【書評】「阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ」(産経新聞2021年1月17日)

文化根付いた青春の匂い

JR中央線沿線、中野から吉祥寺にかけては、若者に優しい町である。私自身そうだったように、多くの地方出身者は、この地域に住むことで少しずつ「東京」になじんでいった。

中央線沿いに金のないミュージシャンや芸人が住んでいるのは、家賃が安く、映画館や古本屋、喫茶店があり、都心にも出やすいからだ。そして、彼らの先輩とも言えるのが、かつてこの地に住んだ文士たちだった。彼らは関東大震災後、当時まだ開けておらず生活費の安い荻窪、阿佐ケ谷、高円寺などに移ってきた。その代表格が荻窪に住んだ井伏鱒二だ。「阿佐ケ谷アタリデ大ザケノンダ」は、中国の詩を井伏流に訳したもの。

著者の祖父・青柳瑞穂はフランス文学者で、骨董(こっとう)の目利きとしても知られる。阿佐ケ谷の青柳の家は「阿佐ヶ谷会」の会場になった。井伏のほか、上林暁、木山捷平らが集まって将棋を指し、酒を飲んだ。流行作家になる前の太宰治も顔を出した。

時流にくみせず、自分の信じる文学に打ちこんだ彼らは、当然ながら貧乏だった。小田嶽夫は「家賃を払わない方針をとっていた」と澄まし込む。また、外村繁は、電話のない井伏家に連絡したい時、そば屋に出前とともに伝言を頼んだという。なんとも、のんびりとした話だ。

しかし、著者は好き勝手に生きた文士たちの陰で苦労した女たちのことを忘れてはいない。夫の飲み代を捻出するために、妻は着の身着のままで生活。上林暁が半身不随になった後、介護をしながら「左手」となって口述筆記をしたのは妹だった。

著者は、幼い頃からずっと阿佐ケ谷で暮らし、「何も予定がない日も、(略)日に一度は商店街を歩いて」いただけに、地元の店のひとつひとつを臨場感を持って描く。毎年楽しみにしている商店街の七夕祭りは、昨年、新型コロナウイルスの影響で中止されたという。

ピアニストでもある著者は、祖父にならって、同じ家で多種多様な人が集まる「新阿佐ヶ谷会」を開く。街に出れば、行きつけの店に立ち寄り、ときにはコンサートも開く。生活の中に文化が根付いている。昔の雰囲気を残しつつ、新しいものも受け入れる。中央線にはいつでも青春の匂いがする。

評・南陀楼綾繁 (編集者、ライター)

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