ドビュッシー研究の第一人者による貴重な6手2台ピアノ編曲版《海》が登場
青柳いづみこ【ピアノ】
ききて・文=小室敬幸 写真=青柳聡
2020年に演奏生活40周年を迎えたピアニストの青柳いづみこ。安川加壽子、ピエール・バルビゼの高弟として第一線で演奏活動をおこないつつ、文筆家としても今も毎年著書を発表するなど、健筆を振るい続けているのは皆さま御存知の通り。近年は高橋悠治との共演が話題を呼んでおり、3月にはミヨー『ボヴァリー夫人のアルバム』(ピアノ:高橋悠治/朗読:青柳いづみこ)を核としたアルバムがリリースざれた。
高橋悠治との共演から得たもの
「そもそもあちら(高橋悠治)から〃連弾、やる?”ってお声掛けがあったんですよ。三宅榛名さんが悠治さんについておっしゃっていたんですが、〃あの方はね、自分に足りないものを持ってる人がいると近づくのよ。盗もうとするの!”って。榛名さんの場谷は”即興”に、私は”ピアノ奏法”について書いている本を読んで興味を持たれたみたいです。実際、悠治さんにオクターヴの弾き方を教えましたから(笑)」
共演するようになったのは2014年からなので、既に7年ほど経過。しかし、何を弾くかの段階でつまづきそうになった。
「お声掛けされて早速、ヤマハ銀座店で矢代秋雄さんの《古典組曲》や林光さんの《ブランキ》といったような邦人作品も含めて、山のように連弾曲の楽譜を買ってきたんです。なのに、そういうものはやりたくないって難癖がついちゃって。ことごとくはねられてしまった結果、2017年に録音した《春の祭典》と、2016年に録音した《マ・メール・ロワ》ぐらいしか残らなかったんです。最初から頓挫しかけましたけど、私は物書きでもあるので、そういう面白そうな話はとりあえず乗ってみようと思っていて」
苦労した甲斐あってか、色々な収穫があったという。例えば、作曲家・高橋悠治を通して眺めるストラヴィンスキーは非常に新鮮なものだった。
「ドビュッシーをよく理解するためには、ストラヴィンスキーの《春の祭典》や《ペトルーシュカ》は避けては通れないのですが、悠治さんが言い出さなければ私が《春の祭典》を弾くことは絶対になかったと思います。そのお陰でストラヴィンスキーの音の動かし方をドビュッシーがどういう風に取り入れたか、はっきり分かったのが印象深くて。とても有り難かったですね、ただ聴くより、楽譜を見るよりも、やっぱり実際に弾くと最も理解が深まりますから」
個性的なメンバーによる6手2台ビアノ版《海》
ドビュッシー研究で博士号を取得している青柳のドビュッシー観が、高橋からの刺激によってまた少し更新されていくというのは実に興味深い。しかし、昨年2月に録音され、12月に発売された、交響的素描《海》をアンドレ・カプレが6手2台ピアノ(?!)に編曲した版をメインに据えたディスクに、その影響はほとんどないという。
「それはまた別です。こちらは普通にクラシック的な弾き方をして録っています
今回は下の方からまず音の波が来て、弾いている私もずっと、本当の波に揺られているような感じだったんですので」
しかし、こちらはこちらで、個性的な共演者が選ばれている。まずは第1ピアノをひとりで弾く森下唯、そして第2ピアノはプリモを青柳、セコンドを指揮者の田部井翔が弾いている。共演者はどのように決まったのか?
