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青柳いづみこのメルド日記



2007年11月5日/大田黒元雄のピアノ

 11月4日、秋晴れのすがすがしい日に、いにしえの音楽評論家、大田黒元雄(1893〜1979)が所蔵していた1900年製のスタンウェイを弾く機会に恵まれた。
  タイトルは「大田黒元雄の足跡を追って」。大田黒が大正4年から6年(1915〜17)まで大森(現代の大田区山王)の自宅を開放して開いていたサロンコンサートについて紹介し、とりあげられた曲目からドビュッシーを中心に演奏するという企画だ。
  サロンのメンバーには、のちの音楽評論家野村光一、ラジオ番組「音楽の泉」で知られる堀内敬三、永井荷風が台本を書いたオペラ『葛飾情話』の作者菅原明朗がおり、プログラムの装丁は、当時大森在住の版画家長谷川潔が担当した。
  大田黒は1933年(昭和8年)、40歳の年に父親から杉並区荻窪の2千7百坪に及ぶ広大な敷地を買ってもらい、移り住んだ。この敷地は大田黒の死後、遺族から杉並区に譲渡され、現在は大田黒公園として区民に親しまれている。建物としては日本庭園に面した数寄屋造りの茶室、土間つきの休憩所、木造の洋館などがある。杉並区はこの洋館を大田黒記念館となづけ、15坪の洋間をレコードコンサートの会場などに使用している。
  当日はその洋間に50席のパイプ椅子を並べ、痛みが激しいので年に1度しか公開演奏できないスタンウェイを入念に調律していただいて演奏した。

  杉並区民であれば大田黒公園のことはよく知っているが、かんじんの大田黒元雄については知る人も少ないのではないだろうか? 
  私には個人的な思い出がある。
  祖父の青柳瑞穂は上野の図書館でフランス語の講師をつとめていたことがあり、教え子の中に野村光一夫人がいらした。野村光一は長く日本ショパン協会の会長をつとめ、音楽家の登竜門であるNHK・毎日新聞主宰の日本音楽コンクールの創設にかか わり、毎日新聞で長く音楽批評を書くなど、1988年に93歳で亡くなるまで楽壇の重鎮として君臨した人物だ。
  祖父と野村光一は奥様を通して親しくなり、慶応義塾の応援歌「丘の上」(早慶戦で慶応が勝ったときだけ歌う。今年は斉藤裕樹君のおかげで歌いそこねたけれど)の作詞を依頼されたときも、野村光一の紹介で菅原明朗に作曲を依頼している。
  まぁ、昔の話というのはこんな風にずるずるつづくのだが、私がピアノを習うことになったとき、祖父が野村にどんな先生につけたらいいか相談したところ、これからはヨーローッパで学んだピアニストの時代になる、と言われて安川加壽子先生に師事することになる。それからというもの、毎年正月2日には、鎌倉の野村光一邸を訪問するならわしになっていた。
  私がピアノをはじめた1960年代、野村光一は楽壇の重鎮として君臨していたが、大田黒元雄はまだ存命だったにもかかわらず、すでに伝説中の人物になっていた。今回資料を調べて、野村と大田黒がわずか2歳違いだったことを知ってびっくりしたほどだ。
  私はよく野村から、大田黒さんというのはちょっと変わった人で、鬱蒼たる森の奥のものすごい豪邸に住んでいる・・・門をはいってから玄関に行きつくまでに5分ぐらいかかる。でも、訪ねて行っても居留守を使われることが多い・・・というような話をきかされていたものだ。
  それから芸大の大学院に進んで修士課程で論文を書くことになったとき、図書館で大田黒の『ドビュッシー』(第一書房)という伝記を読んだ。デュラン社のドビュッシーの楽譜を模した表紙の簡素で美しい本で、情報じたいはもう古くなっていたのだが、日本で最初にドビュッシーを紹介した本ということもあって宝物のように読んだことをおぼえている。

