「楽譜に書けない」芸術の本質へ
「楽譜どおり弾け!」という罵声が強烈な人気まんが『のだめカンタービレ』は、音楽大学を舞台にしたスポ根ふう青春コメディだが、テーマそのものは新しいようで古い。
名ピアニスト青柳いづみこの最新刊をひもとけば、モーツァルトからドビュッシーへ至るクラシックの楽聖たち自身が、さまざまな青春コメディを体現しつつ、ムージルからランボーに及ぶ文学の巨匠たちと直接的ないし間接的に共振し、芸術の本質へと立ち至る歩みが、テレビドラマ顔負けの解像度で描き出されていくのがわかるだろ。
冒頭のモーツァルトの章からして、シェーファーの『アマデウス』やカポーティの『カメレオンのための音楽』のみならずマッカラーズから筒井康隆、宮本輝らの諸作品におけるモーツァルト像を自由自在に織りまぜる。作曲家シューマンと文学者ホフマンが逆方向より音楽と文学を横断していたこと、ワーグナーがボードレール以降のフランス象徴派のアイドルであり文字通りのドラッグ的存在であったことなどをめぐる博引傍証も圧倒的だ。
とはいえ、本書がもっともさん然たる輝きを見せるのは、即興演奏の名手としてのショパンが、自由自在な「想念」としてあらわれた「音楽」を「記譜するときの苦しみ」を語り、そこに「楽譜という記号に書きつけることによってもそこなわれてしまうような、瞬間的だからこそ唯一無二であるような、生の形のポエジー」を読み取るときである。
そして、ドビュッシーがめざした「即興と想像力で活きた音楽を創り出す作業」を浮き彫りにするときである。
ひいては、まったく同時に、ラヴェルのごとくルーセル的「独身者の機械」を想わせ音楽のうちに漂う「放っておくと際限なくロマンティックになってしまうのがこわくて、可能なかぎりそれを隠そうとするラヴェルの含羞」に共感が示されるときである。
「楽譜どおり弾け!」という命令が指す「楽譜」自体が一枚岩ではないことを解きあかす本書は、文学作品の表現もまた「文字どおり」ではないことを示唆してやまない。