【レクチャー内容】フランス音楽の歓び ドビュッシー没後一〇〇年を超て

30周年記念特別講演
フランス音楽の歓び ドビュッシー没後一〇〇年を超て
青柳いづみこ レクチャー&コンサート

二〇一八年、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーの没後一〇〇年を迎えた。日本各地でこの作曲家にちなんだ魅力的な演奏会が催されたが、本学でも、ピアニストでドビュッシー研究の第一人者である青柳いづみこ氏をお招きしての、レクチャー&コンサートを開催することができた。目で観る音楽会として楽しんでいただければ幸いである。

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クロード・ドビュッシー(一八六二−一九一八)
 フランスの作曲家。形式、和声、色彩において伝統的基準によらない、全く独自の作風でオーケストラやピアノのための作品を多数作曲した。また、歌曲や唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』は、控え目な表現による内面的心理描写に成功している。後世の作曲家で、ドビュッシーの影響を受けていない者はほとんどいないとも評され、最も典型的な印象派音楽家と見なされている。

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1 演奏曲
クーブラン(1)
クラヴサン曲集第十三組曲(一七二二)より
百合の花ひらく

 皆さまこんにちは。「フランス音楽の歓び」にお越しくださってありがとうございます。今弾きましたのはフランソワ・クープランの『百合の花開く』と『葦』です。百合はブルボン王朝の象徴で、王国が幾久しく栄えるようにとの願いをこめた作品ですが、残念ながらそれから七十年後にはフランス革命が起き、王様は断頭台の露と消えたのです。

 今日はフランスが一番栄えていた時代に貴族たちが楽しんだ「雅びなる宴」の世界と、それを発展させた十九世紀末-二十世紀初頭のさまざまなサロン模様についてお話しながら、十八世紀のクラヴサン曲とドビュッシーのピアノ曲をお届けします。
 こちらの画像(アルルカンの打ち明け話)は十八世紀ロココの画家アントワーヌ・ワットー(一六八四〜一七二一)のいわゆる雅宴画です。ルイ十四世、十五世の時代、貴族たちは運河に豪奢な舟を浮かべ、余興にイタリア喜劇の役者たちを呼び、マンドリンをかきならし、歌い踊りました。イタリア喜劇を知らなくても、ピエロ、アルルカンなどのキャラクターはご存じでしょう。コメディア・デラルテは、十六世紀に北イタリアに発生した即興仮面劇です。俳優たちがそれぞれ仮面と衣装をつけて類型的なキャラクターを演じました。ジャック・カロの版画をご覧ください。最初のころは、屋外に設置した簡易舞台で演じましたが、のちに常設舞台でも上演されるようになりました。キャラクターがすぐわかる仮面をつけ、恋愛、嫉妬、老いの悩みなど類型的なストーリーをもとに演じましたが、時事問題やスキャンダルなどトレンディな話題も当意即妙に取り入れ、また地域性をもたせて人気を集めました。また、方言を利用した滑稽な会話、パントマイムやアクロバットなど身体的な表現もまじえて観客を笑わせました。相方を打つための棒のような小道具も使用します。ドビュッシーのピアノ曲に『ベルガマスク組曲』というのがありますが、これは「ベルガモの」という意味です。ベルガモ出身の役者はなまりがひどく、しゃべるだけで笑いがとれたためと言われています。『ベルガマスク組曲』のヒントになったヴェルレーヌの詩集『雅びなる宴』の『月の光』には、「マスクとベルガマスク」という語呂合わせが出てきます。

イタリア喜劇のキャラクターたち

 こちらはパンタローネといわれるヴェネツィアの仮面です。金持ちで欲深で好色な老人という特徴を備えています。役柄としてはカピターノやドットーレの友人や商売仲間とされることがありますね。パンタローネの商売が召使のザンニに妨害されるのが決まりのパターンです。
 アルレッキーノはベルガモ出身の軽業師、いわゆるペテン師です。フランスではアルルカン、イギリスではハーレクインと呼ばれます。他の登場人物を打つための棒をもち、赤・緑・青のまだらの衣装と黒い仮面をつけています。ドットーレはボローニャの博士で初老の男です。博学で饒舌、黒ずくめで白いカラーをつけ、巨大なフェルトの帽子をかぶっています。プルチネッラはナポリの道化で、背中にこぶがあります。鷲鼻の黒いマスクを被り、白い外套を着ていることが多い。フランスではポルシネル、イギリスではパンチと呼ばれます。カピターノはスペインの隊長です。かつての戦士で、戦の自慢話ばかりしているけれど実は臆病者なんです。大きな襟、巨大な帽子など軍服のカリカチュアを着ています。
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ジャック・カロの版画
アルルカンの打ち明け話
フランソワ・クープラン

