2007年9月20日/ビーイングの仕事
9月6日、NHKラジオ深夜便「こころの時代」の収録をした。番組は2日にわたり、1回45分ずつ。収録は30分の打ち合わせのあと、午後3時から5時半まで。以前に放送された「ないとエッセイ」と違ってインタビュー番組だから、パーソナリティ(元NHKアナウンサーの鈴木健次さん。ちなみに、例のミソラ発言の方とは別の方だ)の質問にお答えする形。事前に粗筋メモをつくってその順序に従って質問していただくわけだが、思わぬ方向に話が発展してしまったり、打ち合わせ通りにはなかなか進まない。
実際にどんなことを話ししたかはまだ放送を聞いていないので確かめるすべもないが、最近の活動や心境(何しろ、番組が「こころの時代」なので)をご説明するために作成した「ビーイングの仕事」をご紹介しておこう。
1)『図書』の連載
古今東西のミステリーや純文学でクラシックやジャズが登場するものを選んで、それについて語るとみせかけて、実際には演奏家の内実を明かすような文章を連載しています。
たとえばクリスチャン・ガイイというフランスの現代作家の『ある夜、クラブで』というのは、ビル・エヴァンスをモデルにしたジャズ小説です。主人公は10年前まではさかんに活躍していたが、アルコール−ドラッグ−ライヴ・・・という生活に疲れ果てて転職し、今は実直な仕事についています。ある夜、出張で海辺の町にきて、列車を待つまでの間、とあるクラブにはいります。すると、そこに出演していた若いジャズ・ピアニストが昔の自分のスタイルで演奏しているんです。それを見た主人公は、ふたつの異なった感情にせめたてられます。ひとつは、自分はもう終わった人間だ、若いアーティストはこんなに見事に弾いている。もう自分の出番はないんだという気持ち。もうひとつは、自分もまだまだ捨てたもんじゃない、こんな若いのにはまけないし、経験も積んでいる。もしかして今弾いたら、10年前の自分を模倣しているこんな若造などには到達できない境地に至っているかもしれない。
結局彼は物理的にピアノが弾きたくてたまらなくなり、休憩の合間に吸いよせられるようにピアノの前に行って即興演奏をはじめてしまいます。その、10年ぶりに鍵盤にふれるところの描写がすばらしいんです。
私も、文筆家としてのほうが売れていますから、実は始終ピアノをやめている期間限定ピアニストです。しばらく弾かないでいると指はこわばるし、タッチは思うようにいかないし、腕の筋肉も落ちてしまっているから戻すのが大変です。また、若い世代はどんどん進歩しているし、私がモノを書いている間もさかんに活動しているのですから、やはり引け目を感じたりします。何度文筆に限定しようと思ったかわかりません。それでも、どうしても弾きたくなる瞬間があるんですね。言葉は悪いですが、麻薬中毒の患者がクスリを見たときのような。
ですから、苦しくても兼業がつづくんだろうなと思います。
今書いているのはドミニック・フェルナンデスの『ポルポリーノ』というカストラートを主人公にした本です。カストラートというのは17世紀から18世紀にかけて一世を風靡した男性ソプラノ歌手のことで、男性なのに女性の音域まで声が出て、しかも声帯が強く胸郭が広いので朗々とひびかせることができる。透明感のある歌声は聴く人々を夢中にさせたといいます。最初は女性が立ち入ることを禁止されていた教会の聖歌隊のために養成されたのですが、オペラ界でもひっぱりだこになり、作曲家たちはこぞってカストラートのための役を書きました。モーツァルトやロッシーニのオペラにもカストラートのための役があります。
『ポルポリーノ』の主人公はそのカストラート歌手を養成する音楽学校の生徒で、自分が「男の子でも娘でもない」ことを恥ずかしいと思っています。でも、友人がこう言うんです。
「いったい誰が、ぼくたちのように二重の生活を、二重の可能性をもってるんだ?