  大田黒元雄は1893年、実業家の一人息子として東京に生まれた。父は東芝を業界トップの企業に育成したり、九州電力の創設にかかわったり、実業家として一代を築いた人物である。元雄は身体の弱かった母の転地療養先で育てられた。
  中学を卒業後、高等学校には進まず東京音楽学校の教師ペッツォルトについてピアノを習う。1912年から14年までロンドン大学で経済を学び、数多くの音楽会やオペラに通い、見識を深めるが、夏休みで一時帰国している間に第1次世界大戦が勃発してそのまま大森(現在の大田区山王)に滞在。銀座の松本楽器(のちの山野楽器)から作曲家の評伝を依頼され、ロンドンで買い求めた楽書や楽譜をもとに『バッハからシェーンベルヒ』という本を執筆する。このとき大田黒はまだ22歳だった。
  大田黒はこの書について、音楽評論家や研究者が必ず参考にするグローブ音楽辞典など持っていなかったし、丸善に行っても音楽書など置いていなかった時代で、ロンドンであまり紹介されていなかったラヴェルについては手薄になったと謙遜している。しかし、当時の日本はドイツ音楽一辺倒で、ムソルグスキー(1839〜1881)はじめロシア5人組の名前すら誰も知らなかったのだから、近代音楽並びにその作曲家を紹介したこの書は画期的だった。
  1915年といったらドビュッシーはまだ生きていて最後の創作の夏を過ごし、ピアノのための『12の練習曲』など傑作を書いた年である。シェーンベルクは41歳、完全に無調で書かれた『月に憑かれたピエロ』を発表してまだ3年。彼の代名詞になる12音技法への過渡期にあたる時期から、とんでもなく先もの買いだ。戦後平凡社音楽辞典の編集・執筆に加わった二見考平は「日本の楽壇に処女地を開拓するものだ」と称賛している。
  タイトルひとつとっても大田黒のセンスがうかがわれる。バッハもシェーンベルクもモティーフを隙間なく組み合わせた緊密な寄せ木細工のような作風という意味で共通点がある。そういえば、大田黒の所有していたピアノも寄せ木細工づくりだ。

  さて、この書が刊行されたときのショックを野村光一はこんな風に語っている。
  「表題のバッハは誰でも知っているが、シェーンベルヒなる者は嘗て耳にしたことがない。バッハと同時代の音楽家なのだろうか?(シェーンベルクは1874年生れです)。ちっともわからない。もしこれが後者に属するのなら、この著者は最近の西洋楽壇の事情に余程精通している芸術家かあるいは学者に相違ない」
  ところで、それからすぐに野村光一はその「大田黒氏」にでくわすのである。
  銀座の山野楽器(当時の松本楽器)にピアノを買いに行った野村光一(当時20歳)の前に、中折れ帽を斜めにかぶり、釣り鐘マントを着て象牙のステッキをついたハイカラな青年紳士が姿をあらわす。その紳士は店頭に飾ってあった唯一のスタンウェイのグランドに歩み寄るや、次から次と暗譜でショパンはじめさまざまな楽曲を弾きはじめたので、野村は度肝を抜かれてしまう。お店の人の紹介で、その紳士が「大田黒氏」だったことを知り、やがて大森の邸宅に遊びに行くことになる。
  6畳間にアップライトのピアノが置かれ、その上にはおびただしい楽譜が積まれていたが、その表紙のカラフルなことに驚いたと野村は回想している。そこで野村ははじめてドビュッシーやラヴェルらのフランス楽派、スクリャービンやムソルグスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーなどのロシア楽派を知ることになる。重ねて言うが、1915年当時、ストラヴィンスキーは『春の祭典』を発表してパリ楽壇にセンセーションを呼び起こしてまだ2年しかたっていないのである。
  大森の大田黒邸は野村光一はじめ若い音楽青年の溜まり場になった。堀内敬三とその義兄にあたる二見考平、野村の中学の同級生だった菅原明朗。
  のちにラジオ番組「音楽の泉」の解説者として有名になった堀内敬三は18歳、府立中学を卒業したばかりでまだ学生服を着ていたという。のちの作曲家菅原もまだ川端龍子(やはり大森在住)の画学校に通い、藤島武二に師事する画学生だった。野村も慶応の文科の学生。二見は帝大の文科を卒業して中学のリーダーの先生をしていた。

