30の変奏で描く「両極端の世界」
それにしても『六本指のゴルトベルク』とは、なんと美しく、なんと不気味なタイトルであることだろう。六文字の片仮名が六本の指にぴたりと呼応するばかりか、その微妙にあまった感じが微妙に足りない感じともひとつになって、ほの暗い均衡をかもしだしている。
とはいえ、本書の基調は、陰鬱(いんうつ)さと無縁の、軽快にして痛快な「音楽小説案内」だ。冒頭で紹介されているのは、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』。主人公ハンニバル・レクター博士は精神を病んだ稀代(きだい)の殺人鬼であると同時に、ハープシコードを弾きこなす音楽愛好家でもあって、とくにグレン・グールドの演奏によるバッハの『ゴルトベルク変奏曲』を愛している。
彼には、左手の中指が二本あった。いったいどのように弾いたのか? 著者はそんな疑問から語り起こし、曲の構造や特徴、運指の歴史、そしてグールドの演奏法にまで言及する。わずかな紙幅でそれらをみごとに変奏させながら、レクター博士が続篇『ハンニバル』では身元を隠すために手術をして、五本指という彼にとっては不自然な状態になっていることを指摘するのだ。
五本指のレクター博士の演奏は「完璧(かんぺき)ではないが絶妙」で、「この曲の真髄への理解が滲(にじ)みでて」いた。「絶妙ながら、完璧とは言い得ない演奏」の音楽性。非の打ち所のない技術、正確な楽譜の理解、申し分のない調律をほどこした楽器が揃(そろ)っていても、「音楽」が流れずに「音」しか出てこない場合がある。
じつを言えば、本書は読書案内のふりを装いつつ、括弧つきの「音楽」とはなにか、創造とは、演奏とはなにかという本質的な問題を考えさせるように仕組まれている。『ゴルトベルク変奏曲』は、最初と最後に主題となるアリアを配し、あいだに三十の変奏をならべる構造になっているのだが、本書が三十章で構成されるだろうことは、冒頭の一例で早くも示されているわけである。
扱われている本は、和洋あわせて三十五冊。ミステリから大河小説まで、どの作品の分析にも、ピアニストであり文筆家であり教育者でもある著者の、複眼的な視点が存分に生かされている。ご本人は、それを、まるでどっちつかずであるかのように嘆いているけれど、この「ぼやき」は、日本の音楽教育に対する苦言をまじえてかなり意識的に「リピート」されているので、いまや愛すべき青柳節と呼んでもいいだろう。
一点のミスタッチも許されないという呪縛と戦い、気の遠くなるような持続を自分に強いて崩れなかった精神力。その裏で、浮き沈みが激しく、精神的に不安定になりがちな、両極端の世界を生きる演奏家たちの姿が、虚構の世界に託して生々しく語られる。音楽には「正ばかりではなく負の感情、善も悪も生も死も、形而(けいじ)上的なものも形而下的な要素もはいりこんでくる」。こんなに苦しいものなのに、彼らはなぜ音楽に立ち向かおうとするのか。
「自分が心の中にしまっているいちばんよいものがハーモニーやリズムに姿を変え、聴き手に浸透してお互いによろこびあえる心地よさは、何ものにもかえがたい」
言葉などなくても一気に他者と交わり合一しうる音楽の力。実在の演奏家はもとより、架空の演奏家たちもそれをよく知っている。二曲のアリアと三十の変奏を聴き終えた読者は、漫然と読み流してきた小説、聞き流してきた音楽のなかに、誰にも言えない六本目の指の関節が隠されていることをいつのまにか教えられているだろう。