「藝大の指揮科で演奏研究員をつとめている唯君から《海》のピアノ版を弾いて楽しかった、という話を聞いていたので、まず彼に電話したら”やります”って即答してくれました。もうひとりについて事務所に相談して色んなピアニストを紹介してもらい、実際に動画をみたりしたんですけど、ピアニスト的ではない方がいいかもしれないと思ったんです。それで指揮者の田部井君のことを思い出して。田部井君はエリック・ハイドシエツクに凄ぐかわいがられていて、彼が来日すると打ち上げとかでよく一緒になっていたんです。それと、以前1回だけドビュッシーの連弾曲《6つの古代碑銘》をご一緒したことがあったんですけど、とても上手くいったんですよ。指揮者でピアノが上手い、彼が良いんじゃないかとお願いして、この組み合わせになりました」
このキャスティングがピタッとハマったことが、本盤の肝になったといっても過言ではない。
「めちゃくちゃハマりましたよね!3倍じゃなくて3乗みたいな感じ(笑)。こんなに上手くいくとは私たちも思ってなかったぐらいです。お互いに全然方向もピアニズムも違うんですけど、誰か1人がイニシアチブを握るっていう感じでもなくて、3人が非常に建設的な意見を出し合って作り上げていった感じですね」
その結果、ピアノ曲の延長ではない、シンフォニックな響きが立ち昇りはじめた。
「これまで連弾とか2台ピアノ版による《海》は、エッセールとプリュデルマシェや、デュオ・クロムランクとか、素晴らしい方々が録音されてきましたけど、”ピアノで弾いている”っていう印象が強かったんですよね。ところが今回は下の方からまず音の波が来て、弾いている私もずっと、本当の波に揺られているような感じだったんです。それは最低音を担ったセコンドの田部井君の力が大きいんじゃないかと思います。とにかくまずバスで倍音が出て、その上に私たち2人が乗ったというのが凄く大きかったんじゃないかなと思いますね。指揮者にとっては倍音を出すことが最重要ですから(笑)。でも田部井君はピアニストじやないのでペダルがうまく踏めなくて、全部私がペダルを踏んでるんです」
一方、もうひとりの共演者である森下も、全く異なる個性を発揮している。「第1ピアノは技術的にすごくむずかしいのですが、唯君は超絶技巧で知られるアルカン作品のスペシャリストなので、最適任でした。舌を噛みそうなトレモロも連打音も、きらめく音でクリアに弾いています。同じようなところを私はむにゃむにゃと弾いてますし(笑)。ある部分では唯君の連打がきれいに出せるよう”森下テンポ”(笑)で、そこだけテンポ落としたりしましたね」
この通りの三者三様、全く異なるタイプのピアニストなのだが、むしろそれゆえに多様な人々の集まりであるオーケストラのようなサウンドになったのではないだろうか。青柳たちにとっても、手応えはとても大きなものだった。「今回の録音を聴いて初めて、《海》ってどういう曲か分かった!っておっしやってくださる方が周りで凄く多いんです。実は私自身もそのひとりで、《海》ってずっとよく分かんなかったんですよ。何かモヤモヤっとしていて、盛り上がったかと思うと、すぐに水差されちゃうし……。でもレコーディングしてみて気づいたのが、ワーグナーからの影響の大きさなんです。第1楽章冒頭は《ラインの黄金》だし、第2楽章の下行する音形はドビュッシーが好きだった《パルジファル》の「クンドリのモティーフ」ですね。そして、もうひとつ興味深いのが、ドビュッシーにフランス風の《トリスタンとイゾルデ》みたいな未完のオペラ《ロドリーグとシメーヌ》があるんですけど、そのなかの「シメーヌのモティーフ」が《海》の第2楽章に出てくるんですよ。私も今回初めて気づきました」
カプレ編曲版との出会い
オーケストラ的なシンフォニックな響きと、ピアノ的な明晰さが両立したのは6手2台ならではなのだが、この編成が非常に珍しいということは改めて強調しておくべきだろう。1台6手であればラフマニノフなど、2台8手になればスメタナなどに、割と知られた作品があるのだが、6手2台という編成は本当に希少だ。このアルバムが生まれるきっかけとなった《海》の6手2台版と青柳はどのように出会ったのか?
