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2007年4月9日/吉田秀和さんの文化勲章を祝う会 音楽評論家の吉田秀和さんが文化勲章を受賞され、2007年2月6日、都内のホテルでお祝いの会が開かれた。実際に勲章が授与されたのは昨年秋で、新聞で報道を見たときは一瞬、えっ、まだ受賞してらっしゃらなかったの? お元気だからいいけど・・・と思ったりしたが、大いにおめでたいことなので、出席のお返事を出した。 そうしたら、事務局からスピーチしてもらいたいという依頼のお便りがきた。ほかにたくさんいらっしゃるでしょうと思ったが、私は吉田秀和賞という評論の賞をいただいているので、その関係からだという。吉田賞だって私の前にたくさん受賞なさっている方がいらっしゃるのだが、きっと皆さんお忙しくて欠席なのだろうと思い、お引き受けすることにした。 秀和さんの会だからさぞやたくさんの方がスピーチなさるんだろうと思っていたら、発起人代表の作家丸谷才一さん、文芸評論家の加藤周一さん、作曲家の池辺晋一郎さん、そして私の四人だけだという。人数が少ないので一人あたり10分はしゃべっていただきますと言われた。 そこで、以下のような原稿を用意した。 秀和さん、おめでとうございます。 えー、私は、秀和さんが奥様を失くされて、お膝を傷められたころに一度お宅に伺ったことがあります。まだ朝日新聞の書評委員をしていて、秀和全集の書評を書かせていただいたりして、読者から、「あの偉い評論家を評論するんだからたいしたものだ」という感想がきたり・・・。 皆さんご存じのように評論家と演奏家は敵対関係にありますが、私のような底辺の演奏家にとって、秀和さんは生殺与奪の権利をもつ評論家ではないんです。もっと世界的な存在じゃないと評論なさらないですから、こわい評論家というイメージは全然なかったんです。 秀和邸訪問記の模様はホームページの日記にアップしてるんですが、まずお宅が全然見つからない。ネットで地図プリントアウトして、念のために交番でもきいていったんですが、目あての路地にはいっても、それらしい表札がない。何度かいきつ戻りつしたあとでたまりかねてお電話しました。そうしたら、どうも私が立っていく目の前のお宅らしいんですね。でも、表札がないよって言いましたら、秀和さん、「前はあったんだけど字が流れてしまったんだ」っておっしゃる。よくみると、たしかに薄ーく字の残った形跡のある板がはりつけてある。それから門をあけようとするんですが、これがまた開かない。秀和さんはお膝を傷めていらっしゃるから門の外に出ていらっしゃれない。またお電話して「開かないよ」って言ったら、門の上から腕をのばして掛け金をはずすんだっておっしゃる。でも、私は自慢じゃないがすごくチビで腕が短くてなかなか掛け金のところまで手がのびないんです。うんせうんせ格闘してようやくはずしてお玄関のところにたどりついたら、松葉杖の秀和さんが心配して出てこようとなさっているところでした。 そこで何をお話したか、日記では秘密にしてわざと書かなかったんですが、今日、ちょこっとお話しします。まず申しあげたいのは、その日はお手伝いをなさる方がいらっしゃらない日で、秀和さんはお一人で大きな日本家屋にいらしたということです。それで私の方は、ふと、あっ、今私は男の人とお家の中に二人っきりなんだ、とちょっと思ったんですね。なんか、そういう風に思わせる色気みたいなものが秀和さんにはありました。秀和さんのほうは、まさか、女がたった一人でたずねてきたんだとはお思いにならなかったでしょうけれど、私はちょっと現役バリバリ感を感じました。 秀和さんはその日のお話の何かの折りに、演奏家と個人的な接触をもつと批評にさしさわるからなるべく避けている。で、あなたはもうぼくらの仲間なんだからいつでも遊びに来ていいんだよ、と言われたんです。