  メンバーにはそれぞれ特異な分野があり、堀内はオペラや歌曲、菅原はオーケストラに詳しく、のちの音楽学者二見は広範囲の音楽に精通していたし、のちのショパン協会長野村光一はピアノ曲に通じていた。
  戦争が長びいて日本に滞在しなければならなくなった大田黒は、母屋の裏に二階建ての洋館を増築した。階下の20畳ばかりの書斎が、音楽青年たちのたまり場となったのである。野村光一は、「我々は若気の至りから海外の新知識を唯だ紙の上で紹介していても詰まらぬ。事音楽に関する以上は、どうせそれを緒とにした実践運動にまで及ぼさなければ趣旨が徹底せぬ。それには拙いながら我々自身の手でそれを敢行するにしくはない、という無謀な計画をめぐらすに至った」と語っている。そこで、相当の広さを持っている大田黒邸の書斎でまず試演会をやろうということになった。
  こうして1915年12月18日、「ピアノの夕」第1回が催されることになる。
  最初のコンサートのプログラムは最後に掲げる通りである。
  堀内はドビュッシーの歌曲「ロマンス」を弾き語りし、野村光一もドビュッシー『子供の領分』から「小さな羊飼い」弾いている。野村光一は鶴のような長身で顔がものすごく長くてあごがしゃくれていた。そんな野村が長い腕と長い指で「小さな羊飼い」を弾いている様子が目に浮かぶようだ。
  この会の曲目は楽壇的にも注目され、上野の東京音楽学校の先生で岩波から『ワーグナー』を上梓したばかりの田村寛貞なども来たものだから、ピアノの腕前はチェルニー30番もおぼつかない素人軍団はすっかりあがってしまい、何をどう弾いたのかおぼえていなかったと野村は書いている。そのあとは大田黒がスクリャービンやシベリウスを演奏した。なかでシンディング(1856〜1941)はこんにち演奏されないが、ノルウェーの作曲家でグリーグ以来最大の国民的作曲家とうたわれた人物である。
  そのあとはメドレーでドビュッシーの小品『夢』や『マズルカ』が演奏された。
  大田黒のプログラムの中では『牧神の午後への前奏曲』が目をひく。本来はオーケストラ曲だが、大田黒は1914年2月、ロンドンでレオナード・ボリックというピアニストがこの作品を自分で編曲して弾くのをきいているのだ。当時の日記には、編曲が巧みで、ボリックが弾いているのをきいていると、まるで管弦楽のように聞こえる、譜面は近々フロモンから出版されるらしいと書かれている。おそらく大田黒はこの譜面を取り寄せて弾いたのだろう。

  「ピアノの夕」は毎月一回の割合で催された。初回だけは堀内や野村も演奏したが、あとは大田黒の独演会になった。「新家庭」という雑誌からはカメラつきの取材もきたという。一度などは舞踊家の石井漠が来て、大田黒の弾く山田耕作の作品で踊ったが、部屋が狭いのでピアノにぶつかって大変だったというエピソードも残っている。
  メンバーの中ではいちばんピアノがうまい大田黒でも、楽譜を見てすぐに要領よく弾く能力には長けていたが、我流で練習するようになって以来技術がかなり崩れていたので、上野の音楽学校の先生の目にはこっけいに映ったろうと野村は記している。
  大田黒は1916年12月9日に帝大YMCAで初のリサイタル「スクリャービンとドビュッシーの夕べ」を催している。野村が電気係、堀内は譜めくを担当したが、スイッチは漏電するので電気係は命がけ、堀内はあがってしまって譜面をめくる手がふるえっぱなし。楽屋では演奏中にスチーム管から水が奔流して大恐慌をきたしたという。
  「ピアノの夕」は素人の発表会に終わったが、音楽青年たちの集いはひとつの雑誌に発展した。演奏会のあとの茶話会で、座談の中から自然発生的に音楽の雑誌を出そうという声が起こったのである。1916年3月、20数人の同人が集い、1月50銭ずつ出資して『音楽と文学』という雑誌が刊行されることになる。日本で最初の音楽評論雑誌で印刷部数5百部はたちまち売り切れたという。
  この雑誌は3年6ヶ月つづいた。その間に39冊の雑誌が刊行されたが、何らかの理由で1年に1回ぐらいは休刊していたそうである。最初は同人たちが協力して書き、野村はショパン論を執筆、ロシア音楽研究の先駆となった中根宏は12回にわたって「ロシア歌劇の研究」を連載、日本初の創作オペラ『羽衣』の台本作者小林愛雄もオペラ台本を発表し、二見はアミエルの『日記』を訳出するなどヴァラエティに富んだ内容となったが、堀内はアメリカの工科大学に留学するし、二見は外務省にはいって海外に赴任、中根もロシアに留学するなど幹部がだんだん消滅し、残った同人にだんだん負担がかかるようになった。大田黒は稀にみる速筆で、毎日20〜30枚の原稿は苦もなく書けたというが、他のメンバーは音楽の専門家も少なく、材料集めも大変だったことだろう。
  最後は大田黒の独演会となって、一冊全部をプロコフィエフに捧げて終刊となった。  野村光一は雑誌が線香花火に終わった原因を、しょせん大田黒を中心とした私的な交友の上に成り立つ集団で、素人の音楽ファンにすぎなかった、メンバーの誰も音楽学校出身者ではなく、評論家に必要な専門的な訓練も受けていなかったと総括している。