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2 演奏曲
クーブラン
クラヴサン曲集第六組曲(一七一七)より
恋するナイチンゲール
神秘のバリケード

 北イタリアに発生したイタリア喜劇は、十七世紀中ごろからフランスに渡ります。ちょうどそのころからパリでは定期市(Foire)がさかんになります。市場(Malche)は日常的な交換の場ですが、定期市は非日常的な場で、大道芸人、香具師、旅回りの劇団などが集まってきました。パリにはサン・トヴィド、サン・ジェルマン、サン・ローランの三大定期市がありました。サン・ジェルマンとサン・ローランの定期市にマリオネットの劇場をもっていたニコレは、一七六四年に小さな劇場をつくって動物芸を上演しました。その数年後には、オーディノが小さな劇場を建て、ニコレに対抗しました。この二軒はそれぞれゲーテ座、アンビギュー・コミック座としてタンプル大通りを象徴する劇場となります。十八世紀も後半になると人形劇、自動人形、影絵、手品、軽業、動物芸などを出し物にした見せ物小屋がタンプル大通りで開かれるようになりました。演劇・芸能の規模が広がるにつれ、定期市は国家からさまざまな規制を受け、一七七〇〜八〇年代には消滅してしまいます。その後は、もっぱらタンプル大通りが芸能の中心地となっていきました。

フユナンビュル座のピエロ役者ドゥビュロー

 一七八九年のフランス革命後、演劇への制限は緩和され、新しい演目が上演されるようになりましたが、ナポレオン時代は再び排除の対象になります。一八一四年、ルイ十八世が即位すると、タンプル大通りにも活気がよみがえります。一八一六〜一七年にかけて、軽業師のドゥビュロー一家がフュナンビュル座に雇われました。長男のガスパール(一七九六〜一八四六)は一家の中では軽業が下手でしたが、最も喜劇性を身につけていました。ある日、ピエロ役の役者が劇場を追われ、ガスパールがバチストという芸名で舞台に上ったところ、大喝采を博したのです。一八二六年、ドゥビュローは正式なピエロ役者として契約しました。それまでのピエロの衣装はワットー『ジル』を参考にしていましたが、ドゥビュローはフリルのついた襟をやめ、袖が長くゆったりした白い衣装を着け、黒い半球型の帽子に髪をおさめました。こんにちよく知られたピエロ像ですね。そして、一八二八年から演じたパントマイム仕立てのドタバタ喜劇『暴れ牛』のピエロ役で大ヒットをとばしました。『パンドラ』誌に「ドゥビュローは同僚と同じだけの評判を得ている。彼は作者でも、装置家でも舞台監督でもない。ただのジルに過ぎない。しかしそのユニークな才能のいかに卓越していることであろうか」という批評が載っています。
 その後一八三六年、ドゥビュローが自分を道化と揶揄した酔っぱらいを杖で打ちすえて殺すという事件が起きました。彼の芸術を愛する多くの文人たちの嘆願により無罪放免となり、彼の復帰でフユナンビュル座は賑わいましたが、「殺人者ピエロ」を前面に出した『古着屋』はドゥビュローを苦しませました。彼が舞台で思わず流した涙がひきがねとなって、「涙を流す悲しきピエロ」のイメージが定着したのです。
 こちらはドビュッシーのデッサンです。これから演奏する『月の光』のタイトルはヴェルレーヌの同名の詩からとられています。月明かりの道を行くイタリア喜劇の役者たち、昼間は楽しく人を笑わせているが、仮面の下はそんなに陽気ではないらしい、という様子が哀しく歌いあげられています。

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ドットーレ
アルレッキーノ
パンタローネ
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ワットー『ジル』
カピターノ
プルチネッラ
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ドビュッシーのデッサン