それって、私的にはちょっと抵抗があり、もちろん秀和さんが評論していらっしゃるキラ☆のようなアーチストではないけれど、私も一応ピアノ弾いたりしているわけで・・・。 それと、これが一番キモだと思いますが、秀和さんは、あなた、何をあせってるんだね・・・とおっしゃいました。私はとにかく新聞とか雑誌にエッセイを書くと、それを一冊の本にまとめたり、何かのテーマで書きたいと自分から出版社に持ち込んだりして、それも1冊につき3社は編集会議ではねられたりして、ようやくこの間本を10冊出したばかりなんですけれど、秀和さんはそういうことを考えてもみたことがないそうです。 まわりを見わたすと、自分の相手になれるような存在は一人もいない。だから鷹揚にかまえ、いろいろなところに書いたものもいつか誰かがまとめてくれるだろうと信じて、自分から本にしようなどとは考えたこともない、とおっしゃっていました。その超絶感というか、強大な自信というか、すべてを俯瞰するまなざしに私は打たれてしまいました。 だからといって同じようしたら、私なんぞ最初っから最後まで放っておかれっぱなしなわけですけれども、心底すごいなと思いました。 では、何が秀和さんをしてかくも超絶させているかというと、演奏というものを読む者に喚起させる圧倒的な文章力だと思います。秀和さんの文章を読むと、その演奏や演奏家のありようがまざまざと目の前に浮かんでくるような気がするんですね。日本の音楽評論はどちらかというと知的な理解からはいるものが多かったような気がしますが、秀和さんの評論は、もちろん知的な理解や分析の支えあってのことですが、演奏という、音楽が今、奏者の身体を通して命をもって立ちのぼる瞬間が、秀和さんの筆を通して読み手に迫ってくる。 それは、私が秀和邸で感じた現役バリバリ感と合通ずるものがあるような気がします。 「ものには決まったよさはなく」というのは、秀和さんの言葉のなかでもとりわけ好きですね。秀和さんご自身が、時代の耳の移りかわり、それにつれて変化した、あるいは逆らって変化していくご自分の耳を客観的に「おもしろがって」観察してらっしゃる。よく我々の笑い話として、赤いつもりで弾いたのに「青くなかったからよくなかった」と書かれることがあるんですが、秀和さんは「赤じゃないからいけない」とは書かない。「赤くても青くてもおもしろいじゃないか」とお書きになる。もちろん、赤くても青くてもおもしろくなければ全然ダメなわけで、余計きびしいとも言えます。 秀和さんの評論でおもしろいと思うのは、ステレオタイプの一歩先をゆくところです。解釈にはオーソドックス派と非オーソドックス派があり、それを擁護する評論も存在するわけですが、秀和さんは人目をひくために変わった新しい趣向を凝らしているとされている演奏でも、「実際に、新しい感性と思考をもって生まれ、育ち、工夫としてだはなく、音楽を新しく感じ、それを表現するのに、誠実な努力をしている結果が、なじみの曲の新しい解釈になったのだという成り行きのケースもある。そうではない人の場合とはわけて考える必要がある」と書いています。 その見さだめこそが、批評の核だとおもいます。つまり、ホンモノかホンモノじゃないかということですね。 文章の喚起力、比喩(ひゆ)のうまさにはうならされます。モーツァルトを弾くブレンデルは、「巨人がわざわざ小さな自転車に乗って苦労して走っている」ようだ。グルダはモーツァルトを弾いたあと、ニヤッと薄笑いを浮かべる。「ひとをバカにしている」ようでもあり、「照れた揚げ句、自分で道化を演じている」ようでもあり。内田光子さんのシューベルトについて、「自分でみつけた、深みにはまってしまった音楽」・・・しかし、決して否定的ではないです。ウィーンに生まれ育ち、その伝統を土台としながら反逆しているグルダの場合と違って、内田さんは「伝統のない、苦しい闘いを強いられ、その中から、こういうシューベルトのようなものをつかみとり、いや、つくりあげている。偉いものだと思う」と長い目で見ていらっしゃる。 最後に、朝比奈隆さんについて書かれた秀和さんの文章を、もう一度生まれ変わった秀和さんにお返ししましょう。 