4月21日夜、ネズミに咬まれた。
状況はこうである。
我が家のピアノ室と書斎は歩いて13歩の廊下で結ばれていることは、これまでもエッセイなどで書いてきたと思う。その廊下の隅に、ネズミ取りがしかけてある。ボール紙にとりもちのようなべたべたする薬剤が塗ってあるものだ。
そこに、最近我が家の屋根裏に住み着いたネズミがひっかかった。
ボール紙は軽いものだから、ネズミがバタバタあばれるのに合わせて廊下の真ん中に出てきてしまったらしい。
とにかく、この廊下を書斎からピアノ室に向かって走っていた私の左足がネズミ取りのねばねばしたとりもちにひっかかり、同時に鋭い痛みを薬指に感じた。最初は、ネズミ取りに何か金具がついているのかと思ったが、違った。円い目をしたネズミが我が足の指に咬みついている。
うわっ。
ネズミと人間サマが同じとりもちにひっかかってしまった。
私は必死の思いでネズミをふりほどき、ついでにとりもちから足をひきはがした。ネズミはまだバタバタあばれている。明るいところで見たら、指から血が出ていた。
大変。
たしか、猫やネズミ、犬などに咬まれたらそこから病原菌がはいるかもしれないと言われている。どうすればよいのだろう? これがマムシだったら、すぐに咬まれた少し先をしばって血を吸い出すのだが。
娘にネットで調べてもらったら、まず石鹸でよく洗い、すぐ病院に行くように書いてある。放っておくと、まれにあとで熱を出したりショック死したりする例もあるらしい。でも、病院といったって、もうどこも閉めているし。
傷口を洗うとともに足にへばりついたとりもちをこすりとり、オキシフルで消毒してバンドエイドを貼る。その間に、娘が救急医療センターに電話してくれるのだが、なかなかつながらない。
あきらめて、最寄りの総合病院の夜間診療に電話をした。
--どうしました?
ときかれたので、「ネズミに咬まれました」と答える。
--どんなネズミですか? 大きさは? 色は?
ネズミはまだ廊下のとりもちの上であばれているはずだが、見に行く勇気も起きない。
「普通の、灰色のネズミです」と答える。
--それではなるべく早く来てください。
大急ぎで保険証を用意し、コートをはおって家を出る。
10分ほどで病院に着くと、夜間入り口からはいり、受付に行く。
深夜診療は会計が閉まってしまっているため、保険証を持って行っても1万円をデポジットしなければならないらしい。運良く持ち合わせがあったからよいが、本当の緊急の場合はどうしたらよいのだろう。
もっとも、パリでは病人はもっと邪険に扱われて、救急車を呼ぶと、運転手がまず病人に「運搬の代金を支払えるか」と尋ねるという。社会保険なしに救急病院など行こうものなら大変で、あとでウン百万の請求書が届くとか。
受付をすませて待合室にはいる。大病院の夜間診療といったら、ひっきりなしに救急車が到着し、緊急の施術が行われる・・・というようなシーンをテレビで見るが、まったくそんな緊迫した雰囲気ではなく、酔っぱらって担ぎ込まれたらしいおじさんが一人待っているだけだった。
ほどなく診察室に呼ばれ、若い女医さんが応対してくれる。
そのころにはもう血は止まっていて、女医さんがいくら調べても患部がよくわからないらしい。ネズミの歯はきっと小さかったのだろう。
--何でネズミに咬まれたんですか?
シチュエーションがよくわからないらしい。
--廊下にネズミ取りがあって、そこに足がひっかかって・・・。
--どうして廊下にネズミ取りがあったんですか?
--本当は隅に置いてあったのですが、ひっかかったネズミごと真ん中に出てきてしまって。
--ああ、きっと暗かったんですね。
--はい、それに急いでいて。
--ネズミはどうしたんですか?
--娘が外に放り出したらしいです。
--あ、ネズミはね、ネズミ取りごと水につけるといいんですよ。
看護婦さんが言う。
--ネズミや猫、犬などに咬まれると、一週間ぐらいたってから高熱が出たり、発疹が起きたりすることがあるんですよ。
女医さんからネットの情報と同じことを聞かされた。
--でも、来週の火曜日には海外に出るんです。一週間後はパリなんですけど。
室内楽の合わせと取材でパリとウィーンの旅行を計画していた。
--タイミング悪いときに咬まれましたね。抗生剤を少し余分に出しておきましょう。
こちらは、「足りなくなったらどうしよう。旅行保険にはいっておかなくちゃ」と算段している。抗生剤は薬局では買えないからだ。
--とりあえず切開して消毒しますね。
女医さんは言って、足の中指と薬指、薬指と小指の間に麻酔の注射を打つ。
これはけっこう痛かった。
麻酔が効いてきたころを見計らってメスを当てる。
--感染を防ぐためにちょっとごりごりやりますよ。これは痛いですか?
--痛くはないですが、押されているような感じがします。
そんなやりとりの間にも、何だかチョキチョキと切り刻んでいるような音が聞こえる。
でも、全然痛くはない。不思議なもので、当該の指は何も感じないので、別の指を切開されているような気持ちになる。指、違うんじゃないですか? そんなわけはない。
--麻酔が切れたら痛くなるんじゃないですか?
