本著は90年に刊行されたエッセイ集「ハカセ記念日のコンサート」の増補版である。「懐かしい」と手に取る方もあるだろうし、「不思議なタイトル」と興味を抱く方もあろう。
そのどんな読者の期待も裏切らない濃い内容である。面白い。「濃い」とは音楽家が音楽の知識を「授けてくださる」その濃さではない。ピアニストであり、祖父を著した「青柳瑞穂の生涯-真贋のあわいに」で日本エッセイストクラブ賞を受賞した、健康的なへそ曲がりたる青柳いづみこ的思考がエッセイの中に立ちのぼる。装画も著者の手による濃さなのだ。
ところで「ハカセ記念」とは、日本では東京芸術大学にしかない博士過程を論文「ドビュッシーと世紀末の美学」により修了、学術博士号を授与されたことによる。著者は世界でも少数派のピアノ博士なのである。
そんな著者はかなりのミーハーだ。スポーツ新聞をよく読み、芸能通でもあるらしい。山口百恵の長男と1ヶ月違いで娘を出産したという著者は、女性週刊誌を買い漁り、「百恵さんの育児ぶりを我が家とひき比べては、喜んだり悲しんだりしていた」というのだ。ラーメン、カレーを食べ歩くB級グルメでもある。味、値段、雰囲気、そしてどれだけマンガを置いているかを採点するのだとか。ただし公演前はスタミナ補強のため、分厚いステーキを食べるそうだが。とにかく、ぶっていないのである。
なのに、である。どんなにくだけた語り口、内容でも、そこに品格が備わるのは、著者の人間性だろう。それは著者が分析するドビュッシー像と通じるところがある。「音楽の世界の常識にとらわれない、すなおで子供のような目を持ち」「自分ととことん向き合って」「自分自身であろうとするために悪戦苦闘していた」ドビュッシー。それはエッセイの行間から垣間見られる著者自身の姿だ。ヴェルレーヌの詩「月の光」の、甘美さではなく、凍てつくような心象風景に共感したドビュッシーの感覚。その感覚に共感する著者なのだ。
博士課程に学んだのは文章を書きたかったためという著者の演奏には、文学表現との確かな相乗効果がある、と感ずるのは私だけではないだろう。