芸能事務所にスカウトされてみました

一昨年から、青山学院大学仏文科の講師をつとめている。週に一回、3、4年生の学生サン相手に「19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスのサロン文化」についてレクチャーし、たまーにピアノを弾く。教室はすりばち状になった階段教室で、ちゃんとヤマハのグランド・ピアノ(C7)が置いてある。しかし、きちんとした調律・調整がほどこされていないから、ジャーンと変な音がする。あんまり弾く気が起きない。(ちなみに、来年度は2012年に生誕150年を迎えるドビュッシーをテーマに、パリの詩人たちとのかかわりについて講義する。) 

アオガクだから、帰りは表参道に出る。

あるとき、カワイのミュージックショップ青山で開かれる公開講座に出席するために、表参道を歩いていたら、何やら呼びとめられた。ティッシュかアンケートかなと思ったら、名刺を差し出された。

「あのー、私、こういう者ですが」

みると、表参道にある芸能事務所らしい名前か印刷されている。歌手やタレントにはよく、友達と渋谷を歩いていたらスカウトされて・・・という話があるが、もしかしてそれ? でも、私・・・。 

「すごく明るい感じの方で、前向きな感じでいいなと思ったもんですから・・・」とスカウトさん。 そのときの私のいでたち。近くの古着屋で買ったバックスキンのコート(ストンとしたシルエットと横にはいった表革のラインが気に入っている。パリの街もそれを着て闊歩したのだ!)に、これも近所で買った500円かなんかのレザーの帽子、パンツにブーツ。ふーん。 

そもそも、私って明るかったかしら? と激しく反発する。いろいろなことをくよくよ考える質で、夜は眠れないし、ときどき命の電話をしてしまうし、いつも過去を振り返ってばかりいるから、どちらかというと後ろ向きの人間ではないだろうか。もっとも足は短いのに妙に大股でカッカッと歩くから、前向きに見えたのかもしれないが。 

「失礼ですが、主婦の方ですか?」 

ピアニストでモノ書きでアオガク講師よん・・・とは言わない、もちろん。はぁとか、まぁとか、あいまいな返事で対応しておく。 

「私どもは3歳から70歳ぐらいまで、いろいろな年齢層の方でテレビや雑誌にご出演くださる方を探しているんです。お仕事の邪魔にならないようにスケジューリングしますから、是非一度話を聞きに来ていただけませんでしょうか?」 

渡されたパンフレットには、テレビでよく見る子役からエキストラっぽいお年寄りなど何人かのカラー写真と出演番組が列記されている。なるほど。若くなくてもいいわけね。

「ついては、後日お打ち合わせの件でご連絡したいのですが、お名前とお電話番号を教えていただけませんでしょうか?」 

私は一般社会では顔も名前もまったく知られていない上に、本名という世を偲ぶ仮の名前がある。そちらのほうと携帯電話のナンバーを教えると、「いつごろお電話したらよろしいでしょうか?」ときかれた。

翌日は大阪に行く予定になっている。飛行機を降りて大学に向かうまでの間だから、正午から1時まで。 

ところで、次の日、私はすっかりそのスカウトさんのことを忘れていたのだ。
飛行機が遅れて、伊丹空港に着いたのは12時半。急いで大学に向かい、そのままレッスン。夕方レッスンが終わり、携帯の電源を入れたら、その事務所からの着信履歴が。そういえば、と思ったが放っておいた。

ところが、スカウトさんは案外しつこかったのだ。翌日、ちょうど大阪音大のレッスンとレッスンの合間に電話がかかってきた。いつものレッスン室は携帯が通じないのだが、そのときにかぎって別のレッスン室だったため電話をとることができた。 

「いかがでしょうか、ご検討いただけましたでしょうか。事務所に来ていただけましたら詳しくご説明しますので」ちょっとおもしろいかもしれない、と思った。

芸能ニュースは大好きなので、事務所や契約にまつわるトラブルもたくさん知っている。芸能事務所ってどんなところなのか、ちらっと覗いて見るのも悪くないぞ。 

とはいえ、もしかして悪質な詐欺だったり、単身事務所に乗り込んだら拉致監禁されて金品強奪・・・なんてことになったら怖い。 

とりあえずアポを取ったあとで、以前「ミューズの晩餐」という番組に声をかけてくださったオフィス・トゥ・ワンの長谷川さんに電話をした。フルート奏者のお父様と俳人のお母さまを持つ長谷川さんは、NHKで主に歌謡番組を担当されたあと、現在の事務所に移り、音楽プロデューサーとして数々の番組に携わってこられた。三田完の筆名で粋な小説も書き、2007年には『俳風三麗花』で直木賞候補にもなっている。 

「アオガクの帰りに表参道を歩いていたら、芸能事務所の人に呼びとめられました。テレビや雑誌のチョイ役に出る人を探しているんだそうです。モノ書きの好奇心で本名で面接に行ってみようかなと思っているんですが、やめたほうがよいですか」 