  大田黒は『バッハよりシェーンベルヒ』出版20周年記念の座談会で『音楽と文学』時代に触れて「あの時分は音楽が好きだったよ」と語っている。「その時分はまだ知らないものが沢山あったから知らないものにぶつかるというところに興味が沢山あった」
  大田黒元雄のまわりには、音楽青年にとどまらず、広く芸術にたずさわる人々が集まってきた。その中には祖父の翻訳の師匠だった堀口大学、堀口の詩集や訳書を刊行した第一書房の長谷川巳之吉、堀口の詩集の装丁を多く手がけた版画家長谷川潔などもいた。
  大田黒が大正年間に住んでいた大森、現在の大田区山王は高台の別荘地して開けつつあり、多くの作家や画家が移り住んだ地だったようである。1915年、ちょうど「ピアノの夕」が始まった年には大森を通る東京−横浜間の電車が開通し、15−20分おきに走っていたので交通の便もよかったという。長谷川潔は1918年に渡仏し、以降日本に帰ることはなかったのだが、1913年から渡仏まで大田黒邸と同じ大森山王の洋館に住んでいた。そして、「ピアノの夕」のプログラムの表紙を毎回美しい版画で飾ったのである。第1回の記念すべき表紙は、ドビュッシーに想を得た『牧神の午後』だった。
  私が芸大の図書館で発見した大田黒元雄の『ドビュッシー』は名編集者長谷川巳之吉の主宰する第一書房から刊行されている。1915年、堀口大学の『月下の一群』を皮切りに重要な作品をどんどん出し、有望な新人を発掘し庇護するので有名な出版社だった。第一書房から多くの翻訳書や書き下ろし評伝、評論集を出版している大田黒は、この出版社の重要な書き手であったばかりか、重要なスポンサーのひとりだったのである。
  大田黒は、1921年の『第三音楽日記抄』までの著作を音楽と文学社という名目で自費出版し、発売元だけを岩波書店、東京堂書店などに引き受けてもらっていたが、1925年の『洋楽夜話』からは、旧作を改装して第一書房で出している。
  大田黒は、自分の本を出してもらうのとひきかえに六千円の出資をもちかけたという。第一書房の『近代劇集』が大赤字を出したときは、ポンと7万円を出資している。
これは今日では億単位の金にあたるという。
  第一書房は資金ぐりがきびしいのに革張り金字の豪華装丁本を出すので今も語り種になっている出版社だが、その裏には大田黒の存在が大きかったものと思われる。「新しすぎてまだ世にいれられない大田黒の仕事と金が一緒に飛び込んできたのだから、巳之吉にとっては理想のスポンサーであったというべきだろう」と長谷川郁夫は『美酒と革嚢』(河で書房新社)で書いている。

