人)の鮮烈な思い出や田澤義彦さん(1950年 学部卒)の証言などをまとめた、一橋大学広報誌『HQ』Vol.3(2004年春号)「記憶の中の兼松講堂--激動の昭和史をみつめてきた講堂2」に依拠します。

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1853年にベルリンに設立されたべヒシュタイン社のピアノは、リストやドビュッシー、名ピアニストのシユナーベルも愛用したという。

兼松講堂にあったべヒシュタインのグランドピアノは1923年製であり、戦前・戦後の一時期まで原智恵子、安川加寿子などわが国の代表的ピアニストがたびたび演奏している。

以後半世紀、ひっそりと大学の片隅で眠っていたが、2003年、如水会(一橋大学の同窓会組織)によって修復され、みごとに蘇った。現在は如水会館におかれ、「如水サロンコンサート」などで使用されている。
                                     
如水会館のプログラムは「フランスのエスプリ クープランとドビュッシー」というタイトルで,クープランの「パッサカーユ」で開始し,「百合の 花ひらく」「葦」「恋の鶯」「フランスのフォリア・またはドミノ」などを解説つきで演奏し,ついでドビュッシーとクープランの関係についてお話しながら 「2つのアラベスク」「月の光」「前奏曲集」第一巻を抜粋で弾いて行った。

ひと口にフランスのエスプリなどと言ってもきれいごとではない。フランスが最も栄えていたルイ14世時代の宮廷。料理長は注文した鮮魚が定刻に 到着しないだけで責任をとって自殺し,それでも宴会は何事もなかったようにとりおこなわれる。貴婦人は身内に不幸があってもおくびにも出さず,洗練された 会話で周囲を楽しませる。

宮廷作曲家のクープランは,やんごとなき人々を音楽で揶揄する。今では誰の肖像だかわからなくなったが,彼のクラヴサン曲には「とげとげしい女」「そしらぬ顔であざけり笑う女」など,とても意地悪なタイトルが多い。「フランスのフォーリアまたはドミノ」も,一人の清純な女性が宮廷生活の悪弊に 染まって身を持ち崩していく年代記ととれないこともない。その辛辣な批評精神はドビュッシーにも受け継がれ,たとえば「ミンストレル」という曲の中間部 には「あざ笑うように」という指示が書きつけられている・・・などというお話をする。

楽器としてはレンタルのヤマハC3が演奏用に用意されていたが,クープランのような古典はベヒシュタインのほうがよいかもしれないとのことだった。そして,ベヒシュタインで弾きはじめてみると,あまりに吸いつくようなタッチで,思っていることが全部伝えられるのが心地よく,「月の光」「亜麻色の 髪の乙女」など数曲のほかは全部ベヒシュタインで弾いてしまったのだ。

私は割合に楽器に敏感なほうで,タッチや調律・調整が合わないと微妙なところでつっかかってしまうのだが,このベヒシュタインに関してはすみずみまで弾き方が適合し,誠に幸せな時間だった。

とりわけ,原さんが愛奏した「百合の花ひらく」と「葦」を弾いたときは感慨深いものがあった。私が小さいころ,よくラジオから原さんの演奏でこ の曲が流れてきたからだ。 父は私に「原智恵子というピアニストはすごい才能だが,どうもあまり日本の楽壇とうまく行っていていない。その悲哀のようなも のが演奏に出ている」と話してくれた。

そうした個人的な感情が演奏に反映されるかどうかは疑問だが,原さんが日本であまり居心地のよい思いをしていなかったことは確かだ。原さんの評伝では、その原因が我が恩師安川加壽子先生にあるかのような書きぶりで、それには同意できないのだが、日本特有の村社会に原さんは適応できず、一方で安川先生はすっと溶け込めたというのは事実だろう。しかし,安川先生がストレスを感じていなかったわけではなく,それはずっとあとになって宿痾のリウマチという形で あらわれ,先生のお体を蝕んでいったのだ、と勝手に解釈している。

※写真は、如水会館のベヒンシュタインです。

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投稿日:2011年2月23日

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