新譜月評 特選盤
濱田滋郎
青柳いづみこの「ピアニストとしての」これまでの歩みからは外れた、そしてしかも、この人なればこそ作り得た1枚のCDである。
ここで彼女が奏でているのは、おそらく日本最古のもの、少なくともそのひとつとされる1台のアップライト・ピアノ。それは東京都下滝乃川学園の礼拝堂にあるもので、明治大正期を生き第2次世界大戦中に没した助成解放運動家・教育家・石井筆子にゆかりを持つ。
前面にガラスに焼き付けられた天使像の装飾があるゆえ『天使のピアノ』と称されるこのピアノは19世紀のものだが、1998年に至って修復がなされ、青柳いづみこは縁あってこれを弾き、人に聴かせることもしてきたという。
復活したとはいえ、このピアノの機能には当然限界があり、どんな曲でも、どのようなパッセージでも弾けるというわけには行かない。「・・・そんな弾きにくさを補って余りあるのは、何よりもその典雅な音色の魅力です。甘くてやわらかい、はちみついろの響き」と、いづみこさんは解題に記しているが、独特な余韻をも含め、それは録音からも十分に感じ取れる。
したがって、ピアニストはここに、このピアノと「その時代」にふさわしい、そして自らもどこかで格別な愛着をおぼえる小品を集めて演奏をしている。
また、その間、石井筆子自身の訳(翻案)によるアンデルセン作品その他、ゆかりある詩あるいは散文のいくつかを、自ら朗読してちりばめている。(テキストは掲載されていないが、この場合、注意ぶかく聴くことは目で読むことに優る)。
初めに置かれたクープラン『百合の花ひらく』『葦』以下、どの小品からも、このピアノならではの色合いが匂い立つ。そして、このようにまで美しく、懐かしく、それを匂わせているのは、やはり弾き手である。
那須田努
『天使のピアノ』とは、日本で最初の知的障害児のための社会福祉私設、滝乃川学園創立者の妻、石井筆子愛用のピアノ。ライナー・ノーツの解題によれば、鹿鳴館時代の1885年に、ドイツ人楽器商デーリングによって横浜で製造された、日本最古のアップライト・ピアノだという。2006年の山田火砂子監督作品の映画『筆子・その愛~天使のピアノ』で紹介されたものの、その音色に接する機会はなかなかない。
そこで青柳いづみこの演奏による当盤が録音されたというわけである。選曲はクープランからショパンのノクターン(遺作の嬰ハ短調)、レヴィ、滝廉太郎、筆子愛唱の賛美歌(433盤)など、親しみやすいと同時に、石井筆子とその時代を忍ぶ選曲になっている。
タッチはやや重そうだが、音色は枯れ葉のような味わい。この楽器を弾き、その音色に心を傾けてきた人々の意識を反映してのことだろう。
ピアノの純粋な響きにまさに心が洗われるようだ。
同時に青柳の演奏は、滝廉太郎『憾み』の色濃い表現に聴かれるように、とても個性的だ。
また青柳はチャイコフスキーの『子供のためのアルバム』の間に石井筆子の『水仙のおはなし』(アンデルセン童話の再話)を、ピエルネの『昔の歌』の後に青柳の『感覚指数』を朗読している。後者は知能障害をもった兄を題材とした詩で、それ自体とても聴かせるし、その後の『月の光』に思わず落涙させられた。
ピアノが主役のCDは珍しくないが、これほど多くの人の共感と思いを背景としたものはそう多くない。一人でも多くの人に勧めたいアルバムである。