  大田黒は第一書房が刊行し、詩人の堀口大学が主宰する芸術評論誌『パンテオン』(1928〜29)『オルフェオン』(1929〜30)にもたびたび寄稿していたし、1931年創刊の『セルパン』では創刊時からかかわって音楽時評やエッセイ、探偵小説の翻訳まで寄稿している。
  コクトーの評論集『雄鶏とアルルカン』(1928)、ロマン・ロラン『今日の音楽家』(1930)、ドビュッシーの評論集『ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント』(1931)、『ストラヴィンスキー自伝』(1936)、『ワンガルトナー自伝』(1940)など重要な翻訳書が次々と刊行された。ドビュッシー、ワー グナーなどの評伝も執筆しているし、『音楽万華鏡』(1933)や『音楽生活二十年』(1935)など肩の凝らない随筆集も多く出版している。
  第一書房は1935年、パール・バック『大地』がベストセラーになったことでようやく経営状態が好転するが、やがて戦争の暗雲が長谷川を覆いはじめる。1938年からは戦時体制版がはじまり、1939年の『セルパン』8月号にはヒットラー『我が闘争』が掲載される。翌40年に刊行された同書は合計36万9千部を売り上げ、大田黒家への借金も返すことができたというが、反骨の出版人長谷川巳之吉の変節には首をかしげざるをえない。
  1944年、出版社の統廃合が行われ、長谷川は第一書房を廃業してすべての権利を講談社にゆずり、神奈川県の鵠沼に隠遁してしまう。敗戦を迎え、第一書房復刊の動きもあったが、二度と出版事業を行うことはしなかった。1946年には時局の流れにのった出版物を刊行したことが原因で公職追放となる。これは51年に解除されるが、1973年亡くなるまでの30年間、公的な活動からいっさい身を引いた暮らしをつづけた。
  第一書房の廃業は、大田黒元雄にも大きな影響を及ぼす。長谷川郁夫は「現在では、松岡譲、土田杏村、大田黒元雄の本を入手することは難しい。いや忘れられた存在だといえる。第一書房がなくなったからかれらの著作が読めないのだ、そう書くのはこじつけだろうか」と書いている。
  第一書房から刊行された大田黒の本は1943年のフラワー『シューベルト伝』の翻訳が最後となり、1946年以降は多くの本が音楽之友社から出されたものの、旧版を改訂したものがほとんどだった。大田黒元雄はロンドン大学に遊学しただけで学歴がなく、どこの教育機関にも奉職することなく、在野のディレッタントとして生を終えた。この在野性こそ長谷川巳之吉が推奨するところだっだか、いざ後ろ楯となった長谷川が出版界から身をひいてみると、この在野性が世渡りには禍したかもしれな
い。
  1946年には堀内敬三とともにラジオ番組「話の泉」のレギュラー回答者となる。しかし、堀口がひきつつき「音楽の泉」の初代解説者に起用され、豊富な知識と軽妙な語り口で人気を集めたの対して、大田黒の出番はなかった。思うに、鋭い批評精神をそなえた大田黒はあまり一般受けしなかったのではないだろうか。
  1958年にはエッセイ集『おしゃれ紳士録』、1970年には喜寿記念として『はいから紳士譚』が刊行される。79年に86歳で死去。日本ではじめてドビュッシーやストラヴィンスキーやシェーンベルクを紹介した最前衛の音楽評論家は、戦前は新しすぎてメジャーになれず、戦後は単なる「はいから紳士」として扱われたわけだ。

