*中条省平氏は、青柳の最初のCD「ドビュッシー・リサイタルⅠ」にも文章を寄せて下さった気鋭のフランス文学者。文芸評論家にしてジャズ評論家でもある。ラモーのCDの感想を、サバティカルで滞在中のパリから送って下さった。公開を予定しない私的なメールではあったが、転載をお願いしたところご快諾いただいたので、一部をご紹介しよう。
(前略)今回の『やさしい訴え』は、『雅びなる宴』からの正統的発展であるとともに、果断な意欲にみちた歴史的遡行でもあり、フランス音楽のルーツの再発見という意味で、青柳さん以外には不可能な試みだと思います。
しかも、現代音楽的ピアニズムに逆らう、反時代的な雅びな響きの美学として、さらに一歩進んだ成果であるだけでなく、クラヴサンの音楽がピアノの清澄なフィルターに漉されることによって、この雅びな響きは、かえって現代の若い聴き手たちに新鮮な驚きをもたらすことでしょう。
多少フランス音楽に親しんだことのある者にとっても、いや、そういう人たちにとってこそ、青柳さんの『やさしい訴え』の清冽な感覚は、いったい今まで自分はラモーを本当に聞いたことがあったのか? という真摯な自問をかき立てるはずです。
少なくとも私はそう反省しています。
それほど、このディスクにこめられた音は鮮烈です。
フランス音楽の、「たしかに優雅だがゆるくて退屈」という紋切型を粉砕するにたる成果だと感動しています。
津上智実氏が「曲目解説」の冒頭と最後に引いたドビュッシーの言葉が、ラモーの偉大さへの挿話的弁明ではなく、最も正統的なラモー論としていま文字どおりに受け取られるべき素地を、青柳さんのピアノが切り開いたと確信します。
そのような画期的演奏集であり、しかも聴いていてともかく楽しく、心が躍る。
そんな原初的な<歌>の快楽も満喫させてくれます。
現代にあって、これはほとんど奇跡のような事態です。(後略)