客観的記述と主観的見解のバランスが絶妙
ピアニストで文筆家の青柳いづみこによる「ピアニストが見たピアニスト」には,リヒテル,ミケランジェリ,アルゲリッチ,フランソワ,バルビゼ,ハイドシェックの6人の短めの評伝が収められている。
ピアニストが同業者について書く文章は,どうも,自分の経験に縛られたり,主観的すぎたりすることが多いが,本書は,客観的な記述と主観的な見解とのバランスがよく,読み物として純粋におもしろい。当該者のCDや映像を参照し,当時の演奏評にもあたるなど,丁寧な仕事がなされているし,著者の直接の知り合いであるバルビゼやハイドシェックの記述における,彼らとの適度な距離感も好ましい。
青柳は話題の設定が巧みだ。リヒテルなぜ譜面を置いて演奏したのか,アルゲリッチはなぜソロでは舞台にあがろうとしないのか。ミケランジェリは登録商標「ミケランジェリ」のかげで「自己消滅」というイリュージョンを披露していたのではないか。フランソワに関する記述には著者の愛情が感じられる。
著者の師であるバルビゼの章ではフェラスとのデュオを話題の中心とし,ハイドシェックの章では彼の日本での演奏を追う。そして,全体を通しての「70年代のメカニズム至上主義」への疑念。
音が実際よりも高く聴こえるようになってしまった晩年のリヒテルが,指よりも目や耳で楽曲を覚えていたため,楽譜を見ざるをえなくなった話。あるいは,アルゲリッチが,リハーサルで気持ち良く弾け過ぎて,本番がこわくなってしまった話などは,ピアニストならではの深い洞察だ。
ハイドシェックが腕を故障しながらも演奏を続けたことに関連しての「スポーツ選手なら,どこそこを故障したという話も公開される。(中略)どうして演奏家だけが,障害を隠して居心地の悪い思いをさせながら,何ごともなかったかのように笑顔でステージをつとめ,うつろな拍手を強いるのだろう」という記述からは,著者の生身のピアニストとしての強い思いが伝わってくる。