フランス文学の専門家だが教授業はやっていない。達意の翻訳家だったが、おおかたがマイナーなものなのでさっぱり売れない。それでいて不治の骨董狂。
まだある。井伏鱒二、太宰治、上林暁、外村繁のような小説家たちが、何かというとその人の家に集まり、放談と酒盛りをくりひろげる。称して「阿佐ヶ谷会」。戦前から、中央線の阿佐ヶ谷に住んでいた井伏鱒二を中心に、将棋大会を、看板にした酒宴が、文士のサロンとして定例化していた。会場はまちまちだったが、戦後はほぼ一定した。すなわち、青柳瑞穂宅。
青柳瑞穂。まさに知る人ぞ知るで、フランス第二帝政末期の詩人ロートレアモシの散文詩『マルドロールの歌』を、部分訳とはいえはじめて紹介した奇特な翻訳家である。ジュール・ロマン作『プシケ』などはベストセラーになって、大いにこの人のふところを潤した。
堀口大学を師と仰ぐ翻訳の名手・青柳瑞穂は、しかしおそるべき浪費家だった。金が入ると、待ってましたとばかり全部骨董に注(つ)ぎ込んでしまう。いっさい、家計の足しにはしない。こういう人物を一家の柱としたとき、家族はひどい目に遭う。青柳瑞穂の妻とよは、「もう疲れてしまった」という書葉を遺して自殺した。
体質的には詩人、翻訳家としてはマイナー好みの上に、原作次第で文体を変えてみせる魔術師タイプ。だが、小説は書けなかった。周りには日本文壇よりすぐりの私小説家たちがいた。彼らは翻訳など一人前の文芸作品とは認めなかった。小説家にあらずんば人にあらずだ。青柳瑞穂も創作を試みはしたが、ついに「作家」にはなれなかった。
訳書は何点か広く世に容れられたし、骨董とのつきあいは随筆集に結実して、大手出版社から刊行された。文学賞も取った。
そこで、さて、青柳瑞穂とは何者だったのか、となる。いまどき、よく、と言ったら失礼に当たるだろうが、何年もかけてこの『青柳瑞穂の生涯』を書き上げ、力を尽くして世に出したのは、孫娘に当たる青柳いづみこさんだ。練達のピアノ演奏家であり、ドビュッシーをめぐる大著の書き手であり、音楽学者でもある。祖父の生涯を追ってゆく眼は、愛情、愛惜に充ちていながら、限りなく辛(から)い。自分の中にその祖父の血が流れ、渦巻いているのを早くから自覚した著者の、どうあっても書かずにはいられなかった本。語彙豊富、筆力旺盛、頼もしいかぎりだ。