皆川達夫[推薦]
青柳いづみこさんといえば、ドビュッシーなど近代フランス音楽の演奏で知られたピアニストである。その青柳さんがジャン=フィリップ・ラモー(1683~1764)のクラヴサン作品、「鳥のさえずり」「ミューズたちの対話」、「異名同音」、「王太子妃」など、お馴染みの作品ほぼ20曲ほどを集めてピアノで弾いておられる。
かつてアンジェラ・ヒューイットによるクープラン作演奏や、アレクサンドル・タローのラモー演奏に必ずしも好意的ではなかったわたくしだが、この青柳さんのピアノによる心なごむラモー演奏にはすっかり聴きほれてしまった。
ラモー作品にちなんで「やさしい訴え」となづけられた今回のCDを傾聴しつつ、わたくしの思いのなかに、慎み、控えめ、節度、高雅、気品、粋、典雅、繊細、優しさ、奥ゆかしさ、心づかい、などという言葉がいくつもいくつもよぎっていった。かつな日本女性の美徳とされ、しかし今はまったく顧みられず、むしろ軽蔑され忌避されかねないこれらの徳性が、この演奏からにじみ出ているのである。
有名な「タンブーラン」や「めんどり」でさえ、リズムを力まかせに叩きつけることがなく、柔軟な歌心が添えられている。しかも、それはピアノをクラヴサンふうに弾くのではなく、ピアノ独自の言葉でまっすぐに語り、それでいてラモーを十全に活かしておられるのである。
ドビュッシーに傾倒し、ドビュッシー研究で博士号を受けられた青柳さんなればこそ果たしえた、知と情が理想的に両立したラモー演奏である。楽才と文才との奏法にめぐまれた青柳さんが音で語ってみせられたラモーへの回帰を、今度は文章で読ませていただきたいものと思う。
今月は波多野さん、青柳さんと、古楽の名演奏盤が並んだ。以前に記したことだが、ベートーヴェンやワーグナーはいざ知らず、古楽の領域こそ、日本人音楽家が世界の檜舞台を制覇しうるもっとも好適な分野ではないだろうか。
服部幸三[準]
少なくとも音楽史の領域に興味を持つ人なら、誰もこだわる「いまさら古い」という思いに、奏者の青柳いづみこは「ピアノで弾くクラヴシニスト」という一文で答えている。文筆家としても知られる青柳は、安川加壽子門下で、マルセイユ音楽院卒、現在は、大阪音楽大学教授を勤める人だ。
・・・もともとフランスには、クラヴサン音楽をピアノで弾く伝統がある。というより、そもそもクラヴサン演奏を復活させたのがフランスのピアニストたちだったのだ。 ・・・
その流れが日本では安川加壽子門下に受け継がれ、このCDへと流れ込む。ここには、クラヴサン(チェンバロ)による演奏効果を横目で睨みながら、それらしくピアノで弾くという意識は露ほどもない。むしろ、これこそが正当な伝統の継承だという、あえて言えば誇らしさが表に浮かんでいる。
プログラムはラモーの生涯の全作品から抜粋されていて、「クラヴサン曲集」(17 24)から「鳥のさえずり」ほか9曲、「新クラヴサン曲集」(1728頃)かさ「ガヴォットと変奏曲」ほか5曲、「コンセールによるクラヴサン曲集」(1741)から「リヴリ」ほか4曲、最後に「王太子妃」(1747)である。
アゴーギグにせよ、デュナミークにせよ、これはピアノという楽器に自然に具わるものを遺憾なく駆使した演奏だ。あわいロマンティシズムの名残を感じさせる音楽の感じ方が、どこか昔懐かしい。そして、私たちは、これがドビュッシーをはじめフランス近代の音楽家たちが再発見し、ピアノという楽器の響きに託した思い描いたラモー像だったことを、今改めて思い知らされる。
神崎一雄[録音評]
おそらくは演奏によるものだろうが、いわゆるピアノのサウンドと言うよりも、作曲当時に使われたであろうフォルテピアノやチェンバロなどの当たりの柔らかさをイメージしたと思える可憐な感触のピアノ・サウンドが印象的である。ピアノから弾き出された音が、演奏空間に浮遊するイメージを醸し出している。個性的であり、それだけ印象強い録音である。