読書日録
『翼のはえた指 評伝安川加寿子』『ピアニストが見たピアニスト』で瞠目した青柳 いづみこの最新刊は『音楽と文学の対位法』。題名通り、音楽と文学とを合わせ鏡のように立てた論考が並んでいる。
第1章モーツァルトでは、冒頭にローベルト・ムージルの名短編『トンカ』が引かれ、時代の違う二人にどんな関係がと意表を突かれるが、読めば納得である。まばゆく反射する水面のごとくに長調と短調が入れ替わるモーツァルトの楽曲が、相対性や仮想という移ろいの相のもとに世界を捉えるムージルの視線に重ねられ、この点でモーツァルトが古典主義どころかロマン派をも飛び越えて現代の感覚へとつながっていることが語られる。
しかもピアニストならではの、奏者の生理を熟知した解説がそこここにあってひき込まれる。たとえば学生が課題曲でよく弾く『ピアノ協奏曲ニ短調K466』フィナーレのロンド。おちゃらけて弾くことなと許されない、引きしまった分散和音で駆けのぼる短調の主題が、感情移入の頂点であっけらかんと平和な長調に転調し、置いて行かれそうになった弾き手がついつい硬い表現になってしまうという指摘。著者は、モーツァルトの自在な転調に、幼時からの演奏旅行で培われた、どの言葉も等価と受け取る多言語生活の反響を見ている。
本書には、こうした明察がぎっしり詰まっていて、一行も読み逃せない面白さだ。専門的な音楽教育を受けたE・T・A・ホフマンとレーモン・ルーセルが、音楽においては守旧派で、その文学作品でのようには時代を超越していなかったという話も興味深い。となると、アカデミックな教育とはいったい何だろうと考えてしまうが、その疑問は、ドビュッシーが『12の練習曲』を仕上げるのに、パリ音楽院由来の伝統の軛をはねのけなければならなかったという本書最終章の結末につながってくる。
「ドビュッシーは、死を目前にして、ようやく全的にランボーの境地に達したのだ」という強烈な一行で、青柳は筆を置く。
ほかにも、ハイネが着目した独仏ロマン派の時差、和声法をなし崩しにして「宙ぶらりんの調性不明状態」へ向かうショパンの革新性、世紀末パリでの倒錯的なワーグナー熱とそれに感染しなかったアンドレ・ジッドの見識など、蒙を開かれること再々で、読み終えた本は付箋だらけになってしまった。(後略)