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3 演奏曲
ドビュッシー
『ベルガマスク組曲』(一八九〇)より
月の光

 ここからは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて開催された、雅びなる宴のお話です。一九一〇年、ヴェルサイユの庭園で「雅びなる宴」(ワットー『公園でのつどい』)が開催されました。主催者は、プルーストの『失われた時を求めて』のサン・ルーのモデル、ロベール・デュミエール子爵です。作曲家としてよりもプルーストの友人として知られるレイナルド・アーンによって夢のように描き出された祝宴の模様です。同時代の人々には、作家というよりむしろ「社交界評論家」のように思われていたプルーストもまた、世紀末のダンディ、モンテスキュー・フザンサック伯爵が一八九四年に、ヴェルサイユの邸宅で催した祭宴の様子を『ゴローワ』紙に寄稿しています。
 ラ・ヴァリエール夫人とモンテスパン夫人は、共にルイ十四世の愛人です。ヴェルサイユは、革命以前のアンシャン・レジーム(旧体制)への憧れと回帰の念の象徴でした。モンテスキューの祭宴の招待客は、グレフユール伯爵夫人、ポトッカ伯爵夫人、ブランコヴァン大公妃、ルメール夫人母娘、ゲルヌ伯爵夫妻、ローダンバック、アルフォンス・ドーデ夫人、アンリ・ド・レニエ、ジュディット・ゴーティエ、エレディア父娘、ソシーヌ伯爵など、いわゆる「トゥ=パリ」(パリ社交界の名士)で一〇〇名を超えていました。プルーストは、一部の貴婦人の衣装の描写が削られたといって、新聞社に抗議しています。

サロンの女主人たち

 モンテスキューやフォーレの祭宴の出席者は、そのまま、その時代の音楽サロンの重要な人物でもありました。モンテスキューの従姉妹で、『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人のモデルの一人といわれるグレフユール伯爵夫人は貧しい貴族の出でしたが、一八七八年に財産家の夫と結婚して以来、文芸の庇護者としで活躍し、さまざまな豪華な宴を催しました。彼女のサロンは、パリの社交界でもグレードの高いことで知られ、音楽家たちはアストルグ街の邸宅やディエップの別荘、ボワ・ブドランのシャトーで手厚くもてなされました。グレフユール夫人はまた、音楽の世界を影で操る黒幕的存在でもありました。夫人は、一八九〇年代はじめ、国民音楽協会の改革に奔走した時期があったようです。一八七一年、フランスの近代作品の紹介を目的にサン・サーンスらのよびかけによって設立された団体ですが、一八九〇年にフランク(2)が亡くなって以来、プログラムから前衛色が薄れつつありました。夫人は、国民音楽協会に対抗する組織をつくって競わせようとまで考えましたが、このアイディアは、のちに一九〇九年の独立音楽協会の発足となって実を結びます。
 一方、グレフユール伯爵夫人と共にベル・エポックの音楽界に君臨したポリニャック大公妃の音楽夜会も、シャブリエ(3)からストラヴィンスキーまで、発表の機会を与えられない「現代音楽」の初演の場として重要な意味をもっていました。結婚によって出世したグレフユール夫人とちがって、ポリニャック大公妃、前名セ=モンベリアール公爵夫人の場合は、自身がアメリカの大富豪の娘だったのです。ポリニャック大公は、七月革命がきっかけとなって退陣したシャルル十世の大臣の息子で、一八九三年にシンガー・ミシンの創立者の娘と結婚して巨万の富を得ました。大公自身がアマチュアの作曲家だったこともあって、コルタンベール街のサロンには、サン=サーンスやフォーレ、レイナルド・アーンなどが出入りしていました。フォーレの『五つのヴェネツィアの歌』や組曲『ペレアスとメリザンド』も、ポリニャック大公妃に献呈されています。
 サン・マルソー夫人も音楽の庇護者として有名で、一八七〇〜一九三〇年に開いていたサロンには、お気に入りのフォーレの他にも、メサジェ、ラヴェル、リカルド・ヴィニェスなどの前衛芸術家が集まりました。ラヴェルはここでコレットに出会ったといいます。また、ルーマニア出身のブランコヴァン大公妃も、パデレフスキーの友人で自身が優れたピアニストであり、フォーレやエネスコの保護者でした。詩人・小説家として知られるノアイユ伯爵夫人は、この大公妃の娘にあたります。作曲家で音楽批評も書くディレッタント、ソシーヌ伯爵のサン・ギョーム街のサロンも、音楽レセプションを催してフォーレやドビュッシー初期のピアノ曲やアーンの歌曲を演奏していました。ポトッカ伯爵夫人は、ショパンの恋人デルフィン・ポトッカの姪で、リストの弟子だったこともあり、彼女のサロンには、ショパンの時代と同じように著名な文学者や音楽家が出入りしていました。
 貴族ではないが、薔薇の花の画家ルメール夫人も、モンソー街のアトリエで、ブルジョワとしては最も盛んなサロンを開いていました。火曜日の夜会のほかに詩と音楽のマチネもあり、サン・サーンスやマスネ、フォーレやアーンがピアノの前に坐りました。彼女は仮装舞踏会を催すのが好きで、あるときフォーレの音楽をバックに、ワットーの絵画風のデコールの中で、出席者が十八世紀の衣装をつけて歌い踊る舞踏会を催しています。

