ベートーヴェンとあんこう鍋
(前略)文豪トルストイは、若い時は放蕩生活を送っていたが、や がて権力や暴力を否定するようになると、大好きな狩猟をやめて菜 食主義になる。そのモスクワの住居は、現在トルストイ博物館に なっていて優雅な食卓が保存されているという。
代表作の一つ『クロイツェル・ソナタ』は、菜食主義になってから書いた。妻を殺した主人公の言葉で、過剰な美食を批判している。この作品を、音楽という鏡に映し出すと、どうなるか。タイトルは、ベートーヴェンの同名の作品で、ドラマの重要な役まわり。
「ベートーヴェンの音楽は、悪と罪、肉欲と嫉妬を助長させる恐 ろしい道具として疲われている」
と書くのは、青柳いづみこ『6本指のゴルトベルク』(岩波書 店)だ。著者はピアニストと文筆家を両立させて活躍、本書は純文学からミステリーまでの作品から音楽を引き出して語る。「トルストイ自身も音楽を愛し、定期的にピアノのレッスンを受け、作曲も していた」とも。
集積された知識を駆使して、著者は作品の「もう一つの顔」を見せてくれる。
「ベートーヴェンの音楽のつくり方というのはあんこう鍋みたいなもので、まったく捨てるところがない。骨も皮もプリプリのゼラ チンも全部使い切ってしまう」
つまりは「なけなしのモティーフを原型をとどめなくなるまで解体し、有機的に使い切る手腕はものすだいものがある」と解く。
だが、なんといってもグレン・グールド、カナダの奇才ピアニストをめぐる数々の記述は、グールドのファンをミステリーに誘いこんでしまうだろう。
トマス・ハリス『羊たちの沈黙』。主人公のハンニバル・レクター博士は、医学者と食人鬼の二つの顔を持っていた。そして、音 楽熱愛者である彼は左手の指が6本。囚人として病院に隔離された彼は、グレン・グールドが弾くバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を差 し入れてほしいと頼む。CDではなくカセットテープの時代だ。
「どちらの録音かしら」と著者は書く。グールドには、1955年に録音したデビュー盤と、1981年に再度録音した盤があるの だ。小説の描写から、著者は後者だと推理する。その謎解きのプロセスそのものが、一つのミステリーになっているようだ。(後略)