今月のNEW DISC
想いを脈々と受け継ぐ”天使のピアノ”
かけがえのない響き
「天使のピアノ」は現在、社会福祉邦人滝乃川学園(東京・国立市)が所有する国内最古級のアップライト・ピアノである。もともとの所有者は石井筆子(1861~1944)。彼女は、肥前大村藩の渡辺清の長女として生まれ、東京女学校を卒業後、皇后の命でフランスに留学、帰国後は華族女学校のフランス語講師となり、また鹿鳴館でもその美しさが話題となった人である。最初の結婚で子供をもうけたが、3人の娘のうちふたりは知的障害を持ち、夫の死後、その娘たちを石井亮一の主宰する滝乃川学園に預けた。その後、石井と再婚し、知的障害児の保護・教育・自立に奔走した。その生涯は『筆子・その愛--天使のピアノ』という映画(山田火砂子監督、常磐貴子が筆子を演じた)にも描かれている。
天使のピアノは、その筆子が最初の結婚の時に購入し、石井のもとに嫁いだ時に滝乃川学園に持ってきた。天使のエンブレムが付いていることからこう呼ばれている。長く蒼枯に眠っていたようだが、学園史研究メンバーが発見し、1998年に修復された。横浜でピアノの輸入・販売をおこなっていたドイツ人楽器商デーリングが、1884~89年にかけて製造・販売したものだそうだ。
今回、そのピアノを使って青柳いづみこが録音したのは、筆子に関連するフランスの音楽、ベートーヴェン『月光子、ショパン、シューマン、そしてチャイコフスキーの『子供のためのアムパム』など。古いアップライトのピアノは、オーバーダンパーで、弦を押えるダンパーとハンマーの位置が普通のピアノとは逆になっている構造で、その響きは現在のアップライトから想像できないほどの繊細な雰囲気を持っている。修復後、国立のホールで演奏され、また、学園のチャペルコンサート、また紀尾井ホールでのチャリティコンサートなどにも使用されている。
このアルバムはフランソワ・クープランの『百合の花ひらく』『葦』という可憐なクラヴサン用の作品から始まっているが、独特の響きを持つこのピアノに非常によくマッチした選曲と言えるだろう。
印象的なのはクーラウと滝廉太郎。クーラウは、筆子が婦人運動にかかわっていた1898~1902年頃、東京音楽学校の演奏会で最も頻繁に演奏されていた作曲家だったそうだ。滝の『憾』(1903)は、夭折したこの作曲家のピアノ曲として有名だが、筆子は、永井繁子を通して滝とも交流があったと言われている。その独特のパッショネイトな音楽は、明治時代の若者たちが持っていた独特の鬱屈を票芸しているような気がするし、ピアノの音がまたその感を強めている。
ベートーヴェンの『月光』(第1楽章)を聴くと、このピアノの個性がよりはっきりと分かるかもしれない。明るい高音部の音色、そして中音から低音にかけてのニュアンスなどなど。けっして大きな音ではないようだが、そのオーバーダンパーという構造から来る残響の残りかたが、こうしたファンタジックな作品によく合っている。それはドビュッシー『月の光』にも言えること。
チャイコフスキーの『子供のためのアルバム』には筆子がアンデルセンのオリジナル作品から再構成した『水仙のお話』の朗読が合せて収録されている。ピアノを聴きながらお話も楽しむ、そんなインティメイトな雰囲気もまたこのピアノにぴったり。
ピエルネやラザール・レヴィという選曲は青柳らしいものだが、特に後者は青柳の恩師・安川加壽子の師でもあり、彼が安川に献呈した作品であるという。
時代を超えて、人々の想いがつながって、この由緒あるピアノに集まった、そんなことを思うアルバムである。