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プルースト
レイナルド・アーン
ワット—『公園でのつどい』
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グレフュール伯爵夫人、モンテスキュー他
グレフュール伯爵夫人
グレフュール伯爵夫人
モンテスキュー

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4 演奏曲
ラモー(4)
クラヴサン曲集(一七二四〜二八)より
やさしい訴え
タンブラン

 ベル・エポックの音楽サロンは、ある意味で、古きよき時代への憧れ、十八世紀への退行現象でした。デュミエール子爵の祭宴は、ピアノをクラヴサン、フォーレをクープラン、貴族たちをルイ十四世におきかえさえすれば、そのまま十八世紀ロココの画家ワットーが描いた貴族の舟あそび、「艶なる宴」の世界になってしまいます。
 フォーレが生まれた一八四五年、ルイ・フィリップの治世下にあったフランスは、すでにフランス革命や七月革命の記憶から遠ざかり、アンシャン・レジームの思い出が色濃くなっていました。この傾向は、一八四八年の二月革命、一八七〇年の普仏戦争の敗北、翌七一年のパリ・コミューンの失敗を経て、より強まったように思われます。
 フランス革命も、七月革命も、二月革命も、結局はブルジョワや反動勢力の陰謀によっておしもどされてしまいましたが、火つけ役となったのは、民衆のバリケードです。一八三〇年、市民がパリ市庁舎とノートルダムを占拠して七月革命がはじまったとき、ちょうど四回目のローマ大賞に挑戦するカンタータの楽譜を書いていたベルリオーズは、街頭にとびだし、ラ・マルセイエ〜ズの大合唱に加わりました。ドラクロワも、街頭にとびだし民衆を導く自由の女神の絵を描きました。十八年後に二月革命が起こったときも、パリ全市にバリケードが築かれ、国王ルイ・フィリップは退位を決意してパリを脱出しました。しかし、まもなくルイ・ナポレオンのクーデターによって第二帝政がはじまり、抵抗委員会をつくって労働者によびかけたユゴーは、努力もむなしく国外に追放されました。
 そして一八七一年、今度こそ、と思ったパリ・コミューンでしたが、近代兵器の前にはフランス革命以来の伝統の戦術も虚しかったのです。パリ・コミュ〜ンの失敗は、バリケードの時代の終焉を意味しています。バリケードの戦いに都合のよかったパリの街の細い路地は、十九世紀後半の都市計画によって次第に姿を消しつつありました。加えて反乱を起こした国民軍の大半は失業中の職人や労働者のよせあつめで、国民軍に支給される日当めあての者も多く、ヴェルサイユ軍の巧妙な作戦にかなうはずもなかったのです。バリケードだけを武器に、自由と反動のシーソー・ゲームに敢然と立ち向かってきたパリ市民の落胆は大きく、とりわけ知識人たちの心には、絶望感と無力感がひろがりました。
 現実から目をそむけた彼らは、自己の内面、虚構の想像の世界に埋没していきます。
 「艶なる宴」の美しくも哀しい情景をくり返し歌ったヴェルレーヌ、十八世紀ヴェネツィアに思いを寄せたレニエなど、時代の精神状態ときりはなしては考えられません。
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ジャン=フィリップ・ラモール
メール夫人のアトリエ
サン=マルソー夫人のサロン

