色彩とリズムの時間へ 力強く大胆な飛翔が響くドビュッシーの愉悦
ドビュッシーの内的想念に音と言葉で踏み込む
ピアニストであり文筆家であり、双方で等しく好評を得る人というのも珍しいけれど、青柳いづみこからはどちらの肩書も外せまい。音楽から文学から幅広い話芸をみせると共に、ピアニストとしての経験にもとづく説得力のある音楽論を書ける数少ない存在だ。
と同時に、ドビュッシー論で博士号を取得した研究科でありドビュッシー弾きであり・・・はいうより、この作曲家こそが青柳いづみこという音楽家/文筆家にとって抜きがたく重要であったこと、『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』(中公文庫)にも明らかだ。彼が憑かれた洗練優美と世紀末デカダンス、その二面性を問い詰めてゆくスリリングな同書は、ドビュッシー論であるとともに演奏論でもある。
演奏家と聴き手をつなぐ「いうにいわれぬ」内的想念。演奏された音とはその「想念のエクトプラズム」に色彩と持続と律動を与えたもの・・・」と(結論近くで)述べられる一文は、作曲家自身の言葉と呼応する。ドビュッシーにとって音楽の本質は、形式の中に展開されることよりむしろ「色彩と律動づけられた時間」なのだ・・・と引かれるドビュッシーの書簡はまた、青柳いづみこの演奏を聴き手の胸により深くひらくための鍵となるだろう。
新たなドビュッシー論も準備中という青柳が、久しぶりのドビュッシー・アルバムを世におくる。過去に出したCDのほとんどでドビュッシーを取り上げている彼女は、1996年録音の『ドビュッシー・リサイタル?』で『映像』第1集、第2集と『前奏曲集』第1巻を弾いたのに始まり、『雅びなる宴』では『2つのアラベスク』『ベルガマスク組曲』『仮面』『喜びの島』ほか、『ドビュッシー・リサイタル?』では『子供の領分』『6つの古代碑銘』『前奏曲集』第2巻(以上ライヴノーツ)ほか商品も録音。今回の新譜『ドビュッシーの時間』で主要作の大半を録音したことになる。
抽象美から引き出される多くの驚き
意図してか図らずもか、今回の演目は、作曲家が鍵盤に響かせた思考の進展を追うか のように、創作の幅広い期間から選ばれた。32歳で書かれた『忘れられた映像』(没後出版)。『ペレアスとメリザンド』が賛否両論を呼んだ翌年、41歳の『版画』。そして、53歳の折りにショパン全集の校訂作業から触発された最後の大作『12の練習曲』。
3曲ある『忘れられた映像』からは第2曲「サラバンド」が省かれているが、後の『ピアノのために』(青柳は未録音)第2曲へ転用されたこともあるだろう。第1曲「ゆっくりと」から彩りふかくはじまるアルバムは、次なる第3曲「『もう森には行かない』による諸相」で生命力みなぎる語り口を嬉々として響かせる。・・・この曲が、つづく『版画』の第3曲「雨の庭」と共通の素材を用いた先駆稿的な存在であることを聴き比べられるのも愉しいところだが、第2曲「グラナダの夕」でハバネラのリズムにつづいて現れるロマ風のメロディにも顕著なように、肉感的といっていい自在さをあらわにする演奏は、響くよりも歌うよりも「いうにいわれぬものを語る」迫力を感じさせはしないだろうか。
『12の練習曲』でも、青柳の指はこの抽象美から多くの驚きを引き出してみせる。ドビュッシーはこの曲をショパンに捧げるかクープランに捧げるか迷っていたというが、幼い頃から師・安川加壽子に課題としてクープランを与えられ、その典雅と明晰と愉悦に自然なつきあいを求めてきた青柳が、この『12の練習曲』に充ちた鋭くも豊かなエネルギーから、さらに生々しい躍動感を引き出して響かせるのも自然なことだろう。
精緻に身を縮めることなく「色彩と律動づけられた時間」へ、大胆で力強い飛翔を楽しめる一枚だ。