男でも女でもないっていうのは、言い換えれば同時に両方でもあるってことなんだ。すばらしいことじゃないか? 君は何にでもなれるんだ。なにしろ君はなんでもないんだから!」
ここで私はぐっとくるんですね。私もときどき、自分は世界を又にかけて活躍しているピアニストでもないし芥川賞作家でもない、結局、弾くのも書くのもどっちもたいしたことがないのに合わせ業で何とか世渡りをしていると嫌悪感に責めたてられることがあります。弾く世界でも書く世界でも壁にぶつかるし、壁は二重でいやになることもあります。でも、作家の友人からは演奏家としてステージに立てるなんて・・・とうらやましがられるし、ピアニストの友人からは、自分たちの知らない世界を知ることがたできて・・・とうらやましがられます。
だからやっぱり二重生活をつづけていくんだろうなと思います。
2)『ムジカノーヴァ』の連載。
音楽之友社から出ている雑誌に連載していた『ピアニストは指先で考える』というエッセイは今年の5月に単行本になりました。そのあと、『わが偏愛のピアニスト』という連載をはじめています。これは、有名・無名、老若男女かかわりなく、自分が興味をもつピアニストを独断と偏見で選んでお話しを伺い、まとめるコーナーです。
普通、ピアニストの経歴というと何々コンクールで優勝、そのあとどこそこでデビューして絶賛を博し、以降各地で演奏活動をつづけている・・・というようなポジティヴな面しか出てきません。何々コンクールでは失敗して絶望の淵に沈んだとか、どこそこでは失敗して酷評されたとか、指を故障して弾けなくなったとか、あるいは誰それと不倫の恋をしたとか・・・作家や作曲家や画家、映画スターでもジャズやポップスの歌手でも、はたまたスポーツ選手でも公にされる負のエピソードはすべてカットされるのが普通です。
聴衆にとって演奏家は神のような存在です。ステージで舞台照明をあてられていると実際より大きくみえるし、すばらしい演奏家になるほど輝いてみえます。だから、聴くほうは彼らは何の悩みもなくやすやすとステージをこなしているのだと考えがちです。でも、実際にはどれほどのプレッシャーに耐えているか。また、ステージに上がるまでにどれほどの挫折を体験してきたか。その挫折が演奏家を強くし、演奏に深みを与えているわけですから、全部きれいごとにして何になるかというのが私の考え方です。ですから、私のインタビューではそんな挫折の体験や、過酷な演奏活動についても聞き出して、ピアニストたちのご了解をえた上でご紹介しています。
フジ子ヘミングさんや梯剛之さんのようにハンディキャップのあるかたがたが注目を集めているのも、聴衆があまりに神格化された演奏家に親しみをもてなくなっているからではないでしょうか。お二人は本当にすばらしいピアニストなのですが、今は逆に何もハンディがないとマスコミの話題にならないという逆転現象が起きているんですね。これも困ったもので、五体満足の演奏家たちにだってたいへんなことはいろいろあるし、彼らの人間的な側面を明らかにすることによってより親しみをもって演奏にも共感をもっていただきたいと考えているわけです。
3)ホンモノが好き。
亡き祖父青柳瑞穂はフランス文学翻訳のかたわら骨董を収集していました。世間では彼が市井の名もない店から思いもよらない逸品を発見した話をよろこんでくださいますが、私が一番興味があるのは彼がもっていたホンモノの目です。
彼は阿佐ヶ谷会といって、中央線沿線の文士たちが集うサロンに会場を提供していました。それは、家が広くてたくさんの文士たちが集まることができたということの他に、皿小鉢類がどれも祖父の収集品でひと味違っていたということもあったようです。
祖父は、骨董を通じてホンモノを見分ける鋭い目を養っておりました。その目を彼はそうそうたる文士たちにも向けます。玄関に牛の置物がありました。帰る人が靴をはきながら、何かほめなきゃと思ってその角をほめる。でも、角はあとから付け足したもので、本当は目をほめなきゃならないんですね。祖父はそれを口に出して言わず、あとでさりげなくエッセイに書きます。
また、太宰治は骨董が全然わからなかったので、祖父の家にあるものはすべて掘り出しものだと思っているんですね。あるとき、アルマイトのやかんを見て、これはどういう出自のものか尋ねたので祖父は困ったような顔をして何も言わなかったそうです。
太宰とちがって井伏鱒二は骨董収集が趣味で、『珍品堂主人』のような、骨董をテーマにした小説も書きました。祖父は備前の壺が好きな井伏のために自分の収集品のひとつをゆずりました。ときどき井伏邸に遊びに行くと、壺は床の間に飾ってあるんですが、一番のみどころの灰のなだれの部分が壁に向けてある。お手伝いさんが間違えたのだろうと思ってこっそり反対に向けておくが、次に行ったときにまたなだれが後ろに向けてある。
