【書評】「アンリ・バルダ 神秘のピアニスト」レコード芸術 2014年2月号 評・遠山菜穂美(音楽学)

元パリ音楽院教授で、エコール・ノルマルで教鞭をとるピアニスト、アンリ・バルダのことをあまり知らない人も多いだろう。本書はバルダの演奏に魅せられた著者が、「十九世紀的ヴィルトゥオーゾの生き残り」のような香り豊かで霊感にみちたバルダの演奏の秘密やルーツを、10年間にわたって探し求めたドキュメンタリーである。

「プロローグ」において、2012年のリサイタルで聴いたラヴェルの《高雅にして感傷的なワルツ》にバルダの「人生そのもの」を感じた体験が語られた後、著者の記憶は10年前のリサイタルへとフラッシュバックし、そこから六甲の講習会でのユニークな指導法、フランスのシャトー・ルーでのコンサートなどへと話が転じていく。こうした回想の合間に、バルダの最初の師であるティエガーマンのことや、同門で『オリエンタリズム』などの著者としても知られるサイードがバルダをニューヨークに招いた話などが織り込まれて、話は必ずしも時系列どおりではないが、かえって著者の思考回路に添って進んでいくようでおもしろい。

バルダの演奏をじかに聴いた経験を中心に、克明な演奏描写にもとづく演奏論が、ピアニストならではの視点で展開されていく。何かが「降り立った」と思わせる演奏、「多重人格」のような表現の多彩さ、特別なリズム感など、バルダの演奏の核心をなす要素が分析的に語られており、抽象的な言葉よりもはるかに説得力がある。

優れた演奏家論であると同時に、本書はバルダ探求のドキュメンタリー的な性格も持っている。著者はバルダのルーツを求めてエジプトのカイロまで赴き、バルダの少年時代に思いを馳せる。「ヘソ曲がり」のバルダの反応は今ひとつであったというが……。気難し屋のバルダとの交流は時にぎくしゃくすることもあるのだが、著者はつねに深い愛情をもって彼を見つめ続けてきたように感じられる。

カイロ旅行の報告をかねて訪れたパリのバルダのアパルトマンで、著者は《牧神の午後への前奏曲》のすさまじい演奏を聴くことになる。そのあとで、それまでカイロ旅行の報告にそっけない態度を取っていたバルダが子供のころの写真を見せてくれた話も心に残る。こうした小さなエピソードが積もり積もって、バルダの人柄が自然と浮かび上がる。著者がつきあってきたのは、ピアニストとしてだけでなく、「人間」としてのバルダなのであろう。取材を通じて二人の距離が縮まっていくのがわかる。

《牧神》の即興や、神戸の講習会でショパンの《スケルツォ》第1番最後の半音階をオクターヴで弾かせようとしたエピソードなどを通じて、著者はバルダが「十九世紀的ヴィルトゥオーゾの生き残り」であるという確信をもつに至る。

本書で一区切りかもしれないが、バルダという人物の永遠の謎を解くために、著者のバルダ探求はまだ続くように思われる。私たちも、今度はバルダの演奏を生で聴いてみることにしたい。

アンリ・バルダ神秘のピアニスト
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