【CD評】「水の音楽」レコード芸術 2001年10月号 評・野平多美

透徹した音楽への視線、浮かび上がる“水”の世界
CDと書籍のコラボレーション、青柳いづみこによる『水の音楽』

想像をかきたてられる“水” にまつわる音楽集

“月の光”、“風または嵐”などの自然現象とならんで、古今東西のあらゆる作曲家が惹きつけられる題材“水”。二十世紀から遡る形で、ジョン・ケージの《ウォーター・ミュージック》、ドビュッシーの《海》、《雨の庭》、フォーレの《バルカローレ》、そしてショパンの《バルカローレ》、シューマンの生涯と深く関わる《ライン》、そして時代を大きく跳んでヘンデルのフレッシュな《水上の音楽》。このように“水”にまつわる作品をならべると、枚挙に暇がない。

透明無色の“水”は、それ自身は形を持たないが、熱が加わるだけで雲、霧や蒸気などさまざまな特質に姿を変えて永遠に存在する不思議な流動体である。また地球上でもっとも大きな水の集合体である海は、一つの島を覆い隠すことも可能であり、神秘的な不思議をいくつも抱えたカオスでもある。ここで連想する「水の音楽」は、ドビュッシーの《前奏曲集》第一集の〈沈める寺〉や第二集の〈霧〉などであろうか。

さて、想像がかきたてられるこの主題「水の音楽」に関する数多の事柄から、ピアニストで作家である青柳いづみこはざっくりと一部分を大きく切り取り、水の精“オンディーヌ”とベルギーの作家メーテルリンクが産み出した不思議な魅力を持つ“メリザンド”という水に関わる二人の女性に焦点をあてた。

ピアニスト&作家ならではの 独創的アプローチ

フランス音楽、特にドビュッシーの研究家として論文「ドビュッシーと世紀末の美学」、ドビュッシー評伝を発表し、またノンフィクションやエッセイの著作がある青柳が、作曲家が描出した“オンディーヌとメリザンドをめぐるそれぞれの水”や、その他“水のある情景”を演奏で表現するとともに、“オンディーヌ”と“メリザンド”についての考察を含め、音楽において水に関わる作品をピックアップし、そのバックグラウンドを文章で分析してみせる、というのがこの企画であり、CD版『水の音楽』とほぼ時を同じくして青柳いづみこ著、書籍版『水の音楽』(みすず書房)も出版される。

絵画と音楽、映像と音楽という二つの媒体のコラボレーションの試みは今までもいくつかの可能性を示してきたが、今回青柳が計画した二つの媒体、演奏と文章による「水の音楽」の表現は、演奏家の立場と作家の立場という両面からのアプローチによって、相乗効果で音楽を聴くものにさらに訴える力を持つと思われ、興味深い。

筆者は、ディスクは丹念に聴く機会を得たが、残念ながら未だ校正の段階で上梓に到っていないという書籍『水の音楽』は読んではいないことをここでお断りをしておきたい。

青柳いづみこは、幼少の頃から安川加壽子に薫陶を受け、東京芸大修士課程に続いて博士課程を修了し、フランスでは、マルセイユ音楽院において故ピエール・バルビゼに師事した。ピエール・バルビゼはベートーヴェンのピアノ・ソナタや、ヴァイオリン・ソナタの解釈に定評があるピアニストであるが、もちろんマルセイユ訛りで話すバルビゼが奏でるフランス音楽の演奏も、人間的な膨らみがあり魅力的で、生前はバルビゼに習いたくてわざわざパリではなくマルセイユに向かう日本人留学生があとをたたなかった。青柳もそのひとりとしてバルビゼのもとで研鑽を積み、彼から受けた影響は多大であったと推測される。青柳自身も、現在大阪音楽大学で助教授を務め、後進の指導にもあたっている。

青柳の話題作、評伝「翼のはえた指」(白水社)では、師である安川加壽子女史の生涯が、細やかな深層心理の分析も踏まえて書き綴られている。ピアノを通して非常に近いところで安川女史に接した経験を持ち、また第三者的な視点も持ち合わせている青柳ならではの内容で、生前の安川女史に面識があったものにもなかったものにも、天才ピアニストの真の姿を垣間見ることができた素晴らしい著作である。おだやかな筆致で、女史の身の上に起こる良いことも悪いこともたんたんと書き記されており、初めて明かされることも少なくない。