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5 演奏曲
ラモー
異名同音
さまざまな「溜まり場」

 プルーストが、モンテスキユーの祝祭の模様を新聞に寄稿したのは、モンテスキューに心酔していたからではなく、フランスのほとんどの名家と姻戚関係にある伯爵の手引によって、閉鎖的な社交界にはいりこみたかったからという説があります。実際、一八九三年にルメール夫人の夜会でモンテスキューに紹介された彼は、その後数年間に、貴族の館が建ち並ぶことで有名なセーヌ左岸の一角、フォーブール・サン・ジェルマンのすべてのサロンに出入りできるようになりましたが、作家としては、上流社会の新聞にときどきサロンの記事を書く他、ほとんど全くといってよいほど作品を発表しませんでした。
 十九世紀末のパリでは、上流階級のサロンとともに文芸サロンも栄えていました。パリ・コミューンのあと、一八七五年にパリに出てきたマラルメは、ローマ街八九番地に居を定め、毎週火曜日に友人たちを迎えます。同世代のマンデスやリラダン、ヴェルレーヌが中心でしたが、一八八四年にヴェルレーヌが『呪われた詩人たち』で紹介して以来、若い世代が集い、「彼の言葉を神託として傾聴する純粋詩のための礼拝堂」となります。プルーストの一才年長の詩人ピエール・ルイスは、一八九〇年にマラルメの自宅に招かれ、以降火曜会の常連となります。翌九一年、プルーストより二才年長のアンドレ・ジツドは、事実上の象徴派の祝宴となったジャン・モレアスの『情熱の巡礼』出版記念会でマラルメに紹介され、すぐに火曜会に招待されています。翌九二年、プルーストと同年生まれのポール・ヴァレリーも、友人のピエール・ルイスの紹介ではじめて火曜会に出席しています。永井荷風が愛する耽美派詩人アンリ・ド・レニエも火曜会の常連でした。
 こちらはピエール・ルイスが撮影したドビュッシーです。音楽家では火曜会の唯一の出席者で、一八九二年には友人を火曜会に同伴するほどマラルメと親しくなっていました。九三年には二人で『ペレアスとメリザンド』の舞台初演に接しています。火曜会は、九四年にはオディロン・ルドン、マルセル・シュウォブらを加え、ますます多彩な顔ぶれになっていきます。
 一八九〇年代に若い文人たちを集めたのは、マラルメのサロンばかりではありませんでした。一八八九年末にショッセ・ダンタン大通りに開店した独立芸術書房」には、マラルメ、ユイスマンス、死の直前のリラダンなどの長老格に加えて、レニエ、ジッド、ピエール・ルイス、クローデルなど若い世代も顔を出し、画家のフェリシアン・ロップスやルドン、ロートレックとともに、ドビュッシーに連れられたサティも日課のようにしてやってきました。この書房は若い才能に出版の機会を与えることでも知られ、ジッドは処女作から『沼地』までの全作品を「独立芸術書房」から出版していますし、ピエール・ルイスの『ビリティスの歌』、レニエの『古いロマネスクな詩』、ドビュッシーの『選ばれた乙女』や『ボードレールの五つの詩』の楽譜もここから出版されています。
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アンドレ・ジッド
ピエール・ルイス
マラルメ
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ドビュッシー
アンリ・ド・レニエ
ポール・ヴァレリー

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6 演奏曲
ドビュッシー
選ばれた乙女(一八八八)

 ごく普通の庶民だったドビュッシーは、火曜会や独立芸術書房など象徴派の詩人たちが集うサロンには出席しましたが、プルーストのような上流階級とは無縁でした。
 一八七〇年七月「普仏戦争の勃発で失業したドビュッシーの父親は、その年の暮れにパリ第一区の区役所に勤め、パリ・コミューンで国民軍に加わりました。第十三大隊の大尉としてイッシー奪回の軍にいましたが、いわゆる「血の週間」のさなかに捕らえられて投獄され、四年の懲役を宣告されます。のちに刑期は一年に短縮されましたが、この期間、貧しかったドビュッシー一家が辛酸をなめたであろうことは想像に難くありません。
 コミューンの年の十月、ドビュッシーは、モーテ夫人というピアノ教師についてピアノを習いはじめます。夫人はヴェルレーヌの義母で、ニコレ街一四番地の夫人の家には、パリ・コミューンで捕らえられることを恐れたヴェルレーヌ夫妻が居候していました。ここに、少年詩人のアルチュール・ランボーがヴェルレーヌを頼ってパリに出てきます。ドビュッシーは、フランス文学史上名高いヴェルレーヌ・ランボー事件、まさに渦中の家にピアノのけいこに通っていたのです。モーテ夫人の指導によってめきめき腕をあげたドビュッシーは、翌七二年十月にはパリ国立音楽院のピアノ科に入学しています。

