わたしきのうきょうあした
自分の最高レベルの演奏は私自身も予期せぬときに突然やってくるものです。
青柳いづみこさん(ピアニスト、文筆家)
没後90年を迎えた作曲家、クロード・ドビュッシーの曲を中心に演奏。その音楽や生い立ちを研究し、評伝を書いている青柳いづみこさん。ドビュッシーの作品には印象派としての美しさ、優雅さがある。だが、それらと相反するものも持っていたところが彼の魅力、と青柳さんは言う。
その演奏会の前半は粛々と進行していった。7月5日。東京・築地の浜離宮朝日ホールでのこと。演目はフランソワ・クープランの楽曲。青柳いづみこさんがピアニストとしても文筆家としてもテーマとする、クロード・ドビュッシーが愛(め)でた音楽家だ。この公演は、『青柳いづみこドビュッシー・シリーズ音とことば・色彩の出会うところ』の第3回。ステージ上で青柳さんはクープランの奏法を巧みに再現し、解説を加える。音楽に精通した観客が多いのだろう。MCの時間帯には誰もがプログラムノートを真剣な目で追い、話を聞いている。
休憩をはさみ後半は、ドビュッシーの練習曲。88ある鍵盤の上を、青柳さんの指が右へ、左へ、流れるように動く。ドビュッシーの作品を弾くときの青柳さんは、ピアノと一体化して感じられる。練習曲なので、旋律に派手さはない。それなのに、きらびやかに聴こえるから楽しい。
アンコールは、ドビュッシーの名曲、「月の光」。ホール中に響く拍手に迎えられて下手(しもて)のそでからもう一度現れた青柳さんは、ピアノに向き合い、姿勢と呼吸を整え、拝むようなしぐさをすると一気に演奏した。
実にユニークな演奏会だった。アカデミックな前半。アーティスティックな後半。ピアニストで文筆家という二つの分野で活躍する青柳さんだからこそ成り立つ構成だ。
ピアニストで文筆家。この、他にはあまり例をみない両立を実現している青柳さんの原点は、3歳半から暮らす東京杉並区、阿佐ヶ谷(あさがや)の家にある。築50年以上になる家は、そこだけが昭和であるかのように建つ。年季の入った扉を力まかせに開いて中に入ると、ヤマハとスタインウェイ、2台のグランドピアノが並ぶレッスン室で青柳さんは迎えてくれた。ここで青柳さんはずっとピアノを弾き続けている。
「私が音感教育を受けたのは4歳から。どうやら耳がいいみたいだとわかって、6歳で本格的にピアノの修業を始めました。文章のほうはもう少し後。小学生の頃は、あまり作文がうまい生徒ではなかったかな。子どもにしては少し理屈っぽい文章を書いていたことを憶(おぼ)えていますね。それでも、中学時代にはドストエフスキーやジェイムズ・ジョイスを読み、同人誌をつくって、童話を書くようになりました」
2台のピアノの周りはグルリと書棚が囲む。中にどっさりと本が並ぶ。
かつてはこの家に、両親や祖父とともに暮らした。祖父は、フランス文学の翻訳家で、骨董蒐集(しゅうしゅう)でも知られた青柳瑞穂(あおやぎみずほ)さん。祖父の書棚には文学全集がずらり。家には仲間がよく集い、酒を飲みながら語り明かしていた。「阿佐ヶ谷会」と命名されていたその集まりのメンバーは、井伏鱒二、太宰治、亀井勝一郎(かついちろう)など、特に戦後はそうそうたる顔ぶれだったという。
「私が子どもの頃が会の最盛期で、しょっちゅう大宴会をやっていました。母には、あの人たちは悪い人だから真似をしないように、と言い聞かせられていたんですが」
祖父は金があってもなくても酒を飲み、食べ物に贅(ぜい)を尽くし、骨董品に大枚をはたいた。
「祖母は経済問題が原因で自らこの世を去っています。そのせいで、父と祖父は絶縁関係にありました。子どもの私だけが両親の部屋と祖父の部屋とを気ままに行き来していたんです」
「阿佐ヶ谷会」で見る芸術家と音楽の場で出会う人とのギャップ。
音楽を学び、文学に触れる過程で、子ども時代の青柳さんは、自分が学ぶ音楽の世界に、ある種の矛盾を感じた。