「華やかさと真の価値との 完壁な調和」の実現

さてCDに話をもどそう。まずリストほど、ピアノのテクニック的に“水”を見事に描写した作曲家は十九世紀にはいなかったといえよう。そしてリストは、フランス近代の作曲家たち、特にドビュッシーとラヴェルに多大な影響を与えた作曲家として知られる。そのリストの《巡礼の年報 第三年》からの〈エステ荘の噴水〉でこのディスクのいわば第一章が始まる。

青柳のリスト作品の演奏は、リスト特有のヴィルトゥオジテ(技巧性)をひけらかすことなく、かえって淡白にその部分を通り過ぎていくことが特徴であろう。《夜のガスパール》第三曲〈スカルボ〉やバラキレフの《イスラメイ》は、ヴィルトゥオジテの点でリストのピアノ作品を上回ろうとそれぞれ挑戦的に書かれたわけであるが、最近邦訳されたウラディミール・ジャンケレヴィッチの著書『リスト ヴィルトゥオーゾの冒険』(春秋社)にも、「ヴィルトゥオジテとは、華やかさと真の価値との完壁な調和、一致だ。」(伊藤制子訳)と書かれている。技巧を追求するための演奏は薄っぺらであり、技巧の裏に隠されたリストの音楽そのものを見据えることが、リスト作品を演奏する際の重要なポイントとなるが、青柳の演奏を聴いていると、ヴィルトゥオジテの中から彼女の表現したい“水”が浮き上がって見えてくる。これはすばらしい。

また、リスト《伝説》より〈海の上を渡るパオロの聖フランチェスコ〉では、水の粒が視覚的に知覚できるような奏法で弾きすすめていることに気がつく。ペダルが少なく、アーティキュレーションが明確であることに起因しているのだが、そのことによってこの描写的な音楽がより立体的にかたどられているのが面白い。もう一つのリスト、歌曲〈ローレライ〉のピアノ用編曲におけるしっとりとした音色による水の表情は、たゆたう大河を連想させるに十分な演奏である。

繊細な音色 フレキシブルなアプローチ

リスト以外の作品で、ドビュッシー《映像》第一集より〈水の反映〉の青柳のフレキシブルなアプローチや軽やかな身のこなしはどうであろう。ここでは音色の変化が繊細で、筆者は青柳がもっとも自然にこの音楽と同化していると聴いた。ラヴェル《水の戯れ》は、ラヴェルの凸凹のあるフィギュアを飾り立てることなく、書かれた音を淡々と弾いている。ラヴェルの音楽がもつ、ざらざらとした舌触りの感触が耳に残る。

ニュートラルな水を描いた《水の戯れ》に比べ、詩人ベルトランがイメージを作り上げた人物像をラヴェルが克明に描いている点で、《夜のガスパール》からの〈オンディーヌ〉は圧倒的に興味深い。青柳は男を誘惑するオンディーヌを、やや遅めのテンポでけだるく纏わりつく女性を象徴するような演奏を聴かせている。美しいだけで終わってしまう昨今の演奏家の解釈とは一線を画し、青柳のオンディーヌ論を実現しているのであろう。

ショパンの《バラード》第二番、第三番では、青柳のピアニズムにもさすがにロマン派作品特有の叙情的なアプローチが顔を覗かせる。しかし、反面、速いパッセージの連続では停滞せず流れ、その勢いはとどまることを知らない。この作品に対する青柳のこのアプローチは、当ディスクでの野本由紀夫氏の解説によると、ショパンはポーランドの詩人、アダム・ミツキェヴィッチの詩集『バラードとロマンス』にインスピレーションを受けたという説があり、第二番は、詩人の故郷にある“シフィテジ”という湖に、第三番は“シフィテジャンカ”(水の精)に着想を得た、ということが背景にあるといい、この水を意識した新しい解釈は、筆者には非常に新鮮にうつった。

最後に収められているのは、フォーレが《町人貴族》の一曲であったものを組曲《ペレアスとメリザンド》に転用した、『シチリアーナ』のピアノ編曲版である。青柳によると《ペレアスとメリザンド》において、“メリザンドの両義性は、実にみごとに水のそのものの本質を暗示している”という。あらためてこの八分の六拍子の素朴な音楽を味わう良い機会となった。

水の音楽~オンディーヌとメザリンド~
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