--そうですねぇ、30分とか1時間したら痛くなりますね。
女医さんは人ごとのように(たしかに人ごとなんだが)のんびり答える。
大分チョキチョキやったあとで、消毒液らしきものふりかけ、絆創膏を貼ってくれる。
--今のところ膿んだり腫れたりしていないみたいですけどね、感染しているかどうかは明日になってみないとわからないんですよね。だから、またいらしてください。
--でも、出発前ですごく忙しいんですけど。
6月に刊行予定のグールド論の再校が出ていて、出発前日に戻さなければならなかった。室内楽の合わせの練習もしなければならず、荷物もまだ作っていなくて、ネズミに咬まれなくてもけっこう非常事態だったのだ。
--だって、健康のほうが大事でしょう。
ま、そりゃそうだけど。
--念のため、破傷風の注射もしておきましょうね。
紙を見せられる。破傷風は全部で3回打たなければならないらしい。2回目は5月、3回目は来年。覚えていられるだろうか。
--5月の予定日があいているかどうかわからないんですが。
--一週間ぐらいずれても大丈夫ですよ。
女医さんはこともなげに言う。
--ご旅行はどのぐらい行ってらっしゃるのですか?
--2週間です。
--じゃ、明日いらしたら抗生物質を2週間分お出ししましょう。明朝の外来も私なんです。今晩は点滴をします。
うわっ、点滴は初体験だ。病院にお見舞いに行くと、皆さん、点滴の管を腕にとりつけられている。ぽとん、ぽとんと液が滴り落ちる。あれってどんな感覚なんだろう、痛くないんだろうか。いつも思っていた。
--あのー、点滴ってしたことないんで不安なんですが。
処置をはじめた看護婦さんに言う。
--じゃあ、一度体験してみましょうね。
なるほど、うまい言い抜け方だ。
左肘の裏に注射針を差し込んでテープで止め、点滴の袋をとりつける。
ベッドの上から袋を吊るす。
ぽたり、ぽたり。何も感じない。身体が熱くなったりもしないし、抗生剤が体内にはいっていく感触もない。
なんだ、こんなものか。
拍子抜けした。
安心したので娘にメールを打つことにした。でも、左腕が折り曲げられているので打ちにくい。
「今抗生剤の点滴してる。足の指切開して消毒した。破傷風の注射もした。明日またこなきゃならないみたい。旅行やめようかなぁ」
点滴初体験はあっという間に終わり、看護婦さんから抗生物質を1日分渡される。
--朝・昼・夜・寝る前の一日4回です。今晩のぶんは点滴しましたので、明日起きたら一錠飲んでから病院にいらしてください。
--ずいぶん待つんじゃないですか?
--診療は9時からで、受付開始は8時半です。その時刻にいらっしゃるとお待たせするかもしれませんから、8時すぎにいらしてみてください。
--目覚ましかけなきゃ。
ところが、翌朝、目覚ましを止めてまた寝てしまい、起きたのが8時半すぎだったのである。待たされることを覚悟で、再校のゲラを持って病院に行く。
外科の待合室にはお年寄りがたくさん待っていた。自販機でコーヒーを買い、せっせとゲラの校正をしていたら、9時ちょっとすぎに名前を呼ばれた。
夜勤明けの女医さんは、髪をふんわりセットし、軽く化粧をして夜よりきれいだった。
--指は痛くならなかったですか?
そういえば、切開のあと、一度も痛まなかった。痛み止めももらったのだが、使わなかった。この女医さん、よっぽど腕がいいのかな?
患部を調べた女医さん、「大丈夫そうですね」と言う。
--それでは抗生物質をあと6日ぶんお出ししますので、きちんと飲みつづけてください。それで、旅行に行かれる前にもし熱が出たりしたらすぐに病院にいらしてください。
--抗生物質は2週間ぶんじゃなかったのですか?
--感染している場合は、です。今回は予防のためですから1週間ぶんしか出ません。 そういうことか。
早く呼ばれたのでほとんど読めなかったゲラをしまい、会計を待っていると肩を叩かれた。外国文学者のN先生である。阿佐ヶ谷に住んでいらっしゃるのだ。
--妙なところでお会いしましたね。どこが悪いんですか?
--ネズミに咬まれたんです。
ひととおり説明をくり返したところで、「先生はどうなさったのですか?」ときいてみた。
--いや、頭を打ったもんですから。
--もしかして、地震?
--それなら言い訳がたつんですけどね、酔っぱらって転んだんですよ。
N先生は酒豪で知られる。けんかっぱやいのでも有名な先生だ。
おやおや。ネズミに咬まれた女と酔っぱらってころんだ男が病院で出会ってもしゃれになんないなぁ。
--しかし、MRIを撮ってもらったおかげでどこもおかしくないことがわかって、かえってよかったですよ。しばらくはまだボケないで書けそうだ。
ご健筆を!
それから出発までの間、私は抗生物質をきちんきちんと飲みつづけたが、5日目が飛行機の中だったため、いったい朝・昼・晩・寝る前がどのタイミングなのかわからなくなり、結局2日ぶん余してしまった。
幸なことに一週間たっても高熱も発疹も出ず、ショック死もせずに無事旅行をつづけて帰ってきた。ウィーン旅行のことはまた書くことにしよう。