「祖父を通して身近に感じていた芸術家というのは、貧乏で、浴びるようにお酒を飲んでいる、母親が言うところの”悪い人たち”です。ところが、ピアノのレッスンで出会う同世代の子どもは、育ちのよいお嬢さんばかり。ヤマハがグランドピアノを大量生産する前の時代なので、経済的にも社会的にもすごく恵まれた家庭の子どもがほとんどです。その中に身を置く自分に、はっきりと違和感を覚えましたね。芸術というのは、本来そんなに恵まれすぎた環境から生まれるものではないんじゃないか、と」
そのときに覚えた違和感が、後にドビュッシーに興味を持つきっかけにもつながった。
「フランスの作曲家のドビュッシーには、最初はハイソなイメージを持っていました。作品の美しさは言うまでもありませんが、その楽曲を、ピアノの先生や先輩たちが、実に優雅に奏でていたからです。でも、洗練された演奏に、私はどうしても、なじめませんでした。
作曲家が表現したかったことがわかるんです。楽譜のほうから音楽が形になって迫ってくる感じです。努力してそうなったのではなく、持って生まれた才能だと思うのですが。ところが、ドビュッシーの場合、譜面から感じた音と、周囲の人が弾く優雅な演奏との間にギャップがあった」
貧しい生い立ち、複雑な内面。
知るほどに魅力的なドビュッシー。
何かが違う。東京藝術大学の博士課程に在学中、論文を書くために調べていくと、この大作曲家の一般的なイメージとは異なるバックグラウンドが次々とわかってきた。
「彼はパリ・コミューンで囚われた人の息子として生まれ、小学校にすら通っていません。文字の綴りは間違いだらけ。計算も満足にできないほどの学力でした。その環境から、自分の持つ音楽の才能と努力で這(は)い上がってきた人。世紀末のデカダン趣味と洗練された音楽という、相反するものを内側に併せ持っている作曲家でした。まるでジキルとハイドのように……。調べるほどに明らかになるドビュッシーの素顔を知り、ますます魅力を感じました」
この話から知りたくなった。青柳さんはドビュッシーをはじめ、多くの人の評伝を記しているが、どんなタイプに魅力を感じ、取り上げるのだろう?
「私はうまくいっていない人が好き」
即答だった。
「うまくいっていないと言っても、取材をしたり、資料に当たって調べたりして評伝を書く対象なので、社会的に成功している人ではあります。でも、この人、本当は自分の持つ100%が出ていないんじゃないかしら。そう感じられる人が好き。世の中では成功者と思われていても、実は自己実現できていないように思える人に、すごく興味を持ちます。その人の持つ才能を堰(せ)き止めている何かを知りたい、って。
例えば何かのきっかけで、正確無比なテクニックで評価を得ているピアニストの奥に潜む情熱が垣間見られると、その熱の源泉をすごく知りたくなる。彼は心の中に何を隠しているのか。何がじゃまをして情熱が表面に表れないのか。知らずにはいられない」
「何か」がわかれば、一気に綴るのみ。「ランナーが、ハイな状態を体験することがあるように、私は書いていると、しばしばその対象に乗り移ります。書きたいことが見えてくるから、それを文章にするだけです」
さすがに、段ボール箱にいっぱいの資料をもとに書くような長編では、構成に苦労する。だが、文章を綴ることにおいては、特に努力はいらない。
話をピアノに戻そう。溢れる才能を感じながら成長した青柳さんだが、ピアニストへの道は平坦ではなかった。自分自身も周囲も願っていたほどに手が成長せず、ずっと苦しんだのだ。「小学5年生の頃が華でした。そのあとは、手が大きくないと弾けない曲を勉強しないとならなくなって、自分の思いがどんどん溢れてくるのに、手が小さいから、イメージどおりの表現ができなかったんです。この悩みは、20代まで続きました」
このあたりの紆余曲折(うよきょくせつ)は、青柳さんの足跡にも表れている。藝大大学院の修士課程を終え、フランスに留学したが、「在学中も留学中も、ずっと思うような音の出ないことを指摘され続けました」。
帰国後の1980年にデビュー。そして、翌年に再び渡仏。
「この2度目の滞在中に、楽器の鳴らし方をゼロから訓練し直した。そして帰国後、何度かリサイタルを開くうちに、いつしか”音のきれいなピアニスト”という評価をいただくようになったんです。長い道のりでした」