「彼は全身全霊を込めてやりたい音楽を見いだし、いくらやってもこれで終(おわ)りということにならないので、くり返しやらずにいられないということを身をもって示した芸術家だったのである」 祝賀会当日は開始時刻に遅れそうになってあわててタクシーでかけつけたら、丸谷才一さんのスピーチの最中だった。秀和さんはとても運のよい書き手である。彼が評論を書きはじめたころは、ちょうど日本がクラシック音楽を大いに聴きはじめる時期と合致して、聴き手も書き手もお互いに高めあった幸せな時代だった。秀和さんの文章は世代を越えて愛読されている。げんに自分の息子なども秀和評論の大ファンである。こうしている間も全国津々浦々の家庭で秀和全集は読まれているだろう、としめくくっていらした。 『挨拶はむづかしい』という著書もある丸谷さんは見事にきちっと10分で終了。つづく加藤周一さんは、秀和さんの亡き奥さま、バルバラさんの論文集の日本語版『日本文学の光と影』が出版されたばかりで、そのことを紹介して下さったのだが、リキがはいりすぎたか、予定を大幅に越えて40分のスピーチ。宴の最後には中村紘子さんと堤剛さんの室内楽も予定されているので、申し訳ないが私と池辺さんのスピーチはカットと告げられた。 そこで安心してサントリー差し入れのワインを飲み、おいしいローストビーフやお寿司をたらふく食べていたら、また事務局の方がやってきて、やっぱりスピーチしてほしい、ただし時間がないので2〜3分におさめてくれとのこと。 そこで予定原稿の前半ぐらいをダイジェストでお話したが、会場にいらした作家の堀江敏幸さんによれば、あんまり誰もきいていなかったとのこと。私のあとには座談の名手で知られる池辺晋一郎さんがスピーチされたのだが、やはり会場はざわついていたから仕方ない。でも、中村紘子さんがピアノの前に座り、堤剛さんがチェロをかまえたら、さすがにシーンとなった。 演奏終了後、中村さんと堤さんも短いスピーチをなさり、最後に秀和さんが挨拶に立たれた。その挨拶がとてもウィットに富んでおもしろかったので、ノートしておけばよかったと悔やんでいたら、後日事務局の方から文書の形で届けられた。 以下にその内容をご紹介しよう。 「(前略)今日お集まりいただいたのは、私が『文化勲章を頂いたので、それを祝うため』というのですから、本来ならそれに因んでお話しなければなりませんが、そもそも勲章といっても、『日本国天皇はお前にこれを上げる』と書いてあるだけで、なぜという理由は一言半句ありません。だから、これについて何と申し上げるべきか、迷ってしまう。もっとも、今日は、丸谷さんのように私が日ごろ敬愛してやまない方から大変好意と理解にみちたお言葉を頂きました。私がいかに偉い人間で、りっぱな仕事をしたかは皆様もようくおわかりになりましたでしょう。私自身もなるほどそういうことかと思った次第です。でも私が同じことを重ねて申す必要はない。となると−−あと残るのは悪口だけじゃないですか! 悪口なら、私も得意、特に私自身の悪いところとなれば、山ほどある。学問も足りないし、才能にも乏しい。ひとさまのことを論じて理解の足りない、あるいは不当な判断を書いたり、口にしたりしたことも少なくない。けれども、そんなことをこまごまとお話し出したらきりがない。それに、皆様もそれをきいて、こんな奴のために何だってわざわざここに来たんだろう? と暗い気持ちになりはしないでしょうか。そうなったら申し訳ない。 それやこれや、どうしたものか? と考えていたら、この勲章を頂いた当時、日本を代表する大新聞のコラムる『今年の受賞者の平均年齢は80何才。どうも勲章は長生きして年寄りにならないともらえないらしい』なんてことが書いてあったのを思い出しました(原稿にははいっていないが、スピーチではこのあと、『これには私、いたく傷つきました(笑)』というくだりがはいっていた)。私は1913年9月23日の生まれ。