祖父にとっては、自分だけがホンモノを見抜く目をもち、周囲の人々にはそれがわからないというところがとても快感だったようです。祖父は、その快感をこっそりしまって、ときどき随筆でほのめかす程度にとどめました。
でも私は腹が立つんです。偽物がまかり通っていたりホンモノが排斥されたりするのを見ると。それが、私がモノを書く原動力になっているし、どうしても敵をつくるし、祖父のように穏やかな文人としての生涯をまっとうできない所以でもあります。
また、一人の人の人生を追っていても、ホンモノをつくったり演奏したりしていて、途中で偽物に迷いこむ人がいます。というか、どんな芸術家もずっとホンモノをつくりつづけていくのは至難の業です。どこかで迷うポイントが出てきます。そうすると、それは何故か、どうしてそうなったか、考えるのが好きです。
ホンモノが偽物になるには、創造者が悪いというよりは、創造にかかわる人々、編集者とか出版社とか、演奏家ならマネージャーとかレコード会社とかに左右されるところが大きいと思います。聴衆や読者はホンモノがわかると思います。でも、仲介する人々は、かえってホンモノがわからず、偽物のほうが「売れる」と思い込んでそういう方向に導く。書き手や弾き手はそれにまどわされる。そんな偽物製造の過程に興味があります。
私がピアニストたちの取材をするのも、彼ら、彼女らがステージで演奏しているときの誰にも助けてもらえない、本当の真剣勝負が好きだからです。あの場でも誰もウソがつけません。ごまかすこともできません。音楽の神様がステージの片隅にいて、演奏家はいつも神様の意向に副うように、ホンモノの音楽だけを求めて演奏していきます。霊感がおりたときのピアニストは本当にいい表情をしているし、美しいと思います。
そしてまた、ステージを降りたピアニストは本当に謙虚で、すばらしい演奏家になればなるほど率直で、自分たちが音楽の神様に対して少しでも意に沿わないような演奏をしたときにはきびしく自分を責めます。その姿勢こそがホンモノだと思います。だからこそ、彼ら彼女らの謙虚さ、求道的な姿勢を逆手にとって、必要な営業努力もしないで「売れないから」と経費をアーティストに背負わせてこと足れりとする音楽業界やレコード産業の在り方に疑問を感じてしまうのです。
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「こころの時代」のパーソナリティ、鈴木健次さんにお渡ししたのは以上の文章だが、最後の一行についてはもう少し説明する必要があるだろう。
演奏・文筆活動を平行させるようになって11年がすぎようとしているが、その間、両方の世界の違いのようなものを否応なしに体験させられてきた。
『ショパンに飽きたら、ミステリー』が刊行されたのは1996年9月、その2ヶ月後に最初のCD『ドビュッシー・リサイタル?』がリリースされた。音楽事務所の担当さんに「本は何部ぐらい刷ったのですか?」ときかれて「4千部」と答えたら、担当さんは「4千もですか!」と驚きの声をあげたものだ。
書籍でも、人文書といって売れないジャンルの場合はだいたい3千部から話が始まるから、4千Z少しも多い数字ではないのだが、レコード業界で4千といったら大ヒットの部類にはいるだろう。出版界の最低部数3千に対して、レコード業界の最低枚数は千枚(最近ではどんどん下がり、数百枚が実情らしい)。出版界で大ヒットは10万部だが、レコード業界では1万部。そのぐらいマーケットに格差がある。
最初にドビュッシーのCDを出したいと思ったとき、いろいろなレコード会社に話をきいたが、ある大手から、3千枚プレスするのでそのうち2千枚は買い取ってほしいとこともなげに言われた。この「買い取り枚数」は誰もつまびらかにしないのではっきりしたことはわからないが、業界の常識なんだそうだ。
結局、大手はあきらめてインディーズのレコード会社を紹介してもらった(その後、その会社はクラシックから撤退し、多くのすばらしいアーティストや有能なスタッフが路頭に迷った)。インディーズの場合、赤字を出さない目安は千枚とのこと。そのうち700枚を買い取ってほしいと言われたが、そのくらいはコンサートなどで簡単にはけてしまったし、評判もよかったのでつづけて出ることになった。
