音楽家の奏でる文学批評
この大型連休、東京国際フォーラムで開催された音楽祭ラ・フォル・ジュルネに通った。
今年のテーマはバッハ。私の目当てはゴルトベルク変奏曲の聴き比べ。こんな贅沢はない。チャイコフスキー・コンクール優勝のベルゾフスキー。華麗で軽やか。文化大革命の傷を背負ったシャ オメイシュ。不思議なほどの透明感。韓国の若手イム・ドンヒョ ク。力強くうなり声まで聞こえる。かと思えば、今井道子らによる 弦楽三重奏。小林道夫による端正なチェンバロ。同じ曲なのに、なぜこれほどまでに表情が違うのだろう。
そんな秘密を解き明かしてくれるのが本書だ。奇妙な書名は、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』に由来する。天才レクター博士はゴルトベルク変奏曲を偏愛し、自分でも演奏する。
彼の左手には6本の指がある。彼はこの曲を聴きながら、残忍な殺人を平然と遂行する。
小説に見え隠れするトリビアを拾いながら、この曲がいかに難曲であり、それゆえ運指法にも歴史的変遷があること、名手グレン・ グールドはそんな伝統を一切無視して自己流を貫いたことなどが鮮やかに語られる。レクター通を自認していた私はしばしば不明を恥じた。音楽や演奏家が扱われた古今東西の文学作品を取り上げ、音楽家から見ても思わず膝を打ちたくなるような共感を伝えたいというのがこのエッセイの独自のスタイルである。それは見事なまでに成功している。村上春樹の『海辺のカフカ』の秀逸なシューベルト論、 ヴァイオリンの真贋事件を題材にした篠田節子の『マエストロ』、ピアニストの強迫的な完璧主義を描いた安達千夏の『モルヒネ』…。
しかし、本書がほんとうにすばらしいのは、音楽を題材にしているように見えて実はそれぞれの文学作品の優れた批評となっている点である。読者は、その曲を聴きたくなると同時に、その作品をとて も読みたくなる。
ピアニストがこんなに文章も巧みでよいのだろうか。しかもこの読書量。ゴルトベルク変奏曲と同じ30編の名変奏を思う存分に楽しむことができた。