去年の11月3日は93才と40日だった。従って平均年齢が例年に比べて、むやみと高くなったことについては私の責任大なるものがあったわけです。私がとっくに死ん でいたら、こんな事態にはならず、平均年齢はずっと低くなり、もしかしたら、あのコラムの筆者も定年退職になるかならないかで、平均年齢算出の名手として文化勲章をもらうことになったのではないか。もちろん、勲章のことで、私がきめるわけではないので、保証の限りではありませんが、少なくとも、その可能性は大きくなるところでした。正に長生きは他人の迷惑と大いに反省した次第であります。 去年の秋から今年の正月、私はいつにまして、たくさんの方々からお便りを頂いたのですが、その中にはお祝いの言葉と共に『今ごろ受賞とは何だ。おそすぎたよ。何故もっと早くもらわなかったんだ』とお叱りとも、督励ともつかぬお言葉をつけ添えてある方も少なくありませんでした(私も、そう思った・・・)。そういわれても−−くりかえしますが−−これは私がきめたことではなく、天から降ってきたことなので、ご返事の仕様がなく困った次第であります。 その中で、ある人が、この制度が出来て以来の受賞者の名の一覧表を下さった。それをみてみますと、長岡半太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、西田幾多郎、柳田国男といった学者から幸田露伴、谷崎潤一郎、永井荷風、川端康成その他の小説家、文学者、さらには横山大観、川合玉堂、梅原龍三郎、安井曽太郎ら美術家、画家等々の大家名手の名前がずらり並んでいる。壮観でした! 日本文化の大空に輝く星々のような方々がこんなにたくさんいた。私はただただ、圧倒される想い。さらに注意してみると歌舞伎や能の名優天才の名もあり、実に豪華な絵巻を作っていく。では私の商売の音楽畑からは誰だったか? と思って読んでみたがなかなかみつからない。しかしなお探している内についに、山田耕作、朝比奈隆、この二人の名が出てきました。でもそのほかは一つもみつからないんですね。どうして? 日本にだって音楽家はこのほかにないわけでもなかったのに−−(安川加壽子先生は、74歳で亡くなったとき文化功労者だったから、もう少し長生きなさっていたら必ず文化勲章を受けていらしたにちがいない)」 私がスピーチ原稿の中で書いたように、秀和さんは音楽評論の高みにいて、自分をことさら売り込む必要もなく、超然とかまえて何もフラストレーションを感じていらっしゃらなかった。しかし、皮肉なことに文化勲章を受賞してはじめて、私がいつも切歯扼腕しているようなことに直面されたんだろうなーと思った。 つまり、いくら秀和さんが音楽評論の世界では唯一無二でも、日本の社会では、音楽じたいがほかの芸術に比べて重要視されていない、秀和さんが文化勲章受賞者の平均年齢を一人で引き上げてしまったのもそのあたりに起因している、というようなことだ。 でもまた、以前からそのことに気づいていらしたら、日々ストレスを感じ、いろいろなことに怒ったり、いろいろな折りに壁にぶつかってくずおれたりしていたろうから、もしかすると93歳までかくしゃくとなさっているのはむずかしかったかもしれない。 秀和さんはスピーチをこんな風にしめくくった。 「しかし、今度私だって頂いたんですから、これからはつぎつぎと出て来るんじゃないか。こう申せば、皆様も、そうだ、あの人、この人・・・と、きっといろんな名前が頭に浮かんで来るに違いない。私は、今、この席を借りて、その音楽畑から選ばれるであろう未来の、それも遠くない明日明後日の受賞者のために、−−ついさっき乾杯して頂いたばかりでご迷惑かもしれませんが−−皆様にもう一度、乾杯して頂きたいと考えるのですが、いかがでしょうか?」 出席者一同グラスを持ち、「未来の文化勲章受賞者のために乾杯!」と唱和して会はお開きになった。 |
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