私事で恐縮だが、私は若いころ建築家になることを、夢見ていた。設計のアルバイトにたずさわったこともある。こぎれいで器用にまとめる私の図版は、そこそこ重宝がられていた(と思う)。
あるとき、ふとしたきっかけで書いた文章に、正反対の評価をもらったことがある。下品で悪趣味だ、と。それがうれしくて、私は文章へ転身した。建築を、いともかんたんに、すててしまったのである。
ピアニストの著者は、ひねくれた世紀末風の読書傾向をもつという。しばしば、そういう文章も書いている。にもかかわらず、ピアニストとしては洗練と品位が、すてられない。そんな矛盾のただなかから、本書におさめられた音楽エッセーは、しるされた。
著者によれば、ドビュッシーも、悪魔的な何かにあこがれていたらしい。その点で秀才のラベルとは、決定的にちがという。同列に並記されやすい両巨匠の対比が、よくわかる。
洗練からの開放をもとめるのならさ、野性的なジャズをすすめたい。しかし、グルダの悲哀を知ると、そうも言えなくなる。アカデミックな音楽の重さを、身にしみて考えさせられた。