少年時代のドビュッシー

 パリ・コミューンに参加して投獄された父をもつドビュッシーは、生まれながらに、育ちに似合わない貴族趣味を身につけていました。パリ音楽院で同級だったピエルネは、作曲家の少年時代をこんな風に回想しています。
 「彼はうまいもの好きであり、食いしんぼうではなかった。いいものを熱愛したが、沢山あるかどうかは大して重要なことではなかった。音楽院の帰りにプレヴォの店で私の母がおごった一杯のショコラを、彼が味わう流儀とか、あるいはボンノーの店で、仲間たちのように食べでのある菓子で満足するかわりに、ぜいたくなものをならべたガラスのケースから、かわいらしいサンドウィッチやマカロニ入りの小さなパイを、彼が選んでいる流儀とかを、私は今でもよく覚えている。この貧しい、ごくありふれた階級の出の子供は、万事に貴族的な好みをもっていた。彼は、かわいらしいちっちゃなものや、凝った繊細なものに、特別な偏愛を示した。」
 ドビュッシーの貴族趣味は、意外に早く満足させられることになります。一八七九年の夏休み、十七才のドビュッシーは、ある上流階級の夫人に雇われ、トリオのピアニストとしてロワール川の有名な城シュノンソーで夢のような数週間を過ごしました。仕事を世話したのは、ピアノの先生です。翌年は、これまたピアノの先生から、チャイコフスキーの庇護者フォン・メック夫人のヴァカンス旅行のお供をする仕事がまわってきました。ドビュッシーは三年連続でメック夫人と行動を共にし、最初の年の一八八〇年には、ヴェネツィア、フィレンツェ、ウィーンなどヨーロッパ各地をまわる豪華な旅をしています。
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ニコレ街14番地
モーテ夫人
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少年時代のドビュッシー
アルチュール・ランボー
ヴェルレーヌ
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7 演奏曲
ドビュッシー
夢(一八九〇)

 一八八四年に作曲家の登竜門であるローマ賞を受賞したドビュッシーは、二年間のローマ留学の後、パリでボヘミアン生活にはいります。カンタータ『選ばれた乙女』が初演されて好評を得たとはいえ、まだ無名の駆け出しでした。この時代のドビュッシーを物心両面で支えたのは、先輩作曲家のショーソンです。ショーソン家のサロンで夫人とピアノの連弾をしたり、リュザンシーにあるショーソンの別荘に招かれて野遊びしたりする画像が残っています。一八九三年に、貧しい屋根裏部屋からギュスターヴ・ドレ街のアパルトマンに引っ越すことができたのも、ショーソンが援助したからだといわれています。
 一八九四年は、ボヘミアン時代のドビュッシーが一番社交界に近づいた年でした。二月には、サン・マルソー夫人のサロンに招待されています。夫人の日記によれば、彼女はドビュッシーの伴奏で『選ばれた乙女』を歌い、ドビュッシーは『ペレアスとメリザンド』や『牧神の午後への前奏曲』をピアノで弾きました。ドビュッシーは、二月十七日に国民音楽協会で『叙情的散文』を初演する歌姫テレーズ・ロジェと婚約中でした。逆にいうと、婚約中だったから、夫人のようなハイ・ソサエティの家に出入りできるようになつたのかもしれません。
 三月十六日には、ショーソンに、結婚を控えて今までの借金を返したいから一五〇〇フラン貸してほしい、と頼んでいます。一フラン一〇〇〇円の時代ですから、一五〇万円……。月末、この婚約はテレーズ側からの申し出で破談になりました。以前からドビュッシーが同棲していたギャビーという女性の存在が明るみに出たのです。スキャンダルは「トウ=パリ」に流れ、ショーソンは手紙できびしくドビュッシーを叱責し、ドビュッシーの姿はサン=マルソー夫人の家から消えました。
 ドビュッシーの窮状をみかねたのは、ショーソンの義弟の画家アンリ・ルロールです。一八九四年末、『ペレアスとメリザンド』の第一稿を仕上げたドビュッシーを自宅のサロンに招いて試演会を開いています。ルロールの娘イヴォンヌに恋をしたドビュッシーは、生前未発表奏の組曲『忘れられた映像』を捧げています。このうち『サラバンド』はのちに『ピアノのために』の第二曲に組み込まれ、ルアール夫人に捧げられていますが、これはイヴォンヌの結婚後の姓です。