  今回、杉並区からコンサートを依頼されたときは「大田黒元雄の足跡を追って」というタイトルで出した。ところが、「足跡」を調べようと思って図書館に行ってみたら、大田黒元雄の書いた本はすべて貸し出し禁止、大田黒元雄について書かれた本はただの一冊もないことが判明し、愕然とした(今回はここが「メルド!」です)。
  かろうじて、2002年に日本近代音楽館が主催した奏楽堂特別展「大田黒元雄とその仲間たち 雑誌『音楽と文学』」のパンフレットが杉並区の公園課に所蔵されており、その内容をもとに大田黒の回想録や評論集の内容を加えて、当日のトークの原稿を作成した。いきおい、1915年の、大田黒がもっとも輝いていた時代のサロン・コンサートの話題に限られることになったが、1時間半という時間内だからこれはこれでよかったと思う。
  ところで、かんじんの大田黒のピアノは? 十年前に修復されたとき、一度コンサートで弾かせていただいたことがあるのだが、とにかく音色がすばらしい。1900年製のハンブルク・スタンウェンということだが、私たちが知っているハンブルクの「渋い」音色とは明らかに違う、むしろニューヨーク・スタンウェイの晴れやかで華やかな音色に近い。とくに音階を弾くときなど、ひとりでに響きが連なっていく快感がある。
  今回も、とくにドビュッシーでは豊かな響きと何とも言えない香りのある音色を楽しんだ。しかし、今回は以前(2001年11月4日  http://ondine-i.net/concert/2001/o-taguro.html)に比べると状態は明らかに悪化している。中間部は以前と変わりないのびやかな音がしていたが、低音部が響きのない、こもったような音になり、高音部も一部鳴りの悪いところがある。調律師さんのお話では、年に一度の公開演奏すら楽器には負担で、再修復が必要になり、残念ながら今回が弾きおさめということである。
  しかし、大田黒元雄の業績まで語りおさめにならないように、祈るばかりである。
  今回、大田黒の著作としてはネットで手に入れた『音楽生活20年』、知人から譲っていただいた『デビュッシー以後 音楽評論集』(1920)、公演後に大田黒元雄の遠縁にあたる方に貸していただいた『洋楽夜話』(1947)だけだったが、それらを読んで思ったのは、大田黒はきわめて客観的な視点をもち、大局的見地からものを見ることのできる、先見の明も予言能力もそなえたすぐれた評論家だったということだ。
  1914年にロンドンで見聞した演奏会のコメント、1925年に書かれた「聴衆人名簿」(クラシックの聴衆を戯画化した文章)などの辛辣さは、ハイネの『ルテーチア』に共通するものがある。逆に、この辛辣さや鋭い美意識が、音楽評論家として長く活躍することを妨げたのかもしれないと思ったりもする。財力があってとくに働く必要がなかったことも、戦後の長い沈黙につながったのではないだろうか。

  1934年10月、往年の名ピアニスト、原智恵子のリサイタルに接し、フランク『前奏曲、コラールとフーガ』、シューマン『謝肉祭』を聴いた大田黒は、雑誌『セルパン』の時評で次のように書いている。
  「この晩会場に持って行くために私は久しぶりでフランクやシューマンの楽譜を戸棚の中から引っ張り出した。ところがふと表紙に記された日付をみると、それらはいずれも1914年の夏にロンドンで買ったものなのである。その時分にはまだ生れてさえいなかった智恵子さんがこれらの曲を堂々と弾くのを聴きながら、自分の指の方は20年前と同様にすこしもいうことをきかないのを思いあわせて私は微笑を禁じかねた」
  それでも私は、大田黒元雄のピアノを弾いて、大田黒はきっとよい弾き手だったにちがいないと思う。というのは、ピアノというのは弾き手とともに育つからである。タッチの乱暴な弾き手に育てられたピアノは厭な音を出すようになるが、趣味のよい感性の豊かな弾き手に育てられたピアノは性格もよくなる。
  大田黒元雄は亡くなったが、このピアノの音色は、音楽・芸術をこよなく愛した大田黒の希有な魂を今もなおやどしているといえよう。

              ♪ 附属資料 ♪

  大森山王( 現大田区) の大田黒元雄邸における「ピアノの夕」(1915〜17)
  出席者:堀内敬三、菅原明朗、野村光一、二見考平、田村寛貞など約20名

 
「ドビュッシーの夕」第1回 (1915年12月18日)
   ピアノ独奏
1. グリーグ 春に寄す 堀内敬三
2. ドビュッシー 小さな羊飼い 野村光一
3. イリンスキー 子守唄 野村光一
  歌曲
4. フォーレ ゆりかご 堀内敬三
5. ドビュッシー ロマンス 堀内敬三
  ピアノ独奏(以下の演奏はすべて大田黒元雄)
6. シンディング 春の囁き
7. スクリャービン 前奏曲
Op.11-15 レント/ Op.11-16 ミステリオーゾ
8. シベリウス ワルツ
9. ドビュッシー ワルツ
10. ドビュッシー マズルカ
11. ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲(ピアノ・ソロ版)
12. ドビュッシー 『版画』より「雨の庭」
13. ドビュッシー 亜麻色の髪の乙女
14. ドビュッシー 沈める寺


