ドビュッシー生誕150周年 革新の作曲家 先入観覆す
~形式超え、多方面に影響~
今年生誕150年のフランスの作曲家クロード・ドビュッシー。日本でも記念コンサートや企画展が開かれ、斬新な音楽を捉え直す試みが相次ぐ。印象派やジャポニズムの反映といった見方にとどまらず、美を音にするための手法を革新し、ジャンルを超えて20世紀音楽に影響を与えた作曲家の実像に迫ろうとしている。26日、東京・紀尾井ホールでベトナム・ハノイ出身のピアニスト、ダン・タイ・ソン氏の演奏会が開かれた。演目は全曲ドビュッシー。明晰かつ繊細な演奏技術で奔放な楽想を紡いだ。今年は日本各地でドビュッシーの曲が演奏されているほか、ピアニストの小川典子氏が英マンチェスターでのドビュッシー音楽祭に協力。印象派という”虚像”をはぎとる評伝「ドビュッシーをめぐる変奏」 (アンドレ・シェフネル著、山内里佳訳)の邦訳も刊行された。ピアニストでエッセイストの青柳いづみこ氏は「日本でドビュッシーは今も印象派の作曲家として誤解されている。モネの絵のような色彩を意識して演奏されることが多い」と話す。だが象徴主義やデカダン(退廃)派の詩人らと接したドビュッシーはむしろ、そこから影響を受けているという。
猥雑さに焦点
青柳氏が9月21、28日に東京・浜離宮朝日ホールで開く演奏会では、「デカダンの巣窟」といわれたパリ・モンマルトルのキャバレー「黒猫」に焦点を当てる。ドビュッシーと詩人らの交流から生まれた様々な歌曲などを取り上げる。19世紀末の猥雑な活気の中に生きたドビュッシー像を浮かび上がらせる試みだ。日本では「牧神の午後への前奏曲」など管弦楽曲も盛んに演奏されるが、音楽評論家の片山杜秀氏は「フィナーレで盛り上げるような音楽は書かなかった」と説く。愛をテーマにしてもささやくような自然な感情を大事にしたため、「旋律がない」と誤って聴かれる。ドビュッシーはワーグナーのオペラに心酔し、1888年にゆかりの独バイロイト音楽祭を訪ねた。だが次第にワーグナーの芸術と距離を置くようになる。音楽学者の松橋麻利氏は「彼はワーグナーについて、演劇的な要素を全部詰め込もうとし、音楽を息苦しくさせていると考えた」と話す。明治以降、ドイツ音楽に範を求めた日本では、ドビュッシーについては印象派の画家になぞらえるような解釈が広がっただけでなく、浮世絵との関係も強調されてきた。交響詩「海」の場合、葛飾北斎の浮世絵もヒントの一つといわれたが、すべてに依存してはいない。「北斎の絵のうち富士山などは省き、海だけを楽譜の表紙にしたのがその表れ」(松橋氏)
20世紀の扉開く
読売日本交響楽団の常任指揮者シルヴァン・カンブルラン氏はドビュッシーを「西洋音楽の伝統のソナタ形式や調性から脱皮し、20世紀の扉を開けた」と評する。「彼がいなければ現代音楽のメシアンやブーレーズも、ジャズのセロニアス・モンクやビル・エヴァンスもいない」。ボサノバを代表するブラジルの作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンも和声面で影響を受けたという。西洋音楽の常識を覆した革新性は武満徹や坂本龍一氏ら日本の作曲家をも引き付けてきた。ピアニストの藤井一興氏は庭園を例に「左右対称が多いフランスの庭園と違って日本は非対称。形式という枠組みを超え、全く新しい境地を切り開いたドビュッシーは日本人の感覚に通じる」と説く。西洋音楽やジャンルにとらわれない自由な楽想は、同じくジャワ音楽に引かれ、雅楽を取り入れ、美術家や詩人と交流した武満と共通する。没後100年の2018年に向けてさらに多面的な聴き方が広がりそうだ。