長谷川さんの返信。
「冷やかしのつもりで行ってみたらいかがですか。驚愕の事実がわかれば、それは後日の文章に生きるでしょうし」

その事務所はHPもあるし、WIKIPEDIAにも載っているらしい。オフィス・トゥ・ワンにも、何年か前に地下鉄でスカウトし、舞台で主役をはるまでになった現役アオガク生がいるそうな。

「事務所自体はちゃんとあるのですね? 現役アオガク生って、もしかして椿姫彩菜さんですか? 彼女、仏文の4年なんですよね。私の授業はとってないみたいですが」 

再度長谷川さんの返信。
「最初は越後の縮緬問屋のご隠居として相手の話をきき、必要であれば印籠を見せればよろしいのでは。弊社の女優は今村美乃といいまして、もっぱら小劇場に出ていますが、経済の2部の学生です。椿姫彩菜さんはホリプロ所属のようですね。」・・なんで、「越後の縮緬問屋」なんだろう?

「これで相手が芸能事務所を騙る詐欺師で、エントリー料金なんてものを要求したりしたら、中村うさぎさんに負けない突撃エッセイになりますねぇ(笑)」 

そんなわけで、アポをとり、雑居ビルの中にある事務所に出かけて行った。
受付には、当然のことながらスカウトさんはいない。小柄な男性が対応し、ソファで少し待つように言われる。事務所の中は細かいブースに仕切られていて、それぞれで面接が行われているらしい。すぐそばのブースでは髪の毛が爆発したみたいな足長お嬢さんがディレクターとおぼしき眼鏡のおばさんと面接していた。眼鏡おばさんは、足長お嬢さんのファッションや髪形をさかんにほめている。
いいですねぇ、そのコーディネイト。いつもどんなところでお買い物なさるんですか?(私なら古着屋だけど)

それから写真をとるらしく、足長お嬢さんは廊下に出ていろいろポーズを取っている。でも、撮影するのは眼鏡おばさんで、しかもデジカメ! 

私の番がきて、名前を呼ばれた。さっき受付に出てきた小柄な男性が面接官らしい。男性は一枚の紙を渡し、これに記入するように言い置いてブースを出て行ってしまう。紙にはいくつかの質問事項があり、生年月日や身長、体重、スリー・サイズ、これまで出演した番組、趣味、アピールポイントなどを書き込むようになっている。差し支えない程度で結構ですと書かれていたので、あれこれ抜きながらテキトーに答えておいた。

机の上に分厚い書類のファイルが乗っていたので、ぱらぱらめくっていたら、エキストラの料金表のページが出てきた。たとえば「わんぱくな小学生」とか「中年のくたびれたおじさん」とか「近所の気のいいお姉さん」とか具体的なキャラクターが書かれて、それぞれの出演お値段が明記されている。当然のことながら、若い女性のほうが高い。でも、うんとお年寄りもちょっと高い。雑誌の読者モデルの記事サンプルも載っている。どうも一方的に撮られる側、被写体としてのニーズに限られるらしい。ご当地グルメの試食レポートとか、主婦の突撃取材とかならよいのに。

ブロマイドのページもあって、全身とバストアップのサンプル・ショットの下に、服装、髪形、メイク、ポーズなどについての心得のようなものが記されている。つけ睫毛など濃すぎる化粧はNG、服装もあまりブランドで固めないように、できるだけナチュラルに、身体の線がわかるものを着用・・・などなど。ということは、ヘア・メイクやスタイリストはつかないんだな、と思う。 

私たちも新聞や雑誌の取材を受けることが多いが、よほどの有名人以外は自前の衣裳と自前のメイクで撮影に臨む。だから、経験則的にカメラ映りのよい衣裳、髪形、メイクなどは知っているつもりだ。たとえば、モノクロ写真で赤を着ると黒っぽく写ってしまうから避けたほうがよいとか、カラーのときは口紅をくっきり描いたほうがよいとか。私は彫りが深くないので、普通に撮ると眉毛が飛んでしまうから、鏡を見るとぎょっとするぐらいギューギュー描く。 

テレビも、自宅に撮影にくるときは自前だから恐ろしい。このごろはハイビジョンだから余計恐ろしい。馬鹿笑いをしていないだろうか、あそことあそこのシミはうまく隠せただろうか。画面を見るたびにドキドキする。幸なことに、これまでの数少ない出演に限っては、テレビ映りはまあまあだったし、衣裳はわりと褒められることが多かった。

スタジオで収録するときは、番組によって30分~1時間ほどのヘア・メイクがある。テレビ東京「ミューズの晩餐」にゲスト出演したときは、このメイクタイムのほうが、ホステス役の美人ヴァイオリニスト・川井郁子さんとのリハーサル時間よりずっと長かったのだ!