「日本語には翻訳されていないんですけど、ドゥニ・エルランが編纂したドビュッシーのぶ厚い書簡集があって、これに載っている1908年3月の手紙に、アンドレ・カプレが編曲した2台6手の《海》が明日初演されるって話が書いてあるんですよ。ドビュッシー自身もその編曲の出来を凄く褒めているんですけど、これまで出版はされていないんです。
でもYouTubeに動画がアップされているので、楽譜は現存しているんだろうなと。それでエルランさんに連絡してみることにしたんです。彼は、私が博論を書いた時に指導してくださったドビュッシー研究家ルシュールさんのお弟子さんなんですよ。エルランさんも親しくしてくださって、私のCDにライナーも書いてくださったこともあります。エルランさんに伺ったら、出版はされてないけどドビュッシー・センターのアーカイヴの中に直筆譜のコピーがあるから、しかるべき手順を踏めばコピー出来ることを教えていただきました」
サマズイユ編曲による《スペインの庭の夜》
そして青柳は、CDに収める他の曲も6手2台に縛って選曲しようと、候補曲を探していく。当初は、今回のために編曲することも考えたという。「唯君は編曲もできるので、《ボレロ》
を6手2台に編曲するっていうアイデアもあったんです。でも田部井君が「僕、リズムだけ弾くの嫌だ!ずーっと打楽器やるのは嫌だ!」って言い出して、立ち消えになりました(笑)」
引き続き、候補曲を探していると、なんと自宅でピッタリな作品に出会った。「師である安川加壽子先生が亡くなられた時に、先生がパリから持って帰ってらした古い楽譜を、形見分けとして門下で分けることになったんですね。その場にいなかった私のために、井上二葉さんが選んでくださった楽譜のなかに入っていたのが、ファリャの《スペインの庭の夜》だったんです。原曲はピアノ協奏曲ですが、編曲者のサマズイユがピアノ・ソロはそのまんま、管弦楽の部分だけを連弾にしています。たまたま、6手2台を探していたタイミングで自分の譜面をみていて見つけたんです。長さもちょうどいいし、唯君がソロを弾けば良さそうだなって」
森下のセンスが光ったグレインジャー《緑の茂み》
そして3曲目に選ばれたのは、パーシー・グレインジャーが作曲した《緑の茂み》–これだけが編曲ものではなく、6手2台のオリジナル作品だ。「高松宮世界文化賞のアジア部門で私は審査をつとめているんですけど、審査員のおひとりにダン・タイ・ソンさんがいらして、来日できない時にコメントを代読される国立音大のピアノ科の先生に「いま、6手2台探してるんだけど」っていう話をしたら「あら、こないだ私たち初見で弾いたわ!面白い曲ね!」って紹介されたのが、この曲なんです」
この言葉の通り、決して複雑な音楽ではないのだが、まるで自動演奏ピアノのような雰囲気をもつユニークな作品だ。「これは唯君のセンスが光りましたね。譜面に色々と細かく指示が書いてあるんですよ。例えば、これはテーマだけど、テーマじゃない部分に埋もれるように弾けとか。唯君がアニメやゲーム音楽を編曲・演奏してきたセンスを活かして、いろんなアイデアを出してくれたので面白かったし、もの凄く光りましたね」
今回のディスクに限らず、先に触れた高橋悠治とのデュオでもそうなのだが、青柳は共演者の個性を活かし、その顔ぶれでしか実現し得ない演奏を生み出していっているのだ。個性的な演奏家との共演は今後も続いていくという。「今年の8月にはスペイン音薬を得意とする西本夏生さんと2台ピアノのレコーディングがありまして、スペイン関係の
ドビュッシーの音楽を取り上げます。《白と黒で》と《リンダラバ》、そして《ノクチュルヌ》に、それから何といっても《イベリア》ですね」
もちろん、ソロでの演奏や、文筆業での活躍ぶりも健在だ。2020年に大阪音楽大学の定年をむかえて、ますます活動は盛んになっていくかのようだ。今後の動向から目が離せない。