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ファム・ファタルの手練手管
なによりも艶やかな本である。しかも凄みがある。開巻早々に、「太宰治が最後に私の家に来たのは、祖母が青酸カリを飲んで死んだ通夜の日だった。……」とある。
これは、著者の祖父であるフランス文学者の青柳瑞穂宅でおこなわれた、中央線沿線の文士たちがつどう阿佐ヶ谷会に太宰が出向いた折のことだった。家にはいれずにひきかえした太宰は、このとき駅に待たせていた山崎高栄と二ヵ月後に入水してしまうというから、昭和二十三年のことだったのだろう。まだ生まれていなかった著者は、この話をのちに母親から聞かされたという。
その太宰の『お伽草紙』の一編「カチカチ山」では、小柄でほっそりした十六歳の処女という兎に、ひそかな思慕の情を寄せる狸が、さんざんな目にあわされた末に、「惚れたが悪いか」のせりふを残して、夕映えの河口湖に沈められてしまう。「まことに無邪気と悪魔とは紙一重である」という太宰の身につまされるような一言が、本書の題名になっている。
東西の文学やオペラに登場するファム・ファタル、つまり男を破滅に導く「宿命の女」(世にいう悪女)を論じた本だといえば、ディレッタントの手になる一冊と考える向きもあるかもしれないが、これはまったく趣きを異にする。軽妙な語り口につられて読み進むうちに、全編、さえざえとした著者の熱き思いがすみずみまでゆきわたっていることに気がつく。
論じられるのは、太宰のほかに鏡花、谷崎、有島武郎から現代作家におよび、ヨーロッパ文学では、『マノン・レスコー』『カルメン』から現代のミステリーまでと、多岐にわたっている。
あまりなじみのない作品も引かれているが、たとえ原作を知らなくとも、そのつど適切な紹介とともに話が進められてゆくので差し支えはない。観念的とされてきた椎名麟三の『永遠なる序章』も、こうした視点から読み解かれると、暖かな肌合いをもった物語と思えてくるからおもしろい。
ファム・ファタルの手練手管をことごとく知りつくしているという著者が、歴代のヒロインのやり口を次々と俎上に載せてゆくのだから目がはなせない。こちらが分かったつもりになると、たちまち婉然と身をひるがえされるような気がするのである。
「こばみ、じらす女たち」の章では、『痴人の愛』のナオミを論じながら、「まあ、このあたりは、私もときどき使う手なんだが」という、こともなげに書きそえられた一行をみて、気の弱い男性読者はぎょっとするかもしれない。
そうした手練手管とは終生無縁であった女性がたったひとり登場する。若き日の阿部次郎が思いをつのらせた、著者の母方の祖母は、策を弄することなど知らない美しい聖女のような女性だったらしいが、まさにそのために、青年たちをまきこんだ悲劇の原因になってしまうのだから、この問題はまことに複雑微妙のようだ。