「ミューズの晩餐」の撮影は局ではなくホテル内のスタジオでおこなわれるから、メイクさんのほうが控室に出張してきた。ヘアをホットカーラーで巻いている間にメイク。眉毛は小型の剃刀できれいにカットしてくれる。アイラインは下も上も涙が出るぐらいくっきりと入れる。さすがにつけ睫毛はしないが、ビューラーでしっかり上げてマスカラをたっぷり塗る。でも、口紅はあまり濃くなく、ベージュ系でふんわり描く。「ミューズの晩餐」は、川井さんとホスト役の寺脇康文さんとの対談と、川井さんとのデュエットの2部に分かれている。演奏のときの衣裳は黒レース地に銀ラメのはいったドレスで、メイクさんはそれをとても褒めてくださる。気分をリラックスさせ、化粧のノリをよくするための配慮とはわかっていても、ちょっと嬉しい。 

トークより先にデュエットの撮影があった。「My Song, My Life」のコーナーで,ゲストの思い出の一曲を川井さんが奏でる、あるいは川井さんとゲストが共演する、という趣向。私は、ドビュッシーの『レントよりなお遅く』のヴァイオリン編曲版を選んだ。この曲はけっこうルバートがたくさんあって合わせにくいのだが、リハはたったの1回。通して弾いたところで、テンポの変化などを打ち合わせたいと思ったが、川井さんは演奏し終えたとたん、付き人さんの大群に囲まれてしまう。ヘアのちょっとした乱れをなおす人、おでこのてかりをパタパタする人、リボンの結び目をなおす人、胸元のあき具合を調整(?)する人など。私のところには、アシスタントがお水を持ってくるだけだから、あちらはやっぱりスターさんだと感心することしきりである。

付け人さんの群れをかきわけかきわけ川井さんのところまでたどり着き、やっと打ち合わせをしたところで、もう本番。川井さんはこの収録を日に3本ずつ行うという。短い時間でゲストと呼吸を合わせ、曲のツボをつかんで演奏する技量は大したものと、また感心することしきりである。 

お互い衣裳を変えてのトークはとても楽しかった。川井さんも寺脇さんも私が少し前に出した文春文庫『モノ書きピアニストはお尻が痛い』を読んでくださっていて、いろいろ突っ込んだ質問をなさる。演奏家の職業病に話が及んだとき、ピアニストも腱鞘炎で大変だが、身体をねじって弾くヴァイオリニストはもっとひどい、ということになり、川井さんは「私もね、レントゲンを撮ると、背骨が曲がっているらしいんです」とおっしゃる。たしかに、背中を大きくそらし、左側に傾けて弾く川井さんの演奏スタイルは、身体的には負担が大きいかもしれない。

さて、芸能事務所に話を戻すと、15分ほどで小柄な男性が戻ってきて、説明が始まった。結論から先に言うと、思ったとおりスカウトではなく「勧誘」だったのである。事務所に登録するタレントは、まず、登録料8千円を収めたあと、事務所指定のカメラマンとブロマイド写真を撮らなければならない。この作成料が7万8千円で、計8万6千円。スカウトさんが熱心だったのも、そのためだろう。それにしても、リサイタル・ショップで買ったコートに500円の帽子をかぶった私が8万6千円を払いそうだと思ったのだろうか。表参道を歩く女性にとってはこんな金額ははした金なのだろうか。

クラシックの世界でも、アーティスト・ポートレイトを撮影するときは7~8万円ぐらいかかるし、ヘア・メイクをつけたらもっと高いときもざらだが、自分が依頼主だからプリントを頼んでプレス関係者に配ることができる。しかるに芸能事務所の場合は、使用権が事務所側にあるから、流用することができない。あくまでもその写真を使って事務所がエキストラなどの仕事を取ってくるという「建前」なのだ。しかも、写真は古くなるから一年ごとに更新?うわっ。

インタビューの聞き手になったり身の上相談したり、制作サイドのニーズはないのですか?ときいてみた。でも、あくまでもブロマイドを作成し、オファーがあったら事務所から派遣されて仕事をするという形らしい。クラシックの事務所の場合、マネージャーがギャラの15%をとるのが一般的だが、こういう芸能事務所の歩合はどうなっているんだろう。 

一応いろいろな説明を伺い、足長お嬢さんと同じように廊下に出てデジカメで写真を撮る。こちらは撮影料は発生しないのですね、と念を押してから被写体となった。どのぐらい笑ったらよいのか、ちょっと迷っている間に撮影終了。「勧誘」ではあったが、応対は丁寧だったし、事務所入りを強要することもないし、ましてや金品を強奪されそうな危険な雰囲気もない。 

何月何日までに事務所に連絡してくださいと言われたが、もちろん連絡はしなかった。その後追いかけ電話もこない。さっぱりしたもんだった。 

長谷川さんに報告したら、「それでは、お互いにプロダクション所属ではなくフリーで、ユニクロからポスター撮影の依頼が来るようがんばりましょう」というメールが来た。

ユニクロのモデルってとこがいいなぁ。

投稿日:2011年1月29日

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「MERDE/メルド」は、フランス語で「糞ったれ」という意味です。このアクの強い下品な言葉を、フランス人は紳士淑女でさえ使います。「メルド」はまた、ここ一番という時に幸運をもたらしてくれる、縁起かつぎの言葉です。身の引きしまるような難関に立ち向かう時、「糞ったれ!」の強烈な一言が、絶大な勇気を与えてくれるのでしょう。
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