「ピアノの夕 ロシア音楽プログラム」( 1916年1 月29日)
1. ボロディン 小組曲  a)夢  b)マズルカ c)夜想曲
2. キュイ 子守唄
3. リャードフ  牧歌的前奏曲
4. パチュルスキ 妖精物語 op12-5
5. イリンスキー 子守唄
6. グリヤー エスキース op47-6
7. スクリャービン 前奏曲
8. レビコフ 悪魔の楽しみ (組曲『夢』より第2 番)
9. ラフマニノフ 前奏曲 op3-2


「ピアノの夕 印象派」(1916 年6月24日)

ピアノ独奏・大田黒元雄
1. . ドビュッシー アラベスク第1番
『小組曲』より「小舟にて」
マズルカ
『ベルガマスク組曲』より「月の光」
2. フローラン・シュミット 『夜』より「エグローグ」/「波の上で」
3. レーヌ -バトン 『ブルターニュにて』より「聖ナゼルの大噴水の上の夏の黄昏」
4. シリル・スコット 『ポエム』より「鐘」
『エジプト』より「エジプトの舟歌」

5.

 

ドビュッシー 『子供の領分』より「ゴリウォーグのケークウォーク」
カノープ
牧神の午後への前奏曲( ピアノ・ソロ版)
 

MELDE日記・目次
2007年9月20日/ビーイングの仕事
2007年8月19日/越境するということ
2007年4月9日/吉田秀和さんの文化勲章を祝う会
2007年2月9日/カザフスタンのコンクール ( II )
2007年1月20日/カザフスタンのコンクール ( I )
2006年9月12日/10冊めの著作が出版されます!
2006年6月20日/美術とのコラボレーション
2006年1月5日/750ユーロの時計
2005年10月25日〜11月2日/セザンヌの足跡を追って──南仏旅行記
2005年9月30日/『ぴあ・ぴあ』ただいま7刷中
2005年8月28日/”気”の出るCD?
2005年7月6日/ラジオ深夜便
2005年6月23日/ぴあ・ぴあ
2005年5月30日/第7回別府アルゲリッチ音楽祭
2005年4月10日/朝日新聞の書評委員
2005年3月27日/ジャス・クラブ初体験
2005年3月20日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 2)
2005年2月26日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 1)
2005年1月5日/吉田秀和さんの留守電
2004年12月20日/音楽は疲労回復に役立つ!
2004年11月22日/有名にならない権利:クートラスとアルカン
2004年10月23日/14年越しのエッセイ集
2004年10月5日/プレイエルとベヒシュタイン
2004年8月25日/アテネ五輪 アナウンサーと解説者のビミョーな関係
2004年年7月4日/松田聖子体験
2004年6月1日/「メロン三姉妹」と美智子さま>
2004年4月16日/アンリ・バルダ追っかけ記
2004年3月10日/小さな大聴衆
2004年1月20日/大変なんです!!
2003年12月12日/テレビに出てみました
2003年9月13日・14日・15日・16日・17日/方向音痴のシチリア旅行 その II
2003年9月10日・11日・12日/方向音痴のシチリア旅行 その I
2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
2003年8月17日/東京湾大花火大会
2003年7月28日/世界水泳2003バルセロナ
2003年7月11日/新阿佐ヶ谷会・奥多摩編
2003年5月31日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[III]
2003年5月28日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[II]
2003年5月22日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[I]
2003年5月3日/無駄に明るい五月晴れ
2003年4月5日/スタンウェイかベーゼンか、それが問題だ。
2003年2月12日/指輪
2003年1月13日/肩書き
・2002年12月23日/ 年の瀬のてんてこまい
・2002年12月9日/批評とメモ
・2002年11月6日/アンリ・バルダのリサイタル
・2002年10月21日/なかなか根づかないクラシック音楽
・2002年9月26日/青山のブティック初体験
・2002年9月3日/鹿鳴館時代のピアノ
・2002年7月19日/竹島悠紀子さんのこと。
・2002年6月13日/ 生・赤川次郎を見た!
・2002年5月6日/海辺の宿
・2002年3月28日/新人演奏会
・2002年3月1日/イタリア旅行
・2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち
・2002年1月8日/新・阿佐ヶ谷会
・2001年11月18日/ステージ衣装
・2001年10月26日/女の水、男の水
・2001年9月18日/新著を手にして
・2001年8月/ホームページ立ち上げに向けて


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