【書評】「グレン・グールド 未来のピアニスト」産経新聞 2011年8月7日朝刊 評・斉藤邦彦(元駐米国大使)

一人の天才を解明

グレン・グールドという名を聞けば、直ちに異端という形容が頭に浮かぶ。著しく狭いレパートリー、異様に低い演奏姿勢、極端に速かったり遅かったりするテンポなどに加えて、最盛期に突如、演奏会をやめてしまったことを考えれば、異端と見なされるのは無理もないかもしれない。しかし、彼はその類を見ない演奏によって人々を魅惑し続け、今までに数多くの評伝、解説などが書かれてきた。

このたび、ピアニストにして文筆家の青柳いづみこさんが『グレン・グールド』と題する大部の本を著した。これは伝記でもなければ研究書の類でもない。これは、グールドに関する膨大な資料、証言、映像、録音などをじっくりと調査し、一人の天才ピアニストがなぜあのような途(みち)を辿(たど)らなければならなかったかを、自らピアニストとしての深い共感をもって解明しようとした一種の文学作品である。

読者は、ピアノ音楽に関して特別の知識がなくても、本書を読むことにより、ピアノ演奏というものがいかに奥の深いものであるかを感知し、ひいては音楽の無限の魅力にあらためて覚醒させられるであろう。

本書の中でリパッティ、リヒテルをはじめ、グールドとほぼ同世代のピアニストが頻繁に登場し、彼らの演奏に対する思考や、グールドとの係(かか)わり合いが説明されているのも大変興味深い。また、20世紀におけるピアノの演奏スタイルの変化を自ずと知ることができることも貴重な副産物である。音楽好きにはこたえられないエピソードが豊富にちりばめられていることは勿論(もちろん)である。

私はかねてより青柳さんの著作を愛読しており、その大多数を読んだと自負している。ピアノ音楽に関する著作が多いのは当然であるが、彼女には『無邪気と悪魔は紙一重』のように音楽と直接関係がない作品もある。いずれも透明な文章で書かれた極めて上質な随筆、論文である。今回の『グレン・グールド』は今までの蓄積の上に生まれた輝かしい成果である。この大作の発刊を心から喜びたい。

グレン・グールド 未来のピアニスト
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