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ショーソン家
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イヴォンヌ・ルロール

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8 演奏曲
ドビュッシー
忘れられた映像(一八九四)より
レント
サラバンド

リリー

 上流階級の娘にふられつづけたドビュッシーは、結局、一八九九年に婦人服店に勤める貧しい娘リリーと結婚します。婚礼の日、ドビュッシーはピアノの弟子のロミリー嬢の家に行き、レッスンをして謝礼を受け取りました。新妻をロミリー家の階段の下で待たせていた新郎は、午後を植物園で過ごし、夜は双方の両親を伴って食事にでかけましたが、レッスン代は食事で消えてしまったので、全員バスにも乗れず、歩いて帰ったそうです。紆余曲折ののち、ドビュッシーはようやく一九〇二年に『ペレアスとメリザンド』上演にこぎつけました。一流作曲家の仲間入りをした彼は、作曲の弟子ラウール・バルダックの母エンマとの出会いによって、上流社会への見はてぬ夢を実現させることになります。エンマが夫と子供を捨ててドビュッシーの許に走ったのは、一九〇四年夏のことです。
 かけおち事件は、リリーの自殺未遂もあって大変なスキャンダルをまきおこしました。二人は、金持ちしか住まないパリ一六区に庭つきの一軒家を借りて、召使と料理人を置きました。子供が生まれると、イギリス人の家庭教師もつけます。しかし、エンマがあてにしていた伯父の莫大な遺産は何故か慈善団体に寄付されてしまい、ドビュッシーは生活費稼ぎのためにヨーロッパ各地をあちこち演奏旅行してまわらなければなりませんでした。バルダック夫人とドビュッシーの再婚は、また、有望な作曲家と結婚することによって歴史に名を残すというフォーレ以来のエンマのもくろみの最後の実現例でもありました。少なくとも、ボヘミアン時代のドビュッシーの友人たちは、この結婚をそんな風に受け取りました。ドビュッシーは、「上流階級」とひきかえに、多くの友人を失ったのです。