なかでもクープランのクラヴサン曲と組み合わせた『雅びなる宴』はけっこう売れたらしいが、買い取りノルマはなくなったものの、レコード印税、演奏謝礼ともにもらっていないし、契約書もかわしていない。何枚プレスして何回リプレスして累計何枚売れたかという、本を出せば必ず明示されることもつまびらかにされていない。
97年3月にはドビュッシーの評伝が出版され、それを読んだ新潮社の編集者から電話がかかってきたり、『ショパンに飽きたら・・・』を読んだ白水社の編集者に安川先生の評伝『翼のはえた指』を提案され、その本が1万部を超えたり吉田賞を受賞したりして、文筆業は軌道に乗ってきた。
私の場合、いつも文筆が先行し、演奏はあとから追いかける形になる。2002年に『水の音楽』の書籍・CDを同時刊行したときも、まず書籍の企画がみすず書房で通り、それなら本でとりあげている水にまつわるピアノ曲もレコーディングしようと思い立ったのがきっかけである。
同時刊行にあたってぶつかった数々の障壁についてはもう思い出したくもないが、もともと「出版界」と「レコード業界」のマーケットに差があるところにもってきて、私自身の「文筆家」と「演奏家」にも格差があるので、なかなか珍しい体験をさせてもらったと思っている。
このときのCDは大手のレコード会社だったので、はじめて契約書なるものをかわし、5百枚の買い取りを条件にレコード印税をもらっている。印税といっても、書籍の印税の5分の1ぐらいだが、これまたクラシック業界の常識らしいのだ。
少なくとも文筆業の場合は、仕事をしたらなにがしかの原稿料、印税がはいる。商業ベースに乗っている本と自費出版の本では、書店等の扱いも、新聞・雑誌の書評等の扱いもまったく違う。
しかし、演奏の場合は、かなりのビッグネームでも本当に弾きたいプログラムでのリサイタルは自分で会場や印刷費・宣伝費を支払う自主公演の形を求められるし、CDもまた、売れ具合によって何百枚、何千枚を弾き手が「買い取って」いるか、あるいはホール代、録音代、広告代など経費をすべて支払う自主制作が多い。
自主公演のリサイタルでも自主制作のCDでも音楽雑誌やレコード店の扱いは変わらないし、批評も等しく載る。クラシック業界はアーティストの自己犠牲の上に成り立っていると言っても過言ではないほどなのだ。
出版界では書き手が企画を提案すると、編集会議にかけ、営業の会議にもかけて慎重に討議し、タイトル、ページ数を決め、帯のキャッチコピーも編集部で知恵をしぼる。その作業は、何万部も出る売れっ子でも、私のような何千部の書き手でもかわりない。本は出してしまいさえすればあとは出版社の方で広告を打ち、営業が書店をまわり、何とか売ってくれる。売れれば増刷し、再度印税がはいってくる。
出版界の場合は、もちろん何十万部も売れる本に越したことはないだろうが、必ずしも売れる本がよい本とは限らず、人文書の担当編集者はそのあたりをきちっとおさえて、書き手のプライドに傷をつけないように配慮する。
しかし、レコード業界では枚数だけが最重要課題なのだ。営業も、大手ではクラシックだけではなくポップスや演歌まで兼ねているときく。枚数が出なければ、どんなにすばらしいキャリアを重ね、よい企画を提案し、よい演奏するアーティストでも「自主制作」ランク、あるいは「買い取り」ランクに格付けされる。そして、「自分もち」あるは「買い取り」枚数をクリアするためにたくさん「自主公演」を打ち、自分で宣伝し、サイン会を開いて会場で売らなければならない。
このごろでは、経費をおさえるために「ライヴ録音」が大流行している。「ライヴ」といってもリハーサルで録音し、カバーしきれないときは演奏会のあとも録音するらしい。
クラシック業界しか知らなかったらそれが当たり前なのだからとすなおに従っていたと思うが、私の場合は書く方が常に先行し、しかもある程度うまく運んだために、幸か不幸か、知らなくてもいいことを知り、感じなくてもいい不満を感じるようになってしまった。それも、個々のレコード会社やディレクターへの不満というよりは、アーティストにばかりしわ寄せがいくような仕組みになっている業界全体の体質に怒りをおぼえることが多い。
アーティストの自助努力のおかげで何とか成り立っている業界というのは、本当は成り立っていないのだ。でも、アーティストにもプライドがあるから、そのあたりの事情は明かさない。謙虚に、音楽の神様に奉仕し、謙虚に自己批判し、謙虚に日々努力していく。
そんなアーティスト気質、高いものをめざして努力する求道的精神、利益を求めない純粋な気持ち、ある意味受け身の姿勢を前提にした業界だから、いつまでたっても発展していかない。でも、「被害者」がいないから、糾弾もできない。
やっぱり、何かおかしい。 |