ドビュッシーの研究を始めたのは、「どうしてもモノが書きたくて」83年に藝大の博士課程に入り直したとき。博士論文に加筆をして出版したのが、文筆家としての出世作となった『ドビュッシー想念のエクトプラズム』。フランス文学を生業(なりわい)とする祖父や阿佐ヶ谷会という頽廃(たいはい)的な文学サロンを身近に見て育ち、ピアニストとしての才能に恵まれながらも、身体的な限界を絶えず感じていた青柳さんだからこそ、フランスの生んだ大作曲家の陰の部分を見出し、探求し得たのではないか。紆余曲折の末、音のきれいなピアニストと言われるように。このドビュッシーの光と影が淡々と記された一冊は、高い評価を得た。
長い間、忘れていた自分の優しさを導き出した「天使のピアノ」。
浜離宮朝日ホールでの演奏会で、青柳さんのピアノはさまざまな表情を見せてくれた。作曲家同様、演奏家も、その音に性格やバックグラウンドが表れるのだろうか。
「もちろんそう。それは怖いくらいに。しかも、その日の演奏の出来は、演奏家のコンディションだけでなく、ホールの響き、楽器のコンディション、天気や湿度など、さまざまな条件に左右される。ライブなら観客との相性がよくないと、演奏者がいくら努力しても限りがあります。ウィーンの名ピアニスト、フリードリヒ・グルダは、コンサートをメイク・ラヴに例えていました。演奏をしながらいろいろと探って、それでも聴衆と共感できなければ、さっさとすませて帰ると話していた。
演奏者本人も予期せぬときに、突然、自分の最高の瞬間がくることもあります。私の場合は、次に弾くべき音が目に見えるように感じる。ほんとうにまれに、自分の最高に出合えます」
青柳さんは、今年、久しぶりにその”最高の自分”を体験した。
「東京都国立(くにたち)市にある障害者の福祉施設、滝乃川(たきのがわ)学園のピアノでレコーディングをしたときのことでした。『天使のピアノ』といって、明治時代に障害者教育に生涯を捧げた石井筆子さんが持っていたピアノです。19世紀に作られたもので、鍵盤を押してから音が出るまでに時間がかかるので、いつもとは全く違う弾き方をしたのですが」
施設ゆえ、昼間は音を出せない。レコーディングは夜間。あいにく梅雨どきで、少しでも雨が降ると録音は中止。「そんな中で、とても気持ちよく弾けました。私の性格のきつさ、せっかちさが封印されたおかげだと思います。
幼い頃からピアノを弾いていると、ものすごい競争社会の中で育つので、どうしてもファイター気質になってしまいます。ファイターでなければ生き残れないですから。でも、そんな性格のままでは天使のピアノは弾きこなせません。強く弾いて楽器を壊してしまったら困るので、優しいタッチの楽曲を選びました。オーバー・ダンパーという特殊な機構で、一音を弾いてすぐ次を弾いたら、音が混ざってしまいます。だから温和にならざるをえないんです。そうしたら、自分の中の優しい気持ちに出合え、優しい演奏をすることができました」
ピアニストにとっての至福の瞬間だった。
————————————————————
写真説明
大学で教鞭もとる青柳さん。コンサートでは弾く曲の解説を添える。わかりやすい語り口。時としてスポーツを例に挙げたり、世柑に言及したりすることも。
朝日力ルチャーセンター東京では、ドビュッシーの『陰の練習曲』の公開講座を開いた。「この曲の指使いは、こう」との実演に、受講者たちは見入る。
ドビュッシーの楽曲を弾くときは特に、青柳さんとピアノとが一体化しているように感じられる。
終演後、親しいリスナーたちと談笑。ほっとしたひととき。
壁にはさまざまな来客が自分の痕跡を残していく。「今”新阿佐ヶ谷会”をやっているの(笑)。評論家川本三郎さんとか、書評家の岡崎武志さん、装丁家の間村俊一さんとここでお酒を飲んでいます」
祖父、青柳瑞穂さんは、フランス文学者で、美術評論家、骨董蒐集家。’71年に他界するまで阿佐ヶ谷で暮らした。
「祖父からは、書くことよりも、本物を見抜く目を受け継ぎました」。祖父の部屋にもよく出入りしていた小学生時代。
祖父の骨董品は大半が姿を消した。堀口大學から譲り受けたインカの壺は今も残る貴重な一品。