サティ

 ドビュッシーとサティは、若いころ、デカダン派の巣窟である文学酒場〈黒猫〉に出入りしていました。パリ音楽院をやめて〈黒猫〉でピアノを弾いていたサティは、一八九一年に経営者とケンカして別の文学酒場〈オーベルジュ・デュ・クルー〉に移ります。一方学生時代から〈黒猫〉に出入りしていたドビュッシーは、なぜか〈黒猫〉ではなく、〈オーベルジュ・デユ・クルー〉でサティに会って親交を結ぶのです。一九〇三年ごろ、サティは週一回ドビュッシーの家に来てピアノを弾かせてもらうのが習慣になっていました。ドビュッシーより四才年下のサティの社交生活は、十九世紀よりも二十世紀になってから光彩をはなちました。彼の「サロンの女主人」は、グレフユール伯爵夫人でもサン・マルソー夫人でもなく、よりアヴァンギャルドなシルヴィア・ビーチやヴァランティーヌ・グロスでした。一九一八年、ポリニャック大公妃は、サティに交響劇『ソクラテス』の作曲を依頼しますが、この作品の最初のリハーサルが行われたのは、シルビア・ビーチのシェイクスピア書店でした。ここは、二十世紀初頭の文学者の溜まり場で、ヴァレリーやレオン・ポール・ファルグは詩を朗読し、クローデル、ジツド、フランシス・ジャム、ミョー、コクトーの他にジェイムス・ジョイスもたびたび顔を出しました。
 一方、画家のヴァランティーヌ・グロスは、一九一四年にロラン・マニュエルの家で音楽喜劇『メデューサの罠』の試演に接してすっかりサティ・ファンになり、二人は終生の友情を結びます。サティは、ヴァランティーヌを通じてコクトーを知りました。そのコクトーが、ロシア・バレエ団のディアギレフにサティを紹介し、コクトーの台本、サティの音楽、ピカソの舞台装置という一九一七年『パラード』の歴史的な上演が実現するのです。
 五月十八日の『パラード』初演を観にいかなかったドビュッシーは二十五日のロシア・バレエ団の公演には接していますが、ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』を絶賛するばかりで『パラード』には触れていません。すでに病が重かったドビュッシーは、それから一〇カ月後の一九一八年三月二十五日に世を去ります。同じ年、コクトーは『雄鳥とアルルカン』を出版し、サティを新世代の指導者ともちあげました。サティは六人組の親玉的存在で最先端の芸術のただなかに身を置きます。一九二四年には『本日休演』の初演を迎えます。幕間にルネ・クレール監督の映画、その名もズバリ『幕間」が上演され、サティもデュシャン、マン・レイ、ピカビアらのダダイストと出演しています。やがて肝硬変が悪化して一九二五年七月一日に亡くなりました。ドビュッシーは出版社に六万六〇〇〇フラン(六六〇〇万円)の借金を残しましたが、サティは無一文でした。

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ドビュッシーとエンマ
ドビュッシーとリリー
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サティ

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9 演奏曲
サティ(5)
グノシエンヌ第一番(一八九〇)

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『パラード』

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(1)フランソワ・クープラン(一六六八〜一七三三)フランスの作曲家、クラヴサン奏者才ルガニスト。クープラン一族の中で最も有名で、大クープランと呼ばれる。父のシャルル・クープランと伯父のルイ・クープランはパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニスト。また、宮廷作曲家として室内楽曲や王室礼拝用の宗教曲を作曲した。一七十三年、〈クラヴサン曲集第一巻〉が、一七三〇年には〈クラヴサン曲集第四巻〉まで出版され、合計二三〇曲以上がおさめられている。

(2)セザール・フランク(一八二二ー一八九〇)ベルギーに生まれ、主にフランスで活躍したが、国籍の問題で学校への入学を拒否された経験を持つ。三十六歳でサント・クロティルド教会のオルガニストに任命されたことが転機となって、以後自分の創作活動を充実させていく。宗教曲やオルガン曲では見事な対位法を用いた典礼用の作品を多く残し、器楽曲、室内楽曲でも、古典的形式とフランク特有の情緒的フレーズが融合された優れた成果を残す。

(3)エマニュエル・シャブリエ(一八四一〜一八九四)フランス音楽のエスプリと言えばシャブリエの名前が挙がるほど、ドビュッシーやラヴェルに先駆けて、近代フランス音楽の興隆に大きく貢献した。子供の頃から音楽の才能を示すものの、父親の意向で法律を学ぶ。一八六二年に内務省に入り、一八八〇年まで勤め、以後は音楽に専念する。喜歌劇《星》(一八七七)や管弦楽曲《スペイン》(一八八三)など大規模な傑作も残しているが、シャブリエの音楽に親しむには、ピアノ曲が最適である。

(4)ジャン・フィリップ・ラモー(一六八三ー一七六四)フランスの作曲家、音楽理論家。十八世紀前半の盛期バロックを代表する音楽家の一人で、数多くの優れた劇音楽を書いたこと、理論書によって近代和声理論の基礎を確立したことで知られる。ラモーは音楽家としての経歴を教会オルガニストとしてスタートし、生涯において鍵盤楽器はつねにその中心にあった。

(5)エリック・サティ(一八六六〜一九二五)フランスの作曲家。全作品のうち半分以上をピアノ曲が占めどれも純粋な美しさを持っている。十代のときパリ音楽院でピアノや作曲を学んだが、音楽界特有の保守的な雰囲気になじまず、その後はキャバレーや芸術家仲間との関わりの中で作曲活動をした。奔放で、権威的な存在を風刺する標題は、伝統的作法にとらわれない自身の